第72話 熱い夜
「今日は帰るよ。呑み会楽しかった、またやろう」
そう言って、士郎さんは部屋から出て行った。
「はぁ……はぁ……」
心臓の音が鳴りやまない。
ドクン、ドクンと、胸が張り裂けそうなぐらい胸が苦しかった。士郎さんに求められなくて悲しんだけど、まさか最後にあんな大胆なことをされるとは思わなかった。
両手で顔を覆う。風邪を引いているんじゃないかというぐらい熱い。
キスをされた額を触り、彼の顔を思い出す。それだけで幸福感が押し寄せ、思考が馬鹿になった。
本当に嬉しいとはこのことだろう。
「ふふ……ふふ……」
ダメだ……嬉し過ぎてニヤニヤが止まらない。
好きな人にキスをされただけで、こんなにも自分が乙女になるとは思わなかった。
どちらかというと私は、恋愛脳を馬鹿にしていた部類だ。
女友達の恋愛話を聞いても、恋愛のなにが良いんだと否定していた。恋愛ドラマや少女漫画を見ても全くピンとこなかったし、白馬の王子様なんているわけがないと鼻で笑っていたのだ。
それは、私に色目を使ってきた男性に辟易していたからだと思う。
中にはしつこい人もいて、男という生き物は女の身体にしか興味がない猿なのだと忌避していたからだろう
それがどうだ。
気になっている男性に強引に組み伏され、見つめられながらキスされただけでノックアウトされてしまったじゃないか。
「あれは卑怯ですよ……」
まだ心臓がバクバクしている。
士郎さんは意外と力強く、強引に身体を入れ替えられた時。驚きもあったが、全身に快感が迸ったのだ。
『お前Mなんだろ? 俺がイジメてやろうか?』
ドン引くような誘い文句を言ってきた猿共には、心の中で死ねと連呼していたけれど。
士郎さんになら、めちゃくちゃにされたいと思ってしまっている自分がいる。全て壊して欲しいと願った自分がいた。
それほど、あの時の士郎さんは格好良くて素敵だった。
「はぁ……死にたい」
口からそんな言葉が漏れる。
嬉しいという幸福間と同時に、罪悪感が押し寄せてきた。
私はズルい女だ。
士郎さんには星野灯里さんという素敵な女性がいる。
それを知っていてなお、彼を家に呼び、酒の勢いで襲ったのだ。士郎さんが踏みとどまってくれなかったら、私はきっと流れに身を任せていただろう。
士郎さんには私の気持ちはやんわりと伝えてある。けど、それに対する返事は保留されていた。
今は灯里さんと士郎さんの家族をダンジョンから救い出すことしか考えられず、恋愛に現を抜かしていられないからだ。
それもあるけど、士郎さんは灯里さんのことを一人の女性として好いている。だから踏みとどまれたのだと思う。
本人に聞けば、必ず否定するだろう。灯里さんのことを保護対象として、歳が離れている女子高校生と見て自分で気持ちにブレーキをかけているのだ。
ただそのブレーキがあるからこそ、二人の同棲生活が成り立っているのだろう。
そして少なからず、灯里さんも士郎さんのことを好いている。
普段の行動や顔色を見ていれば、誰でもわかることだ。気持ちを伝えていないのは、灯里さんも士郎さんとの関係を壊したくないからだろう。
家族を救い出すまでは、気持ちを伝えないと思われる。
二人はどう見ても両想いだ。
そんな二人の間に割り込もうとしているお邪魔虫が、私だった。
なぜ私がこんな暴挙に出たのかといえば、焦ってしまったからだった。
その焦りは灯里さんへの嫉妬ではなく、士郎さんがここ最近モテだしているから。
日本どころか世界中に人気が出た士郎さんは、社内の女性スタッフの中でも話題になっている。
モンスターと戦っている姿は男らしく勇ましいし、冒険者ということで金持ちだろうという考えがあるのだ。相当な優良物件だろう。
見た目は草食系なので、アプローチすれば簡単に落とせるんじゃないか? と安易な思考にたどり着く女性スタッフが多くなっているのだ。
現に士郎さんは、ここ最近女性から声をかけられたり連絡先を教えて欲しいなどと聞かれることが多くなっているらしい。
灯里さんがいる士郎さんに限ってそんな誘いにホイホイついていくとは思えないが、彼も男だ。絶対に間違いが起こらないとは言えない。
そんな焦りもあり、私は士郎さんを宅飲みに誘ったのだ。
「脈がないわけじゃない」
完全に否定されたわけではない。私も勝負の土俵に立てることが分かった。
灯里さんに対しての罪悪感はある。けど、後悔はしていない。
チャンスがあれば、またアプローチをするだろう。
だって私は、卑怯な女だから。
◇◆◇
「ふんふんふ~ん」
鼻歌を口ずさみながら、洗濯物を干していく。
最近はじめじめとした雨が続いていたけど、今日は久しぶりに雲一つない快晴で、温かい風が心地よく、気分も晴れ晴れとしていた。
丁度全て干した後、ピロンとスマホにメッセージが届く。
「士郎さんかな」
スマホ画面を確認すると、メッセージを送ってきたのは士郎さんではなく楓さんだった。
パスワードを解いて見てみると『今日、士郎さんを借りてもいいですか?』と書かれている。
「……」
それは、士郎さんと二人でどこかに行くということだろう。
わざわざ私に断りを入れなくたっていいのに、律儀に聞いてくれたんだ。
正直な話、二人が出かけるのは面白くないというか、あまり喜べない。だけど私が駄目だと言う資格なんてないし、士郎さんを束縛していいわけがない。
だって私は、士郎さんの彼女でもなんでもないのだから。
「……ふぅ」
『全然大丈夫だよ(≧▽≦)』と返信をして、ため息を吐きながらソファーに腰を鎮める。
(私は……どうしたいのかな)
私は士郎さんのことが好き。それはもう揺るぎない事実だ。
最初はただ家族を救う協力関係だった。だけど色々助けてもらって、一緒にダンジョンで冒険して、一緒に生活していくうちに、士郎さんの良いところが一杯見つかって大好きになった。
彼は優しくて、年下なのに凄く気を使ってくれる。
料理も幸せそうに全部食べてくれて、毎回美味しいと言ってくれる。時間がある時はリビングでゆったりしながらテレビを見たり、ダンジョンライブを見たり、他愛のない話をしている。
多分はたから見たら、完全に同棲カップルなんだと思う。
だけど私たちは、恋人同士ではない。
それは、私からは恐くて言えないからだ。もし断られて今の関係やこの楽しい時間がなくなると思うと口に出せなかった。
士郎さんも、少なからず私のことを好いていてくれていると思う。だけどそれは、一人の女性というよりも保護者的な目線なんだ。だからもし仮に私が告白しても、彼を困らせてしまうだけ。
それだけは嫌だった。
もし仮に、私と士郎さんが付き合えるようになるとしたら。
それは私のお父さんと、士郎さんの妹の夕菜を救い出した時だ。
けどやっぱり、もどかしい。
もっと士郎さんと触れ合いたい。別にエッチとかそういうのではなく、単純にイチャイチャしたかった。
まぁ、しよって言われたらいいよって言っちゃうかもしれないけど……。
話が脱線しちゃったけど、とにかく私と士郎さんは恋人関係じゃない。
だから仮に、彼が楓さん以外の女の人ともし付き合ったとしても何も言えないのだ。
「きっついなぁ」
そうぼやいて、私は外に出る準備をする。
今日も、お母さんのお見舞いに行くんだ。
◇◆◇
「ただいま」
「お帰りなさい」
午後の十一時ぐらいに、士郎さんは帰ってきた。
顔がほんのり赤くて、なんだか今にも倒れそう。彼は私を見ながら、
「まだ起きてたの?」
「うん。なんだか眠れなくて」
「そっか……俺はもう眠くて眠くてしょうがないよ」
そう言う士郎さんは、目がとろんとしていて言葉通りに眠そうだった。彼の身体を支えながら、自室まで連れていく。すると、バタンとベッドに横になってしまった。
「着替えようよ、スーツが皺になっちゃうよ」
「もう、無理……」
といって、士郎さんは瞼を閉じてしまう。
しょうがないな~と、私はワイシャツだけでも脱がしてあげようと、ボタンを外していく。
「あっ」
驚きに声が漏れる。
士郎さんの首筋の一部が、少しだけ赤くなっていた。これって……キスマークというやつだろうか。
「――っ!!」
その時、私の心に激しい嫉妬心が芽生えた。
士郎さんが楓さんと身体の関係になったのかは分からない。だけど、首筋を吸われる行為があったのは確かだ。
――誰にも奪われたくない。
そう思った瞬間、私の身体は勝手に動いていた。
彼に覆い被さり、その唇にキスをしようとした刹那、
「灯里……ありがと」
「っ……もう、士郎さんってば」
寝言に正気を取り戻した私は、彼の鼻頭にちゅっとキスをする。
「今日のところはこれで勘弁してあげる」
ワイシャツを脱がし、毛布をかける。
おやすみなさいと言って、そっと部屋から出た。
熱に浮かされた私は、ベランダに出て夜風を浴びる。
怪しく光る三日月を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「誰にも渡さないんだから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます