第147話 誘い

 


「上がりました」


「――っ!?」


 楓さんの声が聞こえ、思わず肩が跳ねる。

 そちらの方に向くと、バスローブ姿の楓さんがいた。いつもポニーテールに纏めている長い黒髪は自由に解き放たれ、若干濡れている。

 シャワー上がりだからだろうか、銀縁の眼鏡は着けておらず、肌がほんのり赤い。大きく開かれた胸元と首筋に、つい目線が吸い寄せられてしまった。


 うわぁ……なんだろう。

 今の楓さん、いつにも増して大人っぽいというか、美しいというか、妖艶というか……端的に言うとエロい。

 直視していられず、俺はさり気なく目線を外した。


「どうしました?」


「えっ? ど、どうもしてないよ」


「そうですか。そちらに行っても?」


「うん……」


 楓さんは俺の方に歩み寄ってくると、反対方向のベッドに座る。ギシリとバネの音が鳴り、ベッドが沈んだ。たったそれだけの事で、さらに心拍数が上がった気がする。

 俺が黙っていると、彼女の方から話を切り出した。


「灯里さんにはちゃんと連絡しましたか?」


「う、うん。撮影が明日に延期になったから、今日はこっちで一泊するって言っておいたよ」


 心配させたくないし、早めに伝えたかったから風間さんとドライブしている間に連絡だけはしておいた。

 だからまぁ、楓さんと同じ部屋に泊まるってことは言ってないけど。


「そうですか……それなら問題ありませんね。それにしても今日は驚きましたね。撮影は中止になるし、風間さんは士郎さんを連れ去ってしまいましたし」


「そうなんだよ、俺もビックリしちゃった。緊急の用事で来られなくなった筈の風間さんが、スタッフに変装して声をかけてくるんだからさ」


「風間さんとは、どんな話をしたんですか?」


「これがさぁ――」


 楓さんのお蔭で緊張が解れた俺は、風間さんとの事をかいつまんで話す。

 CM撮影のキャスト欄に俺の名前を見つけた時から、撮影を中止させて俺と二人きりでドライブする計画を立てたこと。

 風間さんは車が好きなこと。色んな話をしこと。サービスエリアで、食事をご馳走になったことなど。


「なるほど……でも解せませんね。どうして彼はそこまで士郎さんに拘るのでしょうか」


「それは俺にも分からないんだ。ただ、俺がダンジョンに“選ばれた人間”だからかもしれない」


「選ばれた?」


 俺は「うん」と頷いて、冒険者になってからこれまで起こった事件を口にしていく。

 謎の十層と喋るオーガ、メムメムの出現、相次ぐ異常種との接触や嘆きのメーテル。

 これまで沈黙を守っていたダンジョンが、俺だけに集中して何かが起こり始めている。それを風間さんは、ダンジョンに選ばれたからだと考えていることを。


「そうですね……でも彼だけでなく、私を含め多くの冒険者や、ダンジョンライブを見ている視聴者全てが気付いていると思いますよ。ダンジョンは、士郎さんと関わろうとしているって。それが果たして、選ばれた人間だから……とまでは思いませんが」


「俺だって、こんな立て続けに色んな事が起きたら少しは気付いているよ。まぁ、何で俺なんだろうって思うし、こっちとしては迷惑な話だけどね」


「でも、きっと何か意味はあるんだと思います。ダンジョンが士郎さんに関わらなければいけない……大きな意味が」


「どうだろうねぇ。そういえば、楓さんはどうだったの? 風間さんが言うには、楓さんのことは金本さんに任せてあるって言ってたけど」


 ふと気になった事を尋ねると、今度は楓さんから話を聞いた。

 スタッフに呼ばれた俺が中々帰って来なくて探しに行こうとしたら、金本さんに呼び止められたらしい。事情を説明され、二人も軽くドライブした後、レストランで食事をしながら色々話をしたそうだ。


 へぇ……どんな話をしたんだろ。楓さんが言うには、金本さんの印象が大分違ったらしいけど。おしとやかなお嬢様のように思っていたけど、中身はお喋りが好きな普通の女性らしい。風間さんへの愚痴が止まらなかったそうだ。


「金本さんってそんな人だったんだ。意外だね、余り多くは喋らないイメージだったけど」


「私もそう思っていたのですが、全然違いましたよ。性格は見た目通りおっとりしているのですが、全然着飾ることなく自然な感じがしました。なので私もつい口を滑らしてしまいましたよ」


「えっ、例えばどんなこと?」


 そう尋ねると、彼女はぷいっと首を振って「それは教えられません」と言う。

 気になるけど、喋りたくないことを強引に聞くのも野暮だよな。


「「…………」」


 互いに話すことがなくなったのか、ここで沈黙が生まれてしまう。

 俺も楓さんも自分から話題を作るタイプではないし、タイミングが悪かったのか変な間が出来てしまった。


 どうしよう……何を話せばいいんだ?

 普段ならもう少し頭が回るのだが、状況が状況なだけに口が動かない。バスローブ姿の楓さんを直視できないってのもあるし。

 俺が戸惑っていると、先に楓さんが口を開いた。


「あの……士郎さん」


「はいっ」


「一つ、お願いしたい事があるのですが、いいですか?」


 お願い?

 どんなお願いだろうかと楓さんの方を向いたら、彼女の顔は赤くほてっていた。


「お願いって……どんな?」


「膝枕をしてくれませんか?」


「ふぇ?」


 予想外過ぎて変な声が出てしまった。

 膝枕って、あの膝枕だよな。太ももあたりに頭を置くやつ。よくバカップルがやってそうな行為。

 なんで急にそんな事をして欲しいと思ったんだろう。

 困惑していると、楓さんは「誤解しないでくださいね」と続けて、


「なにも襲ったりはしないので、身構えないでください。たんに私が、そういう事にほんの少しだけ興味があって、ほんの少しだけしてみたかっただけです。こんな機会もそうないですし、士郎さんに甘えてみたかったんです」


「そ……そうだったんだ。楓さんもそういう事に興味があるんだね。余りイメージがなかったから驚いちゃったよ」


「私も一応女ですから、そういった願望くらいは持ち合わせています。それで、いいですか?」


「――っ」


 上目遣いで頼まれ、ドキっとしてしまう。

 いいのだろうか? これ、やってもいいのだろうか?


 まぁ楓さんが俺にお願いするって滅多にないし、仕事でもダンジョンでも助けて貰ってばっかりだし、膝枕ぐらいなら叶えてあげてもいいのかな。

 そう思った俺は、ゆっくり首を縦に振りながら答えた。


「うん、いいよ」


「ありがとうございます。それじゃあ、失礼しますね」


 楓さんはベッドに上がると、のしのしと亀のようにやってくる。

 ゴロンと横になり、小さな頭を俺の膝に乗せてきた。


「――っ!!」


 楓さんの滑らかな髪が、直接地肌を擽ってくる。

 なによりも距離が近かった。下を向けば楓さんの綺麗な顔があり、視線を下ろせば艶めかしい首筋と鎖骨が見えてしまう。

 さらにその下に視線が行ってしまうのは、男のさがなのだろうか。


 尋常じゃないほど身体が熱くなる。この熱は俺だけではなく、もしかしたら彼女の熱が伝わってきているからなのかもしれない。


「なんといいましょうか……かなり恥ずかしいですね」


「そう……だね」


「でも、想像よりも凄い良いかもしれません。あの……士郎さん、もう一つお願いしてもいいでしょうか?」


「えっ!? な、何を!?」


「頭を、撫でて欲しいんです」


 ええ!? 膝枕だけでも精一杯だっていうのに、その上頭を撫でろって?

 無理無理無理、それは流石にヤバいって。理性が吹っ飛んじゃうって。

 断ろうとしたが、楓さんの表情を見て開きかけた口が止まる。いつものクールな顔ではなく、あどけない子供のような顔を浮かべていた。


 俺は胸中で深いため息を吐きながら、


「わかったよ……」


 楓さんの頭を、そっと撫でる。

 うわぁ……なんて柔らかい髪なんだ。それと今頃気付いたんだけど、シャンプーの良い匂いが漂ってくる。

 ヤバい……頭がどうにかなりそうだ。


「ふふ……気持ちいいです。これが幸せというものなのでしょうか」


「さぁ……どうだろうね」


 とろんとした顔を浮かべる楓さん。

 まだまだ夜は長い。果たして俺は、このまま理性を保っていられるのだろうか。



 ◇◆◇



「ハイ! シロー、カエデ、昨日は楽しめましたか?」


「あのな~エマ、お前のせいでこっちは大変だったんだぞ!!」


 次の日の朝。

 俺と楓さんは、タクシーに乗って撮影現場に訪れていた。現場には既にエマがいたので、何で一部屋しか取らなかったんだと糾弾する。


 本当に大変だったんだ。

 楓さんに膝枕をしてあげて、もうそれで終わりかなぁと思っていたら、他にも色々と要求されてしまった。断ろうとはしたけど、彼女の押しに負けてしまい、改めて思い返せば砂糖を吐き散らすような甘ったるい行為をやっていた気がする。

 つくづく俺は押しに弱いんだと気付いたよ。


 正直なところ、いつ楓さんのことを押し倒しても不思議じゃなかった。

 というより、楓さんは明らかに誘っていたと思う。でも俺は、なんとか強靭な精神をもってグッと堪えたのだ。自分を褒めてやりたいぐらいだよ。


「エマさん」


「なんデスか? カエデも昨日は楽しめましたか? お礼ならデザートで構いませんよ」


「今後二度と、余計な真似はしないで下さい」


「……オ~イエ~ス……」


 氷のような冷たい表情で言われたエマは、顔を引き攣らせながらコクコクと頷いた。

 うわぁ……楓さんマジギレじゃん。内心ではエマの行いに怒ってたんだな。ていうか楓さんが本気で怒ったところ初めて見たぞ。エマって逆に凄いな。


「そろそろ始めま~す。キャストの方は準備お願いしま~す」


 スタッフから声をかけられる。

 俺と楓さんが一緒に向かうと、風間さんとプロデューサーの榊原さんが話し合っていた。


「榊原さん、昨日は本当に申し訳ございませんでした」


「いえいえ、緊急の用事なら仕方ありませんし、風間さんの頼みとあらば何でもお聞きしますよ。それよりこちらこそありがとうございました。我々スタッフ全員分の旅館を用意して頂いて。お蔭で一同羽根を休められました」


「楽しんで頂けたならよかったです」


 へぇ~風間さん、そんな事までしてたのか。

 そういえば俺にも、ディナーに招待したいとか言ってたっけ。にしてもスタッフ全員分の宿泊費を払うって太っ腹過ぎないか。

 そういう気配りができるから、風間さんって人気なんだろうな。


 その後、俺と楓さんと風間さんの三人で撮影に入った。

 車の近くで脚本通り会話したり、俺と楓さんが交互に助手席に乗り、風間さんが運転しているところをドローンが撮影したり。

 殆どはメインの風間さんだった。


「カー-ット!! 皆さんありがとうございました。今回も良い画が取れましたよ」


「「ありがとうございました」」


 撮影は一時間もしない内に終了してしまった。

 もっと一日かけてやるものだと思っていたけど、案外短いんだな。

 風間さんや榊原さん、他のスタッフに挨拶をし、楓さんとエマと三人で駅に向かおうとした時だった。


 懸け寄ってきた風間さんに、声をかけられる。


「許斐君、ちょっといいかな」


「はい、なんでしょう?」


 なんだろう……さっき挨拶はしたんだけど。

 そう思っていると、風間さんは俺の耳に顔を近づけ、誰にも聞こえないように小声で話してくる。


「実は許斐君に頼みがあるんだ」


「えっ?」


「許斐君は夏季休暇ってあるかい?」


「はい……ありますけど……」


 風間さんはニコリと笑みを浮かべながら、こう言ったのだった。


「一日だけでいいんだ。僕と二人で、ダンジョンに行ってくれないか」

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