第7話

 しばらく待っていると、電話口で言っていたようにバートン編集長がミモザのアパートメントにやってきた。

 彼が大家夫妻の部屋の扉をくぐり抜けて来たとき、リザリーは立ち上がって出迎えようとして…首を傾げる。


「やあ、クラントンくん。騎士団の人に聞いたよ、今回も災難だったね。大丈夫だったかい?」

「編集長……?その顔、どうしたんです?」


 割れた丸ぶち眼鏡の奥で微笑むロジャー・バートンの右頬が、真っ赤に腫れあがり唇も切れている。

 今まさに怪我をしたてのようで、ずいぶん痛々しい。

 正面から見たリザリーだけでなく、ミモザも周りの大家夫妻も彼の有様を見て目を丸くしていた。


「実はここに来る途中転んでしまって打ち付けたんだ。まいったね、ドジで」


 そう言って唇をつり上げたバートンは、頬が痛んだのか眉をしかめて頬を抑える。

 大家の夫人が慌てた様子で「救急箱をお持ちしますわ」と奥に駆けていく。旦那さんもミモザも、彼を気遣い椅子を進めた。


 しかしリザリーは釈然としないまま、苦笑して二人の好意に甘えるバートン編集長を凝視していた。

 転んであんな怪我をするものだろうか?


 普通は頬を地面にぶつける前に手を前に突き出しそうなものだが、彼の両手に傷らしきものは見当たらない。

 それにはあれは打ち付けた擦り傷、と言うより殴られたような痕ではないだろうか?


 ここに来る途中、暴漢にでも絡まれた?

 だが編集長がそれを隠す理由は…とそこまで考えたところで、大家夫人に手当をされていた彼の目がこちらを向いた。


「どうかしたかい?クラントンくん」

「あ、いえ。大丈夫かな?と」

「うん、平気だよ。それよりミモザさんの今日寝る場所が必要だね。セキュリティのいい場所を手配しておくから」

「あ、ありがとうございます」


 バートンの言葉にミモザは微笑んで礼を言い、その後これから彼女がどうするかの相談に移っていく。

 リザリーとしてもその論議に参加せざるを得ず、疑問は頭の隅に残して置いておくほか無かった。


 しばらくしてアパートメントの捜査を終え、エルンストとカトレアが戻ってきた。

 編集長は二人やほかの騎士団と話し、しばらくミモザの仮住まい周辺の巡回を多くしてもらう約束を取り付ける。


 負った傷についてもう少し詳しく聞きたかったが、彼はミモザと護衛に騎士団の一人を連れてさっさとアパートメントを出て行ってしまった。

 追いかけたが三人は騎士団専用車に乗って、すでに走り去ってしまったあと。

 道路の遠くに見える後ろ姿をリザリーは見送るしか出来なかった。


「リザリー、どうしたの?家まで送るわよ」

「あ、うん……」


 カトレアに促されリザリーはアパートメントに戻っていく。

 年上の友人二人にこのことを言うべきか迷ったが、大きな事件の間際に個人的な疑問を持ちかけるわけにはいかないと口をつぐんだ。



 侵入者が発見されたのは、何と一晩明けてすぐだった。

 予想以上に早い発見に皆驚いたが、手配書に描かれた似顔絵に見覚えがある人物が匿名で名乗り出てくれたらしい。


 王都クルツ内でも特に治安の悪い西区に建つ、古いアパートメントにその男は住んでいた。

 騎士団は数人で彼の部屋へとやってきたが…すぐに応援を要請することとなる。


 部屋のベッドに体を横たえていた男は、既に口が利ける状態ではなかったのだ。


「大丈夫か、リザリー?無理なら……」

「ううん、平気。確認させて」


 エルンストから連絡を受け、リザリーは件のアパートメントにやってきていた。

 男の住居と思われる部屋の周りには、騎士団や鑑識官たちが所狭しと行き来している。


 年上の友人の心遣いに礼を言って、リザリーはその中へと足を踏み入れた。


 男の部屋は狭く、デリバリーの包みや衣服などが散乱しており、掃除が行き届いている様子はない。

 部屋の中央にあるテーブルの上だけは不自然に整頓されており、その上にはティーカップとソーサーがぽつんと置かれているのが印象的だった。


 それを見送ってさらに奥の部屋に、男はいた。

 ベッドの上で仰向けになっている。簡素な黒いシャツに包まれている胸は、上下していない。


 ───騎士団が部屋に踏み込んだ時、男の生命活動はすでに停止していたのだ。


 乱れたシーツの上にいるその男を恐る恐る覗き込み、リザリーはうっと呼吸を止めた。

 それでも何とか平静を保ち、ぴくりとも動かないその体を見落とさしの無いように一つ一つ観察する。


「……この人で、間違いないと思う。着ているものも一緒だし」


 やがてゆっくりと息を吐き、リザリーはじっと見守るエルンストに言った。

 すでに亡くなっているので印象は少し違うが、昨晩ミモザの部屋に侵入してきた男で間違いない。


 そう告げてようやく、生者とまったく違う土色の肌から視線を逸らし顔をうつむかせた。

 黙って待っていたエルンストがそっと背中に手を回し、慰めるように撫でてくれる。


「よく頑張ったな、リザリー。他に気が付いたところはあるか?」

「ほか、は……」


 ちらりと視線だけを男の手元に転じる。

 彼の左手……特に指の第二関節のあたりに血が滲んでおり、その周りも痛々しく腫れていた。

 ちょうど拳を握りしめて、何かを殴ったり打ち付けたときに出来るような傷だった。


「あの怪我、昨日は無かったと思う。私が噛みついたのはどっちかの足だし」

「ああ、君の歯形と思われるものが右足首についていたよ。しかし、そうなるとこの傷は逃げる際についたものかな?」


 他にあるか?と再度問われ、リザリーは考えたあとゆっくりと首を横に振る。

 エルンストはそれ以上強要することなく、肩を支えて部屋の外に連れ出してくれた。


「顔が青い。大丈夫か?外の空気を吸った方がいいんじゃ?」

「ううん、平気だよ。……それより、あの人ってどうして亡くなったの?」


 アパートメントのエントランスホールで思い出したように呼吸を整えたあと、リザリーは気になっていたことを尋ねる。

 いまだ心配げに己の背を撫でたまま、エルンストは難しい顔をしながら口を開いた。


「毒を飲んだんだ。部屋のテーブルにカップがあっただろう。あの中に致死性の毒が混入していた」

「……自殺?」

「まだわからない」


 ゆっくりと首を横に振る彼を見つめながらしばし考え、再び思いついたことを問いかける。


「いつ亡くなったかはわかってる?」

「まだ詳しい結果は出ていないが、昨日の晩という話だ。恐らく、家に帰ってきてすぐにあれを飲んだのだろう」


 そこで会話が途切れて、リザリーは男の部屋に視線を転じた。

 一般的に考えるなら、ミモザの襲撃に失敗した男が、捕まるのを恐れて自ら毒をあおった…という筋書きだろうか。


 しかし今までのこと全てをまとめたとしても、彼が犯したのは命を絶つほどの罪なのか。

 悩み始めてふと、先ほどベッドで見た男の体…手の部分を思い返して友人を振り返った。


「エルンスト、あの人、指は全部あったよ。出版社に送られてきた指って……」

「ああ、あの男のものではない。浮浪者から指を買ったのか、それとも他に仲間がいるのか……鑑識はそう言っているが」


 頷いたエルンストは、酷く険しい顔をして男の部屋を睨みつけている。

 呆然とするリザリーの目の前で、彼は口元で手を当てて唸るような声を出した。


「だが僕は、あの男が指を送った人物とは面識がないのではと考えているんだ。奴はマーティン女史の住居を知っていた、しかし指は直接彼女ではなく新聞社に届いた……」

「……犯人は二人いるってこと?」


 血まみれの小包、切り落とされた指、侵入して死んだ男、そしてファンレター染みた奇妙な手紙。

 ここ数日で起こった恐ろしいその全てが、頭の中でぐるぐると回り背筋が凍る。


 愕然として問いかける己に、エルンストは少し考えて「まだわからない」と首を横に振った。


「しかし奇妙なことはまだあるんだ。テーブルに置かれたカップ…あれは椅子があった場所から見て取っ手が右を向いていた」

「?……それは当たり前なんじゃない、カップはこう、右手で……あっ!」


 利き手でカップを持ち上げる仕草をしながら気が付いたことがあって、リザリーは小さく声を上げる。

 ベッドで息絶えていた男の左手には傷がついていた。最初に思った通り、あれは何かを強く殴ったのだ。


 そして自らが傷つくほどの力で攻撃するときは、人はたいてい利き手を使うのではなかろうか?


 それに気づいた時、頭から足元まですっと血の気が下がっていくような感覚がして、ぎゅっと自らを抱きしめるように腕を回す。


「あの人、左利きなの……?」

「ああ。あのカップ以外は皆、左手で持ちやすいように配置されていた。間違いはないだろう」


 どうしようもない寒気を覚えてぶるぶる震える己を見つめ、エルンストが頷く。

 優しい彼のいつになく深刻な様子に、自分たちが途方もなく恐ろしいことに巻き込まれているのだと実感した。

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