第5話

 硬直するリザリーの耳に、今一度がしゃんと何かを砕く音が聞こえてきた。

 決して空耳ではないそれに、自然と椅子から腰が浮く。


 中腰のままどうするべきかためらっているうちに、ガラスを踏みしめるような足音が響いてくる。

 間違いない。誰かが部屋のどこかの窓を割って侵入してきたのだ。


 音の出所を探るため、きょろりと周りを見渡す。

 ミモザの住居は一等地に建つアパートメントだが、独り暮らしのためか部屋数はそれほど多くない。

 どこで足音がしているかはすぐにわかった。


 ひっそりと近づいてくるそれは、リビングから見て右奥にある一室から聞こえてきているようだった。

 用心深くうかがっていると、足音を含めた物音が不意に消える。


 気配を消したのだとわかった。気配を消す理由が、相手にはあるのだ。


 先日送られてきたおぞましい宅配物と、奇妙な手紙の内容が脳裏に過る。

 己と同じく音を聞きつけたのか、ミモザが恐る恐る忍び足で台所から戻って来た


「……リザリーさん」

「ミモザさん、逃げないと…誰かが部屋に入って……」

「こっちへ……」


 宅配物の件もあり、流石のミモザも部屋を確認しにいく余裕は無いようだ。

 彼女は顔を青くしながらもリザリーを促して、玄関へ向かう。

 カバンと机に広げていた書類をまとめ、そのあとに続いた。


 幸運なことに音がした方向とは逆であった。

 二人は音を立てないようにすり足で静かに、だが急いで出口へと向かう。


 足音はまだ件の部屋の中から出てこない。用心しているのか?

 このまま侵入者に気づかれないうちに逃げ出せるかもしれない……安易な考えでリザリーは、そっと背後を振り返る。


 ───違和感がそこにいた。


 闇から吐き出されたかのような黒いシャツとスラックス。

 血の気のない肌はその服と明かりのない背景から、ぽっかり浮いているように見える。

 不自然なほど動かないそれは、呼吸の仕方すら忘れているのではと疑うほどだった。


 いつの間にか開いていたドアの隙間から、のっぺりとした顔の男が体半分をのぞかせて立っていた。


「ひっ……!」


 思わず小さく悲鳴をあげると同時に、ぎいと大きく扉が開く。

 己と同じく振り返ったミモザが悲鳴を上げた。


 「きゃあ!」と甲高いそれを合図にしたように、男は手を伸ばしてこちらに向かって走り寄ってくる。


「……っ!逃げて!」


 血走った彼の目は間違いなくミモザに向いていた。

 考えるより前に彼女の背を押して、前に出る。駆けていく足音を背後に聞いて、リザリーは手に持っていたカバンを構えた。


 相手は武器らしいものを持っていない。

 ならば危険なのは腕力のみ。隙を作るべく、リザリーは持っていたカバンを振り上げる。


「この!来るなっ!!」

「……ぐ!」


 己の背後にいるだろうミモザ目掛けて伸ばされた手を叩き落とし、男が戸惑っている間に今度はその頭をカバンの側面で殴る。


「やめて!ミモザさんに近づかないで……!誰なの!?」


 ばしん!ばしん!と幾度も殴打すると、流石に大の男でも痛みを感じるのか腕を振りリザリーを追い払おうとする。

 黒い手袋に包まれているその両手が、ちりと己の頬をかいた。意外なほど強い力に顔が歪む。


 反撃の隙のないまま追い返せればよかったがしかし、相手との体格と力の差は歴然だった。


 男は怒ったように息を荒く吐き出すと、拳をリザリーに向けて振り上げる。

 それを慌てて横に避けると、ひゅっと耳元で男の腕が掠る音が聞こえた。


「あっ……!」


 直撃は避けることが出来たが、反動で足が滑る。

 後ろに重心がより、リザリーは目を見開いたまま背中から床へと倒れてしまった。


「いっ、たぁ……!」


 どすん!という重い音とともに背中を強かに打ち付け、うめき声を出す。

 幸か不幸か男は痛みに顔を歪める己を一瞥した後、そのままミモザを追った。

 逃がしてはならないと思ったのかもしれない。


 このまま行かせてはいけないと、目に涙を浮かべてリザリーは男を睨みつける。

 倒れる己の体のわきをスラックスに包まれた男の足が通った。


 その足につかみかかると、間を置かずに思い切り噛みつく。


「ぐ……っ!」


 痛みからつい足を止めてしまった男を尻目に立ち上がり、今度はその脛を思い切り蹴った。

 「うおっ!」と野太い声とともに、今度は男が床に倒れる。


 自分の時よりもさらに重い音で部屋の床が鳴ったのを聞いて、リザリーは玄関に向けて走り出した。


 ミモザはもう逃げているはずだ。

 そして聡明な彼女のこと、騎士団本部に連絡は入れてくれているはず。

 そう考えて、わき目も降らずにアパートメントの階段を一段飛ばしで降りていく。エレベーターを待つ余裕は無い。


 後ろからあの男が追いかけてくるような気がして、振り返ることは出来なかった。


 階下のエントランスホールにたどり着いたころには、顔には汗が浮かび、何度か転びかけたせいか片方の靴が脱げていた。


 ホールにはミモザと管理人らしき中年の夫婦が立っている。

 不安げな顔で階上を見上げていたが、己の登場に全員が目を見開いた。


「リザリーさん……!」


 ばたばたと駆け下りてくるリザリーに、真っ青な顔をしたミモザが走り寄ってくる。

 目立って彼女に怪我のない様子だった。思わずほっとして眉をたれ下げ、彼女に近づいた。


「ミモザさん、無事ですか!?」

「そ、それはこちらの台詞です。お怪我は?あの男は?」


 問われ、ようやくリザリーは背後を振り返った。

 小さな窓がついているだけの薄暗い階段に、人の気配は皆無。


 明かりの少ない不気味なところを一人で降りてきたのかと少しぞっとしたが、侵入者が追ってくる様子は無かった。


 諦めたのか、それとも何処かで様子をうかがっているのか。

 どちらにしろ不気味なことに変わりなく、リザリーは後ろを見つめたまま首を横に振った。


「わかりません。私、振り払って逃げてきて……」

「そうでしたか……。でも本当に無事で良かった」


 ふっとミモザが安堵の息を吐き、「こっちへ」とリザリーを誘導する。

 中年の夫婦はやはりマンションの管理人で、同じ棟の一階に住んでいるらしい。


 明かりのついた彼らの部屋へ案内され、しっかり施錠しリザリーもまた安堵した。


「騎士団を呼んでもらいました。エルンストさんとカトレアさんも帰ってきてくれるみたいです」

「そう、ですか……」


 エルンストとカトレア。

 その名前を聞いた途端に、どっと体の力が抜ける感覚がした。

 足元がふらつき、がくりと膝から倒れそうになったところを、管理人のご主人が支えてくれる。


「大丈夫かね?こっちに来て座りなさい」

「今紅茶を淹れるわ。少し落ち着くかも」


 管理人の奥さんが慌てて台所に飛んでいく。

 旦那さんも「ブランケットを持ってこようね」と奥へ行き、椅子に腰かけたリザリーは深く息を吐いた。

 少しだけ眩暈のようなものがする。体の震えがあった。


「大丈夫ですか?何処か怪我を?」

「いいえ。でもちょっと……震えが……」


 気づいてしまえば、もう止まらない。

 がくがくと震える腕を自分で包むように抱きながら、リザリーはうつむいた。


 目を閉じると思い出す。暗がりにぬるりと立っていた男の姿。

 あれだけでも心臓が凍りそうなほど恐ろしかったのに、むき出しの害意を目で見てしまった。


 一歩間違えれば、自分はあの男の手にかかって死んでいたかもしれない。

 それを自覚すると本当に怖かった。


「エルンスト……カトレア……」


 何よりも頼れる二人の名前をぽつりと呟く。


 流石に気絶してしまえるほどやわじゃない。

 だが、今は気絶してしまえた方が楽なのではと思った。

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