第4話
呆然とヒオリは男の端正な顔を見つめている。
対して男は形のいい唇に薄っすらと笑みを浮かべ、己の視線を受け止めている。
鼻孔に届くのは深く落ち着きのあるマリンノートの香水。ヒオリの嗅覚が、それは昨夜夢で嗅いだものと同じだと告げていた。
己の表情が凍ったことに気付かないのかヴェロニカは青年からこちらへ視線を戻し、「紹介しますね」と微笑む。
「こちらは本日から研究所に赴任されたニール様ですわ。魔法美容部門、香水研究室で働いていただきますの」
「こんにちは。まだ不慣れなこともありますが、仲良くしてくださると嬉しいです」
「あ、はいぃ。よろしくお願いいたしますぅ。メルと申しますぅ」
紹介された青年……ニールがすっとヒオリたちへ右手を差し出す。
突然のことに戸惑った様子だったメルが、まず最初に握手に応じて愛想のいい笑みを浮かべた。
同僚と挨拶を終えた男は次いでこちらを見て、手を差し出すが……ヒオリはいまだに硬直して動けなかった。
ただニールと呼ばれた男の顔を見つめて、昨夜の夢を思い返している。
「ヒオリちゃん?」
「あ、いえ……。よろしくお願いします。薬品部門、アロマ研究室のヒオリです」
不思議そうに名を呼ばれて我に返ったヒオリは、慌ててニールの右手を握る。
男の手は大きくごつごつとしていて、やや体温が低く感じた。マリンノートがまた深く香り、抱き留められた場面が色濃く頭に思い浮かぶ。
ニールは何故か握られている自分の手を目を細めて見つめ、「よろしくお願いいたします」と告げて離す。
再びヒオリに向けられた青い瞳は柔らかく優しく、心がざわめいた。
何故だろう。その柔らかな青を見ていると不思議な感覚が胸を突く。
既視感かもしれない。
どこか───夢以外でで会ったことがあっただろうかと考えたとき、ヴェロニカが小さくため息をついた。
「本当はクロード様に紹介をしていただく予定だったのですが。あの調子ですからね。忘れていらっしゃるのでしょう」
「ああ、拝見しておりました。なかなか複雑なことになっているようですね」
ここで穏やかだったニールが少し困ったように眉をたれさげる。
研究所に長く勤めるヒオリでさえ困惑したのだから、来たばかりの彼が見れば混乱するのも当たり前だった。
配属されて一番最初に見たものが痴情のもつれ……と称するにしても情けない場面だと言うのは、なかなか運が無い。
(……あんまり見られていいものじゃないわよね)
彼の口から外部関係者にこの失態を漏らされたら目も当てられないではないか。
もし妙な噂が漏れたらクロード所長はどうするつもりなのだろう、と考えてヒオリは嘆息する。
気を揉みながらも彼らと一言二言会話し、ニールとヴェロニカは去っていった。
研究所の見学と、まだ挨拶をしたい場所があるらしい。
「それではヒオリ殿、メル殿。また」
「はい、また……」
その『また』がどのような形になるか予想も出来ずにヒオリは、形だけの笑顔を青年に返す。
彼らの背中を見送って完全に温室から気配が消えた後、メルがようやく一息つけるとばかりに大仰に肩を竦める。
「緊張したぁ~。ヴェロニカさんって美人だけど迫力あるよねぇ」
「……まあね。たった一人でクロード所長たちを圧倒してたし」
むしろよくあのヴェロニカ女史によく喧嘩を売ろうとしたものだ、とクロードたちを褒めるべきなのか。
先ほどの一方的にやり込められていたやり取りを思い出し、ヒオリは吐息をもらした。
「だけど、なるほど。さっきメルが言ってたのが理解できたわ。あれは確かに騎士(ナイト)気取りね……」
下品だと思ったが小馬鹿にする意味を込めて、ヒオリは皮肉っぽく唇の端を持ち上げる。
白衣姿の男女がリリアンを囲みヴェロニカを責めている場面は、まるで悪い魔女を追い詰める王子とそのお供、そして守護されるお姫様のようだった。
我こそが正義とばかりにクロード達が躍起になっている姿を思い出すと、同じ研究者として少し情けなくなってくる。
メルも同様だったのか、ビン底眼鏡越しの目を細めて低く呟いた。
「私も初めて見たんだけど、あれほどだとは思わなかったなぁ。あの人たちに何があったんだろう?」
「さて……、そこから先は他人事だしね。火の粉がかからない限りあんまり首を突っ込みたくないけれど……」
クロード所長は自らの婚約者が、リリアンを虐げているかのような言葉を口にしていた。
確かに不当な行為はヒオリとて看過できないが、ヴェロニカの立場を思えば真実だとしても同情したくなってくる。
未来の夫にして国立魔法研究所の所長が、婚約者以外の女性に入れ込んでいるというのは気分が良くないだろう。
多少意地悪なことを言われてしまっても、それだけで済むならリリアンはありがたいと思うべきだ。
これから先も何か厄介なことが起こりそうだな、とヒオリは嘆息する。
だが嘆いてばかりもいられず、二人はここに来た本来の目的を果たすために再び歩きはじめた。
§
先ほどのこともあってかしばらくぎこちない空気が続いていたが、次の区画に移る時、ヒオリはぽつりと呟く。
「香水研究室、か。似たような研究をしてるのね……」
「え?」と首を傾げてこちらを見たメルだったが、己の言いたいことを理解したらしく頷いた。
「もしかしてヒオリちゃん、ニールさんのこと気になってたりする?」
「ああうん、そうね。この時期に入って来るなんて妙だし」
晴れて博士号を取得した新人が入所してくる時期はまだ遠く先である。
そもそもニールは新人らしい初々しさはなく、ヴェロニカも「赴任」してきたと言っていた。
恐らくどこかの研究所に勤めていたのだろう。
ならどうして以前の職場を辞めてここに来たのか?
