第2話

 ヒオリはぼんやりとした頭を振りながら、白衣に袖を通し、首からカード型の認識証を下げた。


 背が低い己には支給されている白衣がやや大きく、まるでワンピースを着ているようにも見える。

 身分証の提示をしなければ、ぼんやりした学生としか思われないだろう。

 ……たとえ中身が30間際の女だとしても。


 ロッカールームから出て、魔法薬品部門のアロマ研究室に続く認識ゲートに認識証をかざす。

 研究員や他職員全員に配られているこの認識証には魔法がかけられており、登録したゲートを開けることが可能だった。


 ひゅんと音を立てて開いた扉の向こうは様々な香りに満ちており、それをひと嗅ぎしてようやくヒオリは落ち着く。

 今朝の夢に引きずられていた気持ちが晴れていくようだった。

 

 研究室の中では、既に作業を始めていた初老の男がビーカーを振っている。

 彼はアロマ研究室の室長、ハオランである。

 ヒオリの登場に気付いた室長は、柔和な表情でビーカーからこちらに視線を転じた。


「おはよう、ヒオリくん。なんだ、ずいぶん疲れた顔をしているね」

「おやようございます、室長。昨晩は何だか寝付きが悪くて」


 苦笑するヒオリに室長は怪訝そうに眉を持ち上げながら、「へえ」と小さく唸る。


「君のアロマは安眠効果は抜群じゃないか?ん?それとも昨日完成したアロマのせいかね?試したんだろう?」

「ええ、まあ……」


 肩を竦めながら、曖昧に笑って答えた。

 ヒオリはこのディアトン国立魔法研究所に勤める博士で、特に魔力のこもったアロマを作成することを得意としている。


 常に鼻孔の中をいい香りに満たされていたい己にとっては天職であり、様々なアロマを調香するのは楽しかった。

 作った魔法アロマは必ず自分を実験台にしており、昨日枕元に置いたのは安眠用ラベンダーだったはずだが……あのような夢を見せる効果など無い。


 そもそも現代魔法が夢などの人間の深層心理に入り込む術は、まだ見つかっていないのだ。


「珍しいね。失敗したのかい?」

「失敗、だったんでしょうか?ちょっと夢見が悪くて」


 首を傾げるヒオリにハオランは、「夢見ねえ」と眉間にしわを寄せた。


「君が作っていたのはブレンドを変えた安眠アロマだろう?何か特別なことをしたのかい?」

「いいえ。イリスを加えて混ぜる魔力の濃度に変化を与えただけなんですが……そういえばなんだが夢で嗅いだ匂いもラベンダーじゃなかった気が」


 昨夜のことを思い出しながら語るヒオリに、室長は頭をかき再び小さく唸る。


「何だろう?ハーブに何か問題があったかね?はて?育て方を変えた覚えは無いんだが」


 困った表情のまま彼は、窓へと視線を転じる。太陽の日差しが漏れるそこからは、薬品部門棟の隣に併設されているガラス張りの建物が見えた。

 この研究室……否、研究所のどの部門の棟よりも広いスペースを取っている、巨大な温室である。


 内部は今日も煌々とした人口の光で照らされており、遠目で見ても酷く眩しい。


 ここは薬品の材料となるハーブ、花や樹木などを、一定の魔力の流れを与えて栽培している場所であった。

 博士たちが試作品を作るときにはだいたいここの草花を使うこととなっており、薬品部門棟だけでなく各部門からも渡り廊下で繋がっている。


「一度調べてみた方がいいかね?」

「私が行ってきますよ。私の研究ですしね」


 苦笑のまま部長に告げて、ヒオリは白衣をひるがえして温室の中に入っていった。

 育てている草木が多岐に渡るため、内部は区画ごとに温度は調整されている。


 アロマ研究室側から繋がっている廊下から入れるのは、亜熱帯の花を育てている気温湿度ともに高い区画だった。


 自然に近い状態の木々の香りもいい。

 南国を思わせる草花を見上げながら温室の中を歩いていくと、ガジュマルの木のそばに屈みこむ人影を見つける。


 ぼさぼさの長い髪を無造作に結んだその影に、ヒオリは口元に笑みを浮かべながら近づいた。


「おはよう、メル。今日は早いんだね」

「あれぇ、ヒオリちゃん?おはよぉ」


 間延びした声で己の名前を呼びながら振り返った彼女は、大きなビン底眼鏡越しの目を細めた。

 彼女の名はメル。同研究室の博士で、己と同じくアロマの調香を得意としている。


「そんなに熱心に見て、何か面白いものでもあったの?」


 朝が苦手でいつも始業時刻ぎりぎりにならないと研究所に来ないメルが、珍しく己より早い。

 気になることがあるのかと問いかければ、彼女は少しだけ難しい顔をしながら小さく唸った。


「うーん、ううん。ちょーっとねぇ。昨日から気になってたんだけど、育ち方が悪いような気がしてねぇ」

「そう?私にはよくわからないけども……」


 言われて改めてガジュマルの木を観察するが、特に昨日と変わったところは無い。

 だが自分よりメルの観察眼は優れている。彼女が奇妙だと思うのなら、その可能性は高かった。


§


 ならば昨日見た夢はやはり、ここの植物が原因なのだろうか?

 様々な可能性を頭に思いうかべながら、ヒオリは同僚に視線を戻して尋ねる。


「実は昨日作ったアロマを使ったら、奇妙な夢を見たのだけど。原因はこの成長不良にあると思う?」

「……断言は出来ないけどぉ」


 悩む顔に深刻さを足し加えて、メルは立ち上がる。

 ヒオリよりもずっと背の高い彼女は、むむっと腕を組みながらちらりと肩越しに背後を振り返った。


「ヒオリちゃんが使ったのってラベンダーだっけぇ?じゃあそっちも見に行こうかぁ」

「付き合うわ。私も原因が気になるしね」


 メルが見た方向には、比較的涼しい地帯の植物が植えられている区画がある。

 己が研究用に扱っていたラベンダーももちろんそこから採取しており、同じく何か問題がある可能性が高い。


 ヒオリはメルと二人、連れだって温室を歩き始めた。

 しばらくはここ最近の研究の成果を語り合っていたが、ふいにヒオリは昨日見た夢を思い出し、ぽつりとメルに訊ねる。


「ねえ、確か研究所にリリアンって博士がいたわよね」

「リリアン?んー、んー、ああ」


 彼女はしばし考え込んでいたが、すぐに思い出しましたとでも言いたげに、ぽむっと両手を合わせる。


「魔法道具研究部門の新人博士だねぇ。確か異例の速さで博士号を取得してちょっとした有名人になってたはずだけど。覚えてない?」

「……あんまり。確かそんな話も聞いたかなってレベル」

「アロマのことしか興味ないヒオリちゃんらしいねぇ」


 きゃらきゃらと面白そうに笑うメルに、ヒオリは肩を竦める。

 誰が博士号をとったとか、優秀な成績を収めたとか、己は昔から興味がわかない人種だった。


 しかし件のリリアン女史に関しては少し思うことがあり、メルに「どういう人だっけ?」と次いで訊ねる。


「うーん、私もあんまり知らないんだけどぉ。魔法道具……特に子供のおもちゃの作成を専門にしているって聞いているよぉ」

「おもちゃか。そりゃ専門外なわけだ。だけど魔法のおもちゃももう珍しい物じゃなくなったねえ」


 魔法で動くおもちゃは少々値が張るが、子供やその両親、一部のマニアの間から人気が高い。

 いまや『魔法』というおとぎ話と思われていた力は、おもちゃにすら使われているのだ。


 ───魔法を発動する原理がこの世界……アステラスで発見されたのは、数世紀前にさかのぼる。

 古代から『魔術師』という特異な力を持つものは存在したが、それはごく一部の限られた実力者のことだった。


 しかしこの原理が解明されて、魔法の研究はさらに進み、人類の産業革命が始まる。

 まずは鉄道や自動車、飛行機などの移動手段から始まり、生活用品から薬品、化粧品。さらには都市に電気を届ける発電機、大量破壊兵器に至るまで魔法が使われた。


 いくつかの大戦を経て、魔法は一般階層にも広がり、おもちゃやヒオリの作るアロマにもその力は注がれるようになったのである。


 この世界は魔法で動いている。

 そう言っても過言では無かった。


 そのアステラスで魔法に関する仕事に就こうとするものは後を絶たず、魔法を専門とする大学も多数存在する。

 件の女性、リリアンはそんな大学の卒業生の中でも、とくに優秀と言うことだろう。

 「そうだねえ」ところころ笑っていたメルだったが、しかしふいに声を小さくする。


「でもねぇ、リリアンさんが有名になった原因は、優秀さだけじゃないんだよぉ」

「ほかにも何かあるの?」


 横目で問いかけると、メルは少し言いづらそうに口をもごもごさせた。

 どうやらあまり良い話ではないらしい。


 ヒオリは彼女を気遣いつつも、「誰もいないわよ」とあたりを見回しながら先をせがんだ。

 同僚はビン底眼鏡越しの目できょろきょろと周りを確認し、肩を竦めてぼそぼそと話始める。


「リリアンさんねぇ。色んな人たちを『取り巻き』にしちゃうの」

「……取り巻き?」


 小説の中でしか聞かないような単語に、ヒオリは首を傾げた。

 ちらりとこちらを見たメルは、こくりと短く頷く。


「男の人も女の人も、とにかく色んな人がリリアンさんを守る騎士(ナイト)みたいになっちゃってるの」

「騎士(ナイト)、か……」


 その言葉に思い出したのは、昨晩の夢───舞台の上で行われた奇妙な演劇である。

 演劇の中で、リリアンは悲しみに暮れる悲劇のヒロイン。そして相手の男は彼女を守る騎士と言っても過言では無かった。


 何か因縁めいたものを感じてしまい、ヒオリは知らずのうちに眉間にしわが寄っていく。

 険しくなった己の表情を見て、メルが不思議そうに「どうかした?」と訊ねてきた。


「いや、何でもないよ。多分、気のせいだわ」


 ヒオリが首を横に振った時、亜熱帯区域の境となる扉が二人の行く手に現れる。

 同僚はいまだに納得のいかなそうな顔をしていたが、追及してくることはなく、その扉の取っ手に手をかけた。

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