第27話
走る足音はいまだに階段を登っていく。
遠ざかることはないが近づくこともない音に、カトレアは幾度目かわからない舌打ちをもらす。
この先は屋上に続いていると記憶していた。
入院患者が眠る病室に突撃しないことに安堵しながらも、クララの思惑に感づき顔を歪めた。
(……屋上に、おびき寄せるつもりなのね)
そこにいったい何が待ち受けているのだろう?
寒気にも似た嫌な予感はずっと背中を這っているが、追いかけないという選択肢はカトレアの中には無かった。
やがてがちゃりとドアが開き、そこから何者かが出て行った気配がする。
クララ・クリスが屋上へ駆け出して行ったのだろう。
ほどなくしてカトレアも外界へと続く扉の前へとたどり着く。
扉はすでにぴったりと締まっていた。
息を整えながら、閉ざされたドアのノブへと手をかけ、ドアノブを回す。
がちゃりと静かに音が響いて……しかしふと疑念を抱き、壁に身を隠しながら蹴り上げるように扉を開けた。
瞬間、ぴぃんと細い糸が切れたような音がカトレアの耳たぶを掠める。
何かが崩れるような物音が聞こえたのは、ぎくりと体を強張らせたすぐあと。
ぎょっと見開いた目の前に何かが落下している。よくよく目を凝らせば、それは大粒の石や小さな鉄の塊であった。
がらんがらんと轟音を響かせ地面に落ちるそれらの中には、釘やナットなどもある。
頭から被ればいくら騎士団と言えど、大怪我は免れない。
油断して屋上に出て行ったら、傷ついていたのは地面ではなくカトレア自身だっただろう。
殺意や敵意を隠すことなく如実に伝えてくるそれに顔が青くなった。
(罠だわ……!)
そう感じた刹那、身を隠す壁の向こう側で何かが動いた気配を感じる。
懐に隠していた拳銃を取り出して、カトレアはその気配へ向けて大きく呼びかけた。
「クララ・クリス!もう逃げ場はないわ!大人しく投降しなさい!」
返事はない。
わかりきっていたことだったが、今一度カトレアはその名を呼んだ。
「クララ・クリス!」
「
闇の中から、そう聞こえた。
はっと銃を構えた刹那、扉の影から小柄な影が姿を現す。
間違いない。それは己が追いかけていた事件の真犯人、クララ・クリスその人であった。
ぎらりと光る眼球はしっかりとカトレアを見据えており、怨念すら感じ取れる。
今一度彼女に警告をしようとし、しかしその細い手に握られていた拳銃を見つけた。
引き金に指がかかっている。まずい、と思うより先に素早く銃口から体をずらした。
発砲音。
顔のそばすれすれを、鉛の塊が通過する。
背後の壁に弾が当たったことを感じながら、カトレアは勢いを殺さず屋上へと躍り出た。
(……躊躇はなしね)
クララと距離を取りながらも、カトレアは銃口から目を離さない。
対してクララはぐっと顔を歪めて、自らの腕を見つめていた。
もしかして初めて銃を撃ったのだろうか?予想以上の衝撃に驚いているのかもしれない。
「その銃は騎士団のものね。貴方が刺した団員から奪ったの?」
「……」
静かに問えば、クララはまたぎらりとこちらを睨みつける。
まるで親の仇とも言わんばかりの表情を向けられる理由は、少なくともカトレアには思い浮かばない。
今だ痺れているのかよろよろと腕を持ち上げ、彼女は銃を構える。
「どうしてお前が生き残っている!カトレア・モリス!お前が死ぬべきだった!この物語に出てくるべきでは無かった!はやく、はやく退場しろっ!!」
呪いでも吐き出しているかのような絶叫に、カトレアは眉間にしわを寄せる。
「貴女の言う物語が何なのかは相変わらずわからないけど……、少なくとも誰かに指示を出されるいわれはないわ」
「うるさいっ!」
今一度、クララが引き金を引いた。
二度目の発砲音が夜空に響き渡る。震える腕で放たれたその弾はカトレアへは当たることはなかった。
衝撃がまた腕に響いたのだろう。「あっ」と悲鳴を上げてクララはよろける。
隙を逃さずカトレアはクララを確保するために一息で走り寄った。
気付いた彼女が再びこちらに銃を向ける前に、腕を伸ばし───、
「なっ……!」
クララがポケットに手を入れて、素早くカトレアの顔に向けて投げつけた。
ざらり、と何かが頬に当たる感覚。同時に目に激しい痛みが走り、思わずまぶたを閉じてしまった。
(しまった……、目つぶし……!)