確かにディアトン国立魔法研究所はこの国で一番大きく設備の整った研究所であるが、それゆえ簡単に入所出来るものでもない。
それを可能に出来るほど、ニールは優秀なのだろうか?
少し気になったが美容関係は専門外だし、もとより他人の功績など気にしていない。
何か理由があるのだろうか、と考えたところで、ヒオリたちは目的のラベンダーが植えられている区画へと到着した。
ディアトン国立魔法研究所の温室は植物に合わせて徹底的に管理されており、一年中ありとあらゆる植物を採取することが出来る。
それだけの財力があるのだ。
国が魔法研究に力を入れていることの証拠であり、研究所の職員がその期待に応えられているという証明であった。
ラベンダー特有の華やかで深い香りに包まれた紫色の花壇の前でメルが立ち止まり、屈みこむ。
その眉間には深いしわが刻まれており、「むむむ」と小さな唸り声が漏れていた。
「やっぱりラベンダーも少し元気がないねぇ。何か葉っぱの色が悪いよぉ」
「……私には全然わからないんだけど。昨日からそうだったのかしら?」
問いかけると同僚は腕を組み、しばし考え込む。
「昨日まではそれほど気になることは無かったような気もするけどぉ。もちろん私が気付かなかった可能性もあるしぃ……」
ぶつぶつ唸って、しかし答えは見つからなかったのだろう。
深く刻まれてしまった眉間のしわを伸ばすように指で押さえたメルは、研究者の顔で立ち上がる。
「気になるし、私は原因を調べてみるよぉ。もし植物を使った製品で違和感があったら連絡するよう皆に伝えて」
「了解。しばらくここの植物は使わないほうがいいかしら?」
「そうだねぇ。全部の調子が悪いかどうかもわからないし、調査も時間がかかるだろうし。そこのところも伝えておいてくれるかなぁ」
再び了解、と頷き、ヒオリはメルと別れて薬品研究室へと戻っていった。
しかし、困ったことになったものだと吐息をもらす。
不調の原因などそう簡単にわかるはずは無いだろうから、もしかしたらしばらくはアロマの研究が出来なくなるかもしれない。
アロマの香りに囲まれていれば幸せな……むしろ香り中毒者(ジャンキー)とでも言うべきヒオリにとっては、あまりにも非情な現実である。
(やれやれ、以前に作ったブレンドの見直しでもしようかな。今あるアロマをブレンドして新しい香りを作るのもいいかもね)
退屈な日々を送ることになりそうだ、とヒオリは日々を悲観していた。
───が、その予想は幸運なことに……むしろ不幸なことに外れることとなる。
◆
メルの調査は本格的なものとなっているらしく、他部署の植物に詳しい研究員たちも温室に入っている。
すでにクロード所長や他役員にも現状は告げられ、数日後には調査委員会が組織されることとなるだろう。
忙しそうに歩き回るメルに休憩だけはしっかり取れと告げ、ヒオリは所内のカフェテリアで早めの昼食を取ることにした。
カフェテリアのメニューは、研究所で開発された魔法食品で作られている。
魔法食品とは、疲労回復が早くなったり、血行が促進されたりなど、人体に有益な効果が認められた食品であった。
お気に入りのサンドイッチを食みながらも、ヒオリの頭の中は様々な考えが渦巻いている。
昨晩の夢のこと、そしてクロードとリリアン、ヴェロニカ。突然現れたニールと言う男について色んな予想が浮かんで消えた。
(昨日の夢とリリアン女史は、貴方に関係あるんですか?……とは流石に聞きづらいわね。だけど無関係とも思えないし)
一人で考えていても、はっきりした答えが頭の中に浮かび上がってくるわけでもない。
もう少し判断材料が必要だな……と結論付けてサンドイッチを咀嚼したとき、ふと己が座っている席に影が差した。
傍らに何者かが立ったのだ。
誰だろう?とヒオリがそちらを向く前に、柔らかい声が耳たぶをくすぐる。
「ヒオリ殿、ご一緒してもいいでしょうか?」
にわかに鼻孔に香った、深く落ち着いたマリンノートの香り。
それだけでそこに立った人物を予想出来てしまったヒオリは、内心困惑しながら努めて冷静に影を見上げる。
「ニールさん……」
「はい、先ほどぶりです」
想像していた通りの人物が、そこに立っていた。
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