第13話

 当たり前だが屋根裏は薄汚れていて、這いずるたびに服も顔も汚れていく。

 小動物や虫の死骸を何度も見てしまい、腕に浮き出た鳥肌が消えることは無い。


 だが決して進むことをやめることは出来なかった。

 いまこの廃屋内にいるミモザがどんな目に合い、どんな恐ろしい目に合っているかわからない。


 気持ちの悪さと不安を緩和させるように、今の状況を頭の中で整理する。


(あいつ、手紙って言っていた……。ということは営利誘拐?脅迫状を書かせるつもりかな?)


 電話だと接続した電話回線で居場所がばれる。

 だから人質の無事を示すためにも、ミモザの筆跡で手紙を出すのだ。


 郵送するつもりなのか直接届けるのかはわからないが、身代金が受け取られるまでミモザの命は安全かもしれない。

 もちろん短絡的な犯人なら、手紙を書かせたら手にかける可能性も高かった。


 そこまで考えてふと引っかかることが浮かび、リザリーは静かに唸る。


(でも、営利目的なら私を誘拐してきた理由は何だろう?今度は彼女と一緒にいたわけじゃないし)


 しがない新聞記者よりも新進気鋭の作家に、新聞社はより高い身代金を払うだろう。

 金目的ではないとしたら、リザリーは何のためにここにいるのか。

 思い当たる理由とすれば、犯人にとって何か都合の悪いものを見たか聞いたかだが……。


(最近色々あったからなあ……。何かが犯人に繋がるの……?)


 考えてみるが、思い当たることがありすぎる。


 ただ一つわかることと言えば、このままでは己の身も危ないということだった。

 今は手間を考えて後回しにされているのだろうが、全てが終われば真っ先に手にかけられるのは自分。


 早くミモザを見つけ、脱出しなければ───強い焦りをなだめながら、前へ前へと進む。

 どのくらい這いずっただろうか?にわかに天井の下から、強張った小さな声が聞こえてきた。


「……書けました」

「見せてみろ」


 その会話にはっとして、リザリーは動きを止める。

 声が聞こえた場所を探し、天井裏に開いている小さな穴から下をのぞき込んだ。


 天井の下にあるのは、イスとテーブルが並べられたほの暗い部屋。

 その中心に見覚えのあるプラチナブロンドの女性……ミモザ・マーティンがいる。

 テーブルを挟んで彼女の前には、男女入り混じった集団が立っている。


 彼らの中心にいる男が小さな紙切れを手に見つめており、しばらくして頷いた。


「これでいい、指示通りだ。……ジャン、届けてこい」


 封筒にいれたそれを受け取ったのは、小柄でまだ顔立ちが幼い男だった。

 彼は一つ頷くとぱたぱたと足音を響かせて、部屋を去っていく。


 しばらく小男が消えた部屋の中で、ミモザはしばらく彼らを睨みつけていた。

 やがてぴりぴりと緊張感のある様子でとげとげしく問いかける。


「それでこれからわたくしをどうするおつもりです?」

「貴女は、今から新しい物語の主役になるんだ……」


 恫喝でねじ伏せるようなものとは正反対の声を出したのは、集団の中心にいた人物だった。

 静かで酷く落ち着いた声。しかしその内容は咄嗟に理解できるものではなく、問いかけたミモザだけでなくリザリーも一瞬息を飲んだ。


 間があって、「どういうことです?」とためらいがちにミモザが訪ねる。

 答える声は誘拐を企てた人間が出すものとは思えないほど、穏やかだった。


「皆が満足する物語だ。身勝手でない、素晴らしい、納得のできる物語」

「新しい物語は良いものになるわ……」

「ずっと考えていたから。皆がこっちのほうがいいと言ったから……」


 中心にいた男に続き、様々な声がぼそぼそと返答していく。

 だがどれも要領を得ず、ミモザもどう受け取ったらいいかわからないようだった。


 またしばらく時間を置いて、今度は迷っている様子でおずおずと質問を続ける。


「つまりその物語……?を完成させるために私を誘拐したんですか?」

「そうだ」

「物語というのは、貴方たちの作った物語(すじがき)と言うこと?」


 これにはしばらく間があったが、やがてまたぽつぽつと返答が始まる。


「違うわ、私たちはただの背景、名前がない人間だから……」

「俺たちはこれくらいでしか物語の役に立たないんだよ」

「そう言われているんだ」


 抑揚のないぼつぼつとした声たちだった。

 死人に声があるのなら、恐らくこんな声で話すのだろう。

 そう思うほど彼らの声は暗く静かで、沈んでいる。


 リザリーは先ほど虫の死骸に触れたときとは別種の鳥肌が肌に浮かんでくるのを感じた。

 それはミモザも同じだったようで、ついに問いかけが途切れてしまう。


 犯人たちもそれ以上会話をするつもりはないのか、抑揚のない声で「来い」とミモザに言った。

 彼らに連れられミモザは部屋を去っていき、がちゃりとドアノブが回って気配は遠くなっていく。


 最後に聞こえた「期待してエルンストを待っていればいい」と言う声が、妙に印象に残った。


 一同の気配が完全に消えたあと、リザリーは再び天井を移動し始める。

 彼らの言った言葉の意味を考えたかったが、ひとまずはミモザがどこに連れていかれたのかを確かめなければならない。


 それに自分が閉じ込められていた部屋に人がいつ来るか不安だ。

 閉じ込めていた人間が消えれば犯人たちは殺気立つだろうし、そうなれば逃げるのが困難になる。


(足音は、こっちに消えていったような……)


 その感覚を頼りに這いずると、僅かに移動した地点で再び人の気配を感じ取る。

 足音とぼそぼそとした陰気な話し声。そしてがちゃん、と鍵が回る音がして、リザリーは再びミモザが閉じ込められたのだと察した。


 再びその場で停止して、話し声と足音が遠ざかるタイミングを待つ。

 気配が消え、彼女が捕らえられている部屋を見つけることが出来ないかとあたりを見回す。


 幸いにも先ほど場所よりも湿っぽく、天井板が腐敗している部分が多く、至る所に穴が開いていた。

 その一つ一つを順に確かめていき、ようやくリザリーは彼女の部屋が見下ろせる場所を見つける。


「ミモザさん、ミモザさん」


 出来るだけ静かな声で名を呼べば、壁に寄りかかるようにして座っていたミモザがはっと顔を上げた。

 きょろきょろとあたりを見回して、「え?リザリーさん?どこに?」と問いかける。


「なるべく静かな声で話して。天井にいます」


 告げた瞬間ミモザは動きを停止させ、視線だけで天井を見上げる。

 穴越しに見開かれた彼女の灰色の瞳と目が合った。


 驚いたようなその表情に一瞬だけ安堵が、そして次に不安が入り混じって視線を扉へ転じる。

 リザリーは彼女を安心させるように微笑みを浮かべ、優しい口調で問いかけた。


「そこに誰もいませんか?」

「はい。犯人たちは出て行って……人影は無いと思います。気配もありません」

「私は出口を探します。必ず迎えに来ますから、もう少し待っていてください」


 うろたえるミモザは「そんな、危ないですよ」と呟き、リザリーを引き留めようとする。

 確かに危ない。一般市民の自分ごときが、誘拐を企てるような人間に太刀打ちできるはずがない。


 だがそれでも、リザリーは今動くことが出来る。


「ここにいたら、お互いに何をされるかわかりません。犯人が私たちを生かしておくつもりが無かったら……」

「……」

「すぐに戻ります」


 それだけ行って、リザリーは天井裏を再び這いはじめる。

 憂いを含んだミモザの目がこちらに寄っていたが、答えることはしなかった。


(でもどうしよう。ここから降りれる場所があるとも限らないし……)


 安全に脱出出来る道を考える。

 古び腐りかけの天井には、下を覗ける穴はたくさん開いており、壁も崩れかけている場所もある。

 力を入れれば壊れそうだったが、下が安全な着地点かと問われれば否だ。


 穴から覗いてわかったことだが、ここは恐らく前世紀に建てられた古い工場である。

 そういった古い工場がまだ残っている場所……ここは恐らくクルツ北区の工業地帯の可能性が高い。


 北区は川が多いためか湿気があり、建物の痛みも激しいと聞く。

 この天井裏の腐敗具合から見ても、リザリーの中で確信は深まっていく。


(……とすると中央区からかなり遠い。ここから逃げたら、近くの電話機のあるお店に助けを求めた方がいいかな)


 一度新聞でこの地区の食べ物屋の特集を組んだことがあるから、地理は記憶の中にある。

 場所が変わっていなければ、まだ店はあるはずだ。


 脱出してからの算段はついたが、問題はこの工場をどうやって抜け出さすかだ。

 エルンストなら、カトレアならと……自分の弱さを恨み、それでもリザリーは這いずり天井から建物を観察する。


 何とか二人この窮地を脱するために、動ける己が死力を尽くさなければならなかった。

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