その鋏の意味するところ

「潤、これ」

 休みの日に呼び出された喫茶店の店内で、会話の途切れた拍子にぽいと渡されたものに、潤は目を丸くした。手のひらに収まる程の大きさの円筒形。短いペンのようなもので、色は濃い紫だ。

「なんですか、これ?」

「ま、開けてみてくれ」

 潤が言われた通りに蓋を開けてみると、黒っぽい金属の光沢が現れた。ぱちんと留め具を外すと、X字に変形する。刃先が丸いそれを見つめて、潤は見たままを口に出す。

「鋏ですね」

「そうだ」

 端的な頷きに、説明を求めるようにじっと目を見つめる。

「私が作った。蜘蛛の糸だけ切れるようになっている」

「そうなんですか?」

「試してみればいい」

 ぴら、と引き抜かれたペーパーナプキンを受け取り、一瞬ためらってからすっと刃を入れる。ぎし、と紙を挟む鈍い感触を確かめるように動かし、放して、くしゃっとなった紙を撫でる。

「切れないですね」

「次はこっち」

 縞の両手の人差し指の間に、細い糸の橋がかかっている。ためらいながらきらめく線に刃を当てると、指を動かすか動かさないかのうちにはらりと儚く橋は落ちた。もう一回試してみろ、とばかりに今度は糸を数本束ねたものを差し出されて切ると、軽い手応えと共にぱらりと散った。とんでもない切れ味だ。目を瞬く潤を前に少しばかり誇らしげな表情をして、縞は手品のように糸を片付けた。

「どういう仕組みなんです?」

「秘密だ。人の理の中に答えはないよ」

「へえ。縞さんの……そうだな、歯で作ったとか?」

 口や脚で糸を操る縞の本性を思い出しながらそう言った瞬間、相手が真顔になったので、潤は慌てて誤魔化した。

「そんなわけないですよねえ?」

「ノーコメントだ」

 平淡な声にハハ、と乾いた笑いで答えて潤は話題を切り替えた。逃げるが勝ちというやつだ。

「しかし、どうして急にこういうものを?」

「そう急でもない。前々から準備はしていた」

「いや、私は今初めて聞いたんですけど」

 潤が刃に指を押し当てて切れないことを確認しつつ聞くと、縞はその好奇心に忠実な手を軽くはたいてたしなめてから、ばつが悪そうな顔でポツリとこぼした。

「……事故防止だ」

「事故?」

「この前みたいなことがあったときのためだ、言わせないでくれ」

 恥じ入るようにうつむく縞を前に、潤は少し首を傾げて考え込んだ。この前。何の話だろう。一拍置いてから思い当たったのは、以前部屋を訪れたときに吊るされたときのことだった。考え事をしていたら本性が出てしまっていた、縞のうっかりの話。

「自分でもどうにかできるようにしとけってことですか?」

「私も気をつけるが、そういうことだよ。まあ鋏としては役に立たないが、私以外の蜘蛛の糸も切れるだろう」

 そう言って満足そうにしている縞を見てから、潤は鋏に視線を落とした。手のひらに収まる紫。蜘蛛の糸だけを選んで断つもの。可愛らしい文房具にしか見えないそれに、わずかに指先が冷えるのを、潤は他人事のように感じていた。

 この友達、結構デリカシーないよなあ、と潤は心の片隅でぼやく。細い糸を容赦なく断つものを私に押しつけて、万事解決みたいな顔をしているのに思うところがある。糸を断ちきり逃げるためのもの。物を渡されたのはこれが最初だが、思えばこういう傾向は以前からあったのだ。親交とは、お互いの事情と気持ちと環境などなど様々なもののすり合わせで成り立つものであるのに、縞は関係の継続も断絶も、潤に委ねようとする気配がある。それが臆病なのか驕りであるのか、どちらにせよ潤は気にくわなかった。縛ったことを後悔したなら、手ずからほどいてほしかった。いつでも縁を切ってもいい、逃げていいなんて言われるのは屈辱でさえあった。

 とは言え親切からの提案ではあるし、糸を切るものから連想される縁起の悪さを自分が気にしすぎなだけなのだろう、と潤は笑顔で鋏を受け取った。価値観の違いによって波打った感情を、顔に出さずに飲み込むことにももう慣れていた。

 その代わりに、縞が触れずにいることについて言及することにした。

「縞さん、この鋏の色」

「別の色にもできるぞ」

「気に入らない訳じゃないですよ、むしろ好きです」

 そうか、と安堵したように目元を緩める縞に、潤は囁くように言った。

「縞さんの目の色だ」

 そう言ってとろりと笑み崩れる潤を、縞は一瞬ぽかんと間抜けに見つめて、すぐさま眉間に皺を寄せた。

「君のそれが素なのはもうわかったが、万里の前では言うのは控えてくれよ」

 縞はその顔もよしてくれ、と苦々しげに付け足して、潤に不躾に指を突きつけた。

「教育に悪い。この妖怪たらしめ……そんなつもりじゃなかったのに!」

 責めるような言葉に潤はつい吹き出して、ぱちんと音を立てて鋏を畳んだ。勿体ぶるように胸ポケットに納め、挑むように言い放つ。

「じゃあ、純粋な万里さんを守って代わりにたらしこまれててくださいよ」

「どこまでも口の減らんやつだ、君は!」

 憤慨したように言う縞に、潤はいたずらっぽく片目を閉じた。ウインクもどきにさらに苦い顔をする縞の癖を、潤は既に知っている。照れたとき、気恥ずかしいとき、嬉しいがそれを悟られたくないとき。友達である蜘蛛は殊更に顔をしかめてみせるのだ。むずむずと上がりかける口角を抑え込むようにして唇を引き結び、凛々しい眉をわざとらしく寄せ、目尻をきりりと吊り上げる。そうでなければ面目を保てないとでも言うように。

 その表情を見て溜飲が下がるのを自覚して、潤は内心苦笑した。まったくもって性格が悪い、と薄く後悔を滲ませる。

 潤は自分を比較的善良な方の人間だと思っていたが、それは勘違いなんじゃないかと今は思っていた。善良な人間は友達の見せたくないものを見ようとはしないはずなのに、潤は縞が隠そうとするものを見たかった。悪辣を自称する妖怪の、優しいところや情けないところ、取り繕わない素直な態度を見たかったし、それができないなら取り繕うことさえできなくなるくらいに揺さぶってやりたい気持ちもあったのだ。そう思ってしたことに(または意図せずしたことに)、友達が多少動揺して、ぶつぶつと悪態をつかれることさえ楽しいので、やっぱり自分は性格が悪いのだときっちり認識を改めた。性格が悪いなら悪いなりに、自分と他者と折り合いをつけていくしかない。縞は潤に大概甘いので、潤はある程度自分にいいように振る舞うことができていた。

 だから潤は、未だ続く説教混じりの悪態を顔色一つ変えずに受け止めて、いかにも人が悪そうな口調を作って言うのだ。

「そういうところも好きなくせに!」

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