第1話
不思議な香りがする。
全身を包み込む深い香りを、夢うつつの中ヒオリは吸い込んだ。
鼻孔をくすぐるのはラベンダーのように甘く落ち着いていて、ジャスミンやイランイランのように濃厚で蠱惑的な香りである。
それでいて何処か柑橘類の爽やかさや木々の清潔さも混じっている。
ブレンドされたハーブのような複雑さがあるが、一種類の花から抽出されたような純粋さも持ち合わせている。
本来なら心地良いと感じるはずの香りだったが、妙に不安をかきたてられた。
嫌な予感がするのに、嗅いでいると自然と深い眠りの中に意識が落ちていく。
それに記憶の中にあるどのアロマも、このような香りは持っていなかったことが気にかかる。
眠ってしまいそうな意識と格闘しながらもヒオリは、何とか香りの正体を掴もうと鼻をひくつかせた。
(いったいこれは何の花?それとも樹木の香り……?夢、でも見ているのかしら?)
夢と現の境を歩くようにおぼろげな意識の中、ヒオリは首を傾げている。
自分がブレンドしたものでは決してない。嗅いだことがある気もするが、記憶の引き出しから情報は引き出せない。
半分眠りかけているせいだろうかと考えた瞬間───ふいに漆黒だったヒオリの視界に光が溢れた。
「え……?」
夢から覚めたのだろうか?
そう思ったがしかし、どうにもあたりの様子がおかしい。
仕事を終えて自室に帰ったヒオリの最後の記憶は、ベッドに寝そべり天井を見上げていたものであった。
しかし今己の目の前に広がっているのは、ベッドでも、ましてや自室の天井でもない。
まず目立つのは、天井から吊るされた大きなライト。
その光に照らされて、真っ赤な垂れ幕で閉ざされている小さな舞台がある。
ヒオリはその舞台の全体を見渡せる、中央の客席に一人腰かけている。
眠りにつく前とはあまりにもかけ離れ過ぎている景色に、ヒオリは息を呑んで瞬き、あたりを見回した。
(ここは劇場?何かの魔法の影響かしら?)
警戒もあらわに立ち上がりかけた瞬間、何処かから開演のベルが鳴り響く。
はっと顔を舞台へと向けると、重い垂れ幕がするすると何かの力で左右へと開いていった。
照らされるライトの中心……舞台の上にはぺたりと座り込んだ女性がいる。
質素なワンピースを着こんだ、プラチナブロンドが美しい小柄な女性である。
彼女はしばらくうつむいていたが、やがて歌劇的な仕草で上を向く。
『ああ、酷い!酷いわ!この世は許せざる悪に侵されている!守らなければ!でも私はなんて無力なの!!』
遠くまで聞こえるように声を張り上げる女性の瞳には、ぷっくりと涙の膜が張られている。
長いまつげに縁取られたまぶたが開閉すると、ぽろりと大粒の宝石のように零れ落ちた。
その仕草も声も、そして顔の造形すらも美しい女性だった。
舞台女優か何かなのだろうか?
劇が始まってしまい、立ち上がるべきかとヒオリは考えたが、そのままおずおずと席へと腰を下ろす。
唐突に始まった舞台は不気味の一言に尽きる。何かの良からぬ魔法がかけられているかもしれない。
しかしだからこそ、ヒオリはその全容を見届けようと思った。
自分がここを逃げ出そうとすると、何かトラップが発動する可能性もある。
無論、劇を最後まで見ることも同様に危険なわけだが、仕掛けるならこんなまどろっこしい方法でなくもっと直接的なやり方がある。
意を決して見守る舞台の上で、女性はわっと顔をおおっていた。
まるで悲劇のヒロインである。先ほどの台詞から考えるなら、もしかしたら内容は勧善懲悪のカタルシスものなのかもしれない。
ひとしきり哀れを誘う声で泣いた彼女は再び顔を上げ、すっと手を天井に向けて伸ばした。
『でも私は負けません!私には、私には夢がある!私の力を使い、この世に平和をもたらしたいと言う夢が!!!』
『そう!その通りだ!リリアン!』
第三者の声がはっきりと響く。
軽快な音楽が何処かから流れ、舞台のそでから出現したのは、大きく手を広げた金髪の男であった。
背が高いが痩身で、美しくあるがどこか疲れが滲む顔をした青年である。
この物語の相手役(ヒーロー)であろうか?
