その情を垣間見る

「名前の意味? そんなの考えてられませんでしたよ、急な話だったんだから」

 音でつけただけです。かまきりだからまり。まあ安直ですけど、潤に考えさせるわけにはいかないでしょう。生まれたての妖怪の名付けなんて重すぎる。それに真面目だから、絶対、ちゃんと考えようとする。それはまずいでしょう。あの子は言葉の強さを知らない。ただでさえ妙なものに好かれるんだ、いやその筆頭は私なんだけど、ともかくこれ以上妖怪との結びつきを強めるのは避けたい。そうでしょう、先生?

「ええ本当。あなたの言う通りよ」

 葛ノ葉は重々しく頷いて、縞のグラスにワインを注いだ。自分のカルーアミルクは、手元から少し遠い位置にあった。


「それで? なんれ……なんでしたっけ」

「名前の由来よ、万里ちゃんの」

「名前、ああ、名前……万里……」

 万里の名前の話を素面でしてから一時間半、頭の芯にまでアルコールが回ったような怪しい呂律で、縞はぼんやりと目を彷徨わせた。顔色は変わらないが、それは本来の血の色が赤くないからという理由だけで、現在したたかに酔っぱらっている。

「五回」

「うん」

「五回、冬を越えたんだってきいたんです」

 語り口は唐突だったが、縞から見ればきちんと筋道を立てた上でのことだったようだ。流暢に捲し立てた言葉をすっかり忘れたように、たどたどしく問いに答えた。

「そしつが、元々あったにせよ……かまきりの体で、冬を、五回も……それは、なんだかすごく、遠くまで、やって来たもんだと」

 ただひとりのためだけに。言葉はもつれる糸のように、上から下へと流れていった。それをほどく努力を放棄して、縞は途切れ途切れに言葉を押し出した。

「わたしは、そういうのはなかったから……すごいと、思った。そんなこと、だれにでもできることじゃないってわかるから」

 だから漢字はそうしたんです、万里、ながいながいみちゆき。そう生まれたことを、大事にしてほしいから。そう締めくくり、縞はグラスのハイボールを少しなめた。

「そうなんだって。初めて聞いたわね」

「うん、知らなかった」

 日課の勉強を終えて途中からテーブルについていた万里が頷く。

「なんで教えてくれなかったの?」

「げどうぐもが……そんな、ちゃんとしたなまえをかんがえるなんて、たいさいがわるいだろ、ようかいとして」

「体裁ね」

「てーさい。はい」

「先生、そういうものなの?」

「この子のポリシーであって他の蜘蛛が全てそう思っているわけではないわね」

 万里は体裁の意味がよく分からなかったのであとで調べることにして、自分の名前にある意味について考え、正直な所見を述べた。

「あんまり大変だとは思わなかったよ。それより、早く潤に会いたかった」

 何気ない呟きに、縞は目を大きく見開いた。そのままじわじわと表情が変わっていく。嬉しそうな表情だ。

「わたしは、きみのそういうところがなぁ……」

「わわ、何?」

 突然万里の手を引いて、縞は立ち上がった。両手を掬い上げるようにとらえて向かい合う。

「すなおで、かわいい、わたしのともだちのおよめさん。そういうところが、たまらなくまぶしいよ、本当に」

「何言ってるのかわかんないