第3話
メルが不思議そうな顔をしてヒオリを見ながら、ぐっと重い扉を開いた……瞬間である。
「ヴェロニカ!リリアンに謝ってくれ!」
二人の耳に届いたのは、強い怒りと苛立ちを含んだ青年の声。
ぎょっとヒオリが視線を声の方向に転じれば、そこには剣呑な雰囲気をまとう一団が一人の女性をとり囲んでいた。
ぴりぴりとした空気を肌で感じてしまい、ヒオリの眉間には自然としわが寄る。
思わず立ち止まってしまったせいか、二人が入室してきたことに騒ぎの原因たちは気がつかなかったらしい。
温暖な気候を好む植物たちが植えられている温室。
大きな花畑の周りにいる彼らは全員この研究所の研究員たちのようで、性別は問わず若い者が多い。
集団で固まっている者たちと、対して彼らの向かい側には一人の女性。
彼女は実験のための植物を採取している最中だったのか、手にはチコリーの根とスコップを持っている。
はたから見れば、大勢で女性一人を追い詰めているようであまり見ていて気持ちのいいものではない。
自分たちがどう見られているかわかっていないのか、一団の前に立っている男がさらに大きな声をあげる。
「ヴェロニカ……、何か言ったらどうだ?それとも彼女に意地の悪いことを言ったことを弁明するつもりはないのか!」
白衣姿の、金髪赤眼の青年である。
顔立ちは美しいが目の下にくまが濃く浮き出ており、全体的にやや疲労して見える。
人の顔を覚えることが苦手なヒオリだったが、この疲れた顔をした男のことは流石に知っていた。
彼は自分たちが所属するディアトン国立魔法研究所の二代目所長にて年若き魔法学博士、その名をクロード。
覚えている限りで彼は非常に温厚な人物であり、決して他人に対して声を張り上げることは無かったはずだ。
しかし今の彼は表情も険しく、怒りの感情があまりにもわかりやすい。
別人なのではとヒオリが疑うほどひりついた雰囲気のクロードが睨みつけているのは、赤毛の女性であった。
背筋がすっと伸びた、姿勢のいい美女である。
体格がいいわけではないが、大声を張り上げられてなお動じていないためか、堂々たる迫力がある。
ややつり上がった金色の目でクロードの眼差しを真っ直ぐに受け止め、彼女は口元に手を当てて笑った。
「うふふ、申し訳ありません。あまりのことに少し驚いてしまいましたの。クロード様に話しかけられるのは久しぶりでしたし」
「な、何をのんきな……!それにクロードさんに相手にされないのは、貴女の性格のせいでしょう!」
クロードの背後にいた女性職員が噛みつくように反論したが、その額には薄っすらと汗が滲んでいた。
怯えているのが一目でわかった。
一対多数という圧倒的不利な状況にも関わらず、赤毛の彼女があまりにも優雅だったからだろうか?
否、それだけではない。
ヴェロニカの堂々たるその表情から、異様なほど冷ややかな雰囲気を感じたことが一番の原因だろう。
間近でそれを感じていた数人が、相対しながら顔を青ざめさせている。
数では圧倒しているが、空気では明らかに負けている。勝敗は喫しているようなものである。
しかしクロードは状況に気付かぬのか、負けじと彼女に向ける視線を鋭くした。
「ヒオリちゃん、ヴェロニカさんだよぉ。クロード所長の婚約者の……」
ぽつりと小さくメルが告げる。
彼らの雰囲気にあてられたのか怯えたように眉を垂れ下げる彼女に、ヒオリも静かに頷いた。
魔法道具開発部部長ヴェロニカ。
魔法研究所きっての才女で、専門は魔法茶器。幾多の発見、発明をし、ディアトン国からもその才能を認められている。
実家も資産家で各方面への繋がりが太く、一代目所長であるクロードの父にぜひにと頼まれて結婚の約束をしたのが3年前だっただろうか?
婚約してからの二人がどういう関係を築いてきたのかは知らないが、ヒオリたちの目の前で繰り広げられている光景からは良好さはうかがい知れない。
部外者である自分たちがいつまでもここにいていいものでは無いだろう……そう考えて立ち去ろうとした瞬間、ふとヒオリは気付く。
クロード所長の後ろ、他の人間たちにも守られるように身を小さくしている白衣の人物が目に留まったのだ。
「メル……あそこにいるのがリリアンさんなの?」
温室の光に照らされて輝くプラチナブロンドと真っ白な肌は、おとぎ話の妖精を思わせる儚さ。
眉をたれ下げて震え、白衣の袖をぎゅっと握る仕草は、何処となくあどけなくて愛らしい。
ヴェロニカが『女帝』なら、彼女はまさに『姫君』といった様子である。
彼女から目を離さずメルに問いかけると、友人はこくりと頷いた。
「……うん、そうだよぉ。あれがリリアンさん。最近、クロード所長と仲がいいみたいなんだぁ」
密やかに告げたメルの言葉は、どうやらやんわりとした表現になっているとヒオリは察する。
同時に先ほど彼女が言った「色んな人たちを『取り巻き』にしちゃうの」という言葉を思い返していた。
§
ヒオリは改めてリリアンたちを眺め、片眉をぐっと持ち上げながら声を潜める。
「あれはあんまり、良くないね。悪い意味で目立ってしまうわ」
「止めた方がいいかなぁ?もう始業時間ははじまっているし」
おずおずと問いかけられ、ヒオリはしばし迷う。
婚約者同士のもめごとなど、所詮当人同士の問題である。他人が首を突っ込む方が、クロードやヴェロニカにとって迷惑だろう。
しかし二人とも部署こそ違うが、同じディアトン国立魔法研究所の博士である。
複数の職員を巻き込んでいるようだし、あまり大事にしては研究所の今後にも関わるかもしれない。
どうするのが正解かと頭をかいていると、ふとその時ヴェロニカの金色の瞳がこちらに向いていることに気が付く。
すぐにクロードへ目線を戻して、どうやら彼女はヒオリたちの登場に気付いていたらしい。
気付かれているなら、見て見ぬふりをしない方が得策か───。
打算も働き、やや面倒くさい思いを抱えながら顔に笑みを張り付ける。足音をたてて彼らの元に歩み寄り、努めて空気を読まない明るい声で挨拶をした。
「皆さん、おはようございます。お集まりですが、どうかしたんですか?」
「……え、あっ!」
ようやく彼らは自分たちがいたことに気が付いたようで、顔を強張らせてこちらを見た。
クロードなどヒオリとメルを見た途端、険しかった表情をいつもの気弱そうな二代目所長へと戻している。
その変化が面白いのかくすくすと微笑みながら、ヴェロニカは婚約者を見つめていた。
「クロード様。他に利用者が来ていましてよ。あまり長居するのはよろしくないのではなくって?」
「う……。わかった。だが君を許したわけではない。また話をしよう」
「ええ。今度は個人的に」
妖艶に唇をつり上げる彼女を悔しそうに睨み見て、クロードたちはリリアンの背を押してその場から立ち去っていく。
最後までリリアンは彼らに守られたまま一言も発さなかった。しかし何処となく恨めしそうにヴェロニカと……ヒオリたちに視線を転じたことが気になった。
一団の気配が完全に温室から姿を消して、ふとヴェロニカが憂いを帯びたため息をつく。
「ありがとうございました。朝からトラブルに巻き込まれて大変でしたわ」
「いいえ、その、何といったらいいか……」
朗らかなヴェロニカに、ヒオリとメルはどんな表情を浮かべていいものかわからず顔を見合わせる。
金色の目を細めた彼女は、自分の婚約者が出て行った扉に視線を転じて軽い調子で呟く。
「いいえ、最近はいつもああですのよ。お気になさらないで」
「いつもって……。ヴィクトル前所長にはお伝えしたんですか?」
「ええ。でも前所長は婚約前の軽い火遊びと考えていらっしゃるようで……」
苦笑する彼女に、ヒオリは顔を歪める。
クロードの蛮行を最もいさめなければならないのは、親……ディアトン国立魔法研究所前所長ヴィクトルであろう。
これがエスカレートしたら、婚約自体が破断になってしまう。
ヴィクトル前所長は、世間へのイメージや研究所への打撃を考えられないほど愚かな人間ではないはずなのだが。
(しかしさっきの光景……夢で見たまんまだわ……)
前所長の対応も気になるが、最も引っかかるのは己が昨日見た夢のことである。
舞台に上がって劇を繰り広げていたクロードは、リリアンを傷つけるものから彼女を守ると言っていた。
それに、自分の婚約者がリリアンを亡き者にしようとしている、とも。
流石にヴェロニカがリリアンに手をかけるとはヒオリも思わないが、クロードが自分の婚約者を敵視しているという所はよく似ていた。
(やっぱり何かの魔法の効果?予知夢、とか?だけどそんな効果のある魔法なんて聞いたことは……)
つらつらと考えていると、ふいに奥の通路からこつこつと床を踏み鳴らし、こちらへ向かってくる足音を聞く。
自分たちの他に誰かいたのか。そう思った瞬間、穏やかな声が耳に届いた。
「ヴェロニカ殿、こちらにいらっしゃいましたか」
まるで絹で包まれたような柔らかいテノールの音に、ヒオリの背筋は跳ねる。
その声に聞き覚えがあった。が、しかし、まさか、と脳みそが答え合わせをすることを拒んでいる。
凍るヒオリに対して、ヴェロニカが「あら?」と視線を横にずらした。
嫌な予感がしたが彼女の目を追うと、いつの間にか花壇のそばに背の高い男が立っている。
その姿を見てヒオリはさらに愕然とした。
上等な濃紺の布地の洒落たスーツを着込む姿は、ハイソサエティの空気を漂わせており、何処となく近寄りがたい。
それに加えて、男の顔立ちは穏やかながらも美しかった。
南の地方の出身とわかる褐色の肌と濃い黒髪。すっと通った鼻筋と長いまつげに縁取られた青い目は、見るものを惹き付けるだろう。
深い海を思わせるその瞳がふとこちらに向けられて、ヒオリは呼吸すら忘れる。
「ニール様、お待たせしてしまいました?すみません、ちょっと野暮用で」
「いいえ。……ああ、こちらはここの研究員の方ですね。どうも、はじめまして」
歩み寄ってきた男は、ヒオリの前に立つとことさら穏やかな笑みをその顔に浮かべた。
鼻孔をくすぐるマリンノートの香水に、表情が強張る。
間違いなく彼は、今日己の夢の中に出てきた男だった。
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