彼は膝をつく女性の傍らにひざまずくと、彼女の手をそっと取って口付けた。
『僕が君を守ろう!この世の全てから!僕が君を害すものを全て排除しよう!』
『まあ、嬉しいわ!この身に余るほどの幸運!何と言うことかしら!』
『そして僕の婚約者こそが悪の親玉!君を亡き者としようとしている!こんなことは許せない!』
『ああ!なんてこと!恐ろしいわ!』
舞台の台詞にありがちな、大げさで劇的な言い回しである。
やはりカタルシス効果を持った成り上がりものなのだろうか?と今一度青年の顔を見つめて……、ヒオリは「ん?」と首を傾げた。
舞台に登場したときは気が付かなかったが、この青年に見覚えがある。
眉間にしわを寄せ、まじまじとその横顔を凝視した。
(あの男の人……、いや、まさか。そんなわけ……)
ヒオリの見間違いでなければ、舞台の上で熱烈な眼差しを女性に向ける男は俳優などではない。
他人の空似だろうか?いや、それにしてはあまりにも似すぎている。
疑問が解決する前に、女性はぱっと顔を輝かせて男の胸にすがりついた。
『私と共に世界を護りましょう!クロード様!』
はっきりと呼ばれたその名に、ヒオリは自分の目が悪くなったわけでないことを悟る。
やはり舞台に上がっているのは、ディアトン国立魔法研究所の所長クロード。
ヒオリもまた所属しているディアトン国最大の魔法研究所の博士にして長で、普段はこのような劇的な言動などしない気弱そうな青年である。
(そうだわ、あの女性もどこかで見たことあると思ったのよ!確か……ええと、何処の部署だったかな……?)
彼女の方を見れば、クロードの胸に頬を寄せたままうっとりと目を閉じていた。
顔は半分隠れた形になっているが、やはり見覚えがある。
研究所内のどこかですれ違ったはずだった。
問いただそうとヒオリが席を立った瞬間、再びどこかからベルが鳴る。
ひしっと男女が抱き合ったまま、真っ赤な垂れ幕はするすると左右から舞台を覆い隠そうとしていた。
慌てて駆け寄ろうと通路を走りかけた刹那、ふわりと眼前に濃紺の影が現れる。
道を塞がれてその場でたたらを踏み、勢いを殺せずつんのめりかけた───が、その体を誰かがしっかりと抱きとめた。
視界いっぱいに広がるのは、艶やかな光沢をもつ布地である。
息を吸えば鼻孔いっぱいに心地の良いマリンノートの香りが広がり、ヒオリは混乱した。
「気を付けてください。貴女が怪我をしたらたまらない」
「は……?」
聞こえてきた低く静かで切なくなるような声色に、ぎょっと顔を上げる。
その時、先ほど濃紺の影だと思ったのは上等な布地で仕立てられたスーツであり、飛び込んだのは彼の胸元であったと知る。
スーツの色と同色……それ以上に深く美しい青い瞳と視線がかち合った。
「貴女はここまでです。これ以上は危険だ」
「……なっ!!」
目を見開くヒオリに彼は顔を近づけ、うっそりと笑った。
南方の血を引いているとわかる褐色の肌と少しくせのある黒色の髪の毛。
恐らく30代ほどだろうか、程よく年齢を重ねた顔は穏やかで美しく、こちらを見つめる瞳は真綿のような柔らかさを持っている。
転びそうになったヒオリを抱きとめた彼は、微笑んだままそっと距離を取ると優しく告げた。
「好奇心は猫を殺しますよ、ヒオリ殿。ここで引き返しなさい」
「え?」
───どうして、私の名前を?
その問いをしかし、ヒオリが口にすることはなかった。
まるで誘惑するかのような甘い声で青年が告げた瞬間、視界はブラックアウトし、何もかも見えなくなる。
舞台も、ライトも、客席も、無論男の姿もだ。
「あ」と声を発する間も無い。
瞬く間にヒオリは意識さえも黒い世界に落ち、気絶するように眠りについてしまった。
ただ瞼の裏に、美しい青年の微笑みと青く深い瞳の色だけが濃く残っていた。
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