じわりと涙が溢れ出てくる、が、異物が目から流れ落ちる形跡はない。
ひりひりとする感覚と燃えるような熱ささえ感じる。もしかして粉末状の唐辛子をかけらたのだろうか。
とても目を開けられそうにないと焦っていると、腹に衝撃が走り後ろへと転倒する。
蹴られたのか?それを理解する前に強かに尻を打ち付けた。
銃での攻撃は、油断させるための囮だったのか。
暗闇の中、自らの失態を歯噛みしていると、額にひやりとしたものを押し付けられる。
クララに奪われていた拳銃だということは、考えなくてもわかった。
絶体絶命の危機に身を固まらせていると、忌々し気な声が静かに響いてくる。
「終わりだよ、カトレア・モリス。お前を贔屓した作者を恨みながら死ね」
「作者?貴女は作者というものに、恨みがあるの……?」
なるべく冷静な声で問いかけたつもりだった。
「恨みだと!恨みなんてあるものか!僕は愛しただけだ!先生を、『ローゼンナイト』をっ!それなのに!!」
慟哭にも似た声の後、だん!だん!と何かがぶつかるような音を聞く。
それが足元から聞こえてくるのだとわかったとき、クララが地団駄を踏んでいるようだと察した。
「僕は酷い裏切りを受けたんだ!たくさんアドバイスも送ったのに!先生は僕の言うことを聞いてくれなかった!!」
叫ぶクララの熱情はすさまじく、しかし反対にカトレアの心はどんどん冷めていった。
彼女の言葉は、まるで恋人が恋人に、親が子供に向ける重すぎる期待と愛情のようにも聞こえる。
執筆業にくわしくない己でも、決して読者と作者の関係においては相応しくないものだと感じるそれに、思わずため息が出た。
「まるで子供ね。貴女」
「……うるさい。独りよがりの作者の妄想は、もうここで消えるんだ」
低く怨讐のこもった声とともに、額の銃口がさらに強く押し付けられる。
怒りに支配されたクララ・クリスがその引き金を引くのはすぐだろう、と思わされた。
ようやく痛みが消えてきた目をカトレアが開いたとき、映ったのは歪んだ笑みを浮かべた女の姿だった。
「死ね」
かちゃりと響く銃の音。
これまでか、と流石のカトレアも身を強張らせた───、瞬間だった。
「そこまでだ、クララ・クリス」
首都クルツの夜空に響き渡る、清廉なバリトン。
予想外の声に、カトレアだけでなく、クララも昇降口を振り返る。
開け放たれた扉の前に立っていたのは、騎士団の制服に身を包んだ男であった。
さらりと夜風に流れる金髪。青く深い色の瞳は鋭くクララを見据えている。
その正体がわかったとき、カトレアがほっと肩の力を抜き、クララは「まさか」と顔を青くした。
「遅いわ、エルンスト」
ふう、と安堵のため息をつきながら、彼の名前を呼ぶ。
アパートメントの火事に巻き込まれ、死んだと思われていた騎士。折れた足を支える杖はついているが、健康そのもののその姿。
エルンスト・ローゼンが確かにそこに立っていた。
彼を支えるような体勢で、数日前よりずっと凛々しい顔をしたリザリー・クラントンもいる。
愛しい後輩は己の姿を見るなり、眉間にしわを寄せ、一歩こちらに近づいた。
「クララさん。貴女の悪事はもうおしまいです。大人しく投降してください」
「あ……っ!」
見るからに慌てるクララに近寄り、エルンストは拳銃を取り上げる。
目の前にいるのが間違いなく自らが殺した男だと改めて気付いたのか、彼女は震えながら唇を開いた。
「な、んで、エルンスト、が……?あの時、死んだんじゃ?」
「ああ、確かに死ぬところだった。が、リザリーの機転のおかげで助かったんだ」
震えるクララに、エルンストは静かに告げる。
信じられない顔をしたクララは、ぎょろりと名を呼ばれた彼女を睨みつけた。
リザリー・クラントンは真っ直ぐにその視線を受け止めている。
可愛い後輩としてカトレアの後ろをついて回った面影のない、まったく恐れのない目だった。
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