第21話
リザリー・クラントンの住居であるアパートメントは、巨大な炎の中に飲み込まれつつあった。
一介の住民に大声で「火事だ!」と叫んだあと、エルンストは二階へ向けて外階段を駆け上がっていく。
非常口から中に入ると、異常に気が付いた住民たちが慌ただしくドアから顔を覗かせ始める。
エルンストは彼らに逃げるよう急かし、部屋を一つ一つ確認していく。
炎に気付いた住民たちはこちらの支持に従い、速やかに外階段を駆け下り始めた。
階下には呆然とする野次馬と、何とか火を消し止めようとバケツをかき集める近所の住民たちがいる。
その中にこの事態を引き起こした犯人……『ファンレター』の送り主の姿は見えなかった。
逃げてしまったのか、それとも何処かで火事を見ているのか。
(後手に回ってしまっている……。いや、今は彼らを逃がさなければ!)
奥歯を噛み締め、エルンストは住民たちをアパートメントの外に誘導する。
アパートメントが若い独身者向けの小さなものだったこと、昼間のため住民のほとんどが仕事に出ていたことで避難は完全に火が回る前に済んだ。
「ほかに住民は……見当たらない方はいませんか?」
「あ、これで全員だと思うけど……でもさっき上の階で子供の泣き声がしたような気がしたの」
おろおろと視線を二階に向けたのは、リザリーの隣の部屋に住む女性だった。
エルンストも彼女の視線を追い、「確認してきます」と再び階段を駆け上がる。
熱に皮膚をあぶられ汗がしたたり落ち、それでも走ることはやめなかった。
不安げに己の背中を見ていた男の一人が、あれ?とにわかに首を傾げる。
「……上は若い男の一人暮らしだろ?子どもなんかいたか?」
訝し気に呟かれたその言葉は、しかしエルンストに届くことはない。
一息に二階へと駆けあがり、先ほどの女性の部屋の真上にある扉のノブに手をかけた。
がちゃり、と簡単にそれは回る。何となく奇妙なものを感じながらも、エルンストは中に向かって大声で呼びかけた。
「誰かいるか!?いたら返事をしてくれ!」
部屋の中にはすでに煙が充満していてよく見えない。熱もこもり始めている。
ハンカチを取り出し口に当てながら、エルンストは部屋の中に足を踏み入れる。
「誰かいるか!」
一番奥の部屋で再び叫んだ時、どん!と何処からか何かがぶつかるような音が聞こえた。
はっとあたりを見回すと、今一度音と振動。そして何かに阻まれているのか聞こえにくいが、人の声のようなものも聞こえる。
眉間にしわを寄せながら煙い室内を見回すと、ぼんやりとだが壁際に大きな衣装タンスがあることに気が付く。
タンスの周りには男物のスーツやコートが乱雑に放置されており、「あれだ」と気付いた瞬間駆け寄る。
取っ手に手をかけ、勢いよく音を立ててその扉を開けた。
その木製の扉の中……足を折りたたむように小さく詰め込まれていたのは、10歳前後の少年だった。
手首、足首はロープで縛られ、口は布切れで塞がれている。
大きな目に涙を浮かべながらエルンストを見上げる彼に、慌てて手を伸ばした。
「大丈夫か!?そのままじっとしていろ!今助けてやるからな」
「う、うううっ!」
ぽろぽろと彼の目からは大粒の涙が、哀れな少年の頬を伝っていく。
手足の拘束をほどいて口に結ばれていた布切れを取り外し、エルンストは彼に自分のハンカチを手渡した。
「ハンカチで口を塞いでいなさい。決して煙を吸わないように」
少年がこくりと頷いたのを見て、その矮躯を抱き上げようとした……ときに、エルンストは少年の足首に細い糸が結ばれているのを見る。
刹那───ぴいん、と引っ張られた糸が千切れて、同時に背後で何かが割れた。
ガラスが砕けるようなそれに聞き覚えがあり、エルンストはぎくりと背後を振り返る。
(まずい……!)
油らしきものが漏れる割れた瓶、そして今まさに落ちんとする蝋燭をその目で捉えた瞬間だった。
絨毯の上で、爆発するように炎が広がった。
◆
きゃあっ!と甲高い悲鳴を聞いて、リザリーは己の住居であったアパートメントを見上げた。
パブの主人に消火隊への電話を頼み、戻るための道を駆けている最中だった。
距離があっても感じる熱気と真紅の炎。
住み慣れた住まいに放たれた火は、先ほどよりもずっと強い力で燃え上がっている。
「何があったんですか?」
「わからん。急に二階の窓が割れて炎が吹きあがったんだ」
「あの中にはまだ騎士団の方がいるの……、中の様子を見に行ったんだけど」
人ごみから聞こえた声に、リザリーはざっと体中の血液が冷えていくような感覚がした。
(エルンスト、まだ中に……!)
アパートメントの壁は既に大きな炎の手で撫でられ、炭と化してきている。
あの業火では、例え数多の事件を解決に導いてきたエルンスト・ローゼンであってもひとたまりもない。
絶望するリザリーの前で、めらりと大きく炎が揺れる。
まるで自分たちを嘲笑っているような動きであった。
(……また、死んでしまうの?ミモザさんみたいに?)
炎の赤が、頭からこびりついて離れない鮮血の赤とリンクする。
哀れ凶弾に倒れ手から零れ落ちていった命が、リザリーの心を締め付けていく。
───このままでは、駄目だ。
ほぼ衝動的にそう考え、近くでバケツの水を運んだ男を見つけて駆け寄った。
「すみません!バケツ、水を……!」
「え?あ、あんた、何をする気だ!?」
ぎょっと目を見開く男の手からバケツをひったくり、その中に入っていた水を頭からかぶる。
コートごとじわりと濡れた感覚に気持ち悪さを感じる間もなく、リザリーは炎に向かって勢いよく駆け出した。
背後でおい!と慌てた男の声がする。しかし止めることは出来なかった。
まだ炎の手が伸びていない外階段を駆け上がると、野次馬たちから驚愕の恐怖の声が上がった。
手すりはとても熱くて握れそうにない。炎も煙もすぐ近い。
「エルンスト!どこ!?」
二階にたどり着いたリザリーは開け放ったままの非常扉から中に入り、あたりを見回す。
が、そこはもはや黒煙が支配する世界であった。
ハンカチを口に当てて今一度目を凝らすが、前へ進むことすら困難な状況。
この中でエルンストを探すなど無謀の極みであり、どうするべきかとその場で逡巡した時だった。
「リザリー!」清廉な声が己を呼ぶ。
はっと顔を上げ、目を凝らし耳を澄ませた。
「リザリー!こっちだ!数えて二番目のドア!」
「エルンスト!!」
彼の生存を伝えてくれたその声を頼りに、リザリーは目を凝らしながら大きくあけ放たれた二番目の扉へとたどり着く。
何故かこの部屋は、他の部屋よりも火の回りが早いようだった。
比べ物にならない熱気に顔を歪めながら、リザリーは警戒しながらしかし素早く室内を歩いていく。
壁も絨毯も炎に包まれている。崩れ落ちるのも時間の問題だった。
エルンストは一番奥の部屋に、大量の衣服とともに倒れていた。
彼の足には衣装ダンスが乗っており、身動きできない状況らしい。
慌てて名を呼びかけよると、険しくしかめられた顔がはっとこちらを向いた。
「エルンスト!」
「リザリー!この子を!」
彼の腕の中には、くったりとした幼い少年が抱えられている。
目立った外傷はなくまだ息はあるようだが、熱にやられたのか煙を吸ったのか……早く病院に運んだ方がいいことはリザリーにもわかった。
「わかった。エルンストもはやく」
少年を抱き上げると、続けてエルンストにも手を伸ばす。
しかし彼はゆっくりと首を横に振り、自嘲するように言った。
「……いや、僕は駄目だ。その子を早く連れて行ってくれ」
「何言っているの!!」
プライドの高いエルンスト・ローゼンらしくない台詞に、リザリーは思わず叫んでいた。
エルンストは己から、タンスに挟まれたままになっている足へと視線を転じ、静かに呟く。
「タンスに挟まれたときに、左足が折れてしまったらしい。歩けない僕は足手まといだ」
「抱えていく!」
「無理だ。子供と、男一人の体重を君は支えきれない」
言われて、思わず口ごもる。確かに今のリザリーには、彼らを助けられる力は無い。
それでも動かない己に向かって、エルンストは眉をつり上げて怒鳴りつけた。
「早く行け!君も子供も死ぬぞ!」
「あ……そんな、」
見捨てていけない。もう誰も近しい人を死なせたくない。
その願いはしかし、喉の奥に張り付いて言葉になることはなかった。
まるで炎がリザリーの言葉全てを燃やし尽くしてしまったかのようだ。
ばちり、と背後で何かが崩壊する音が聞こえた。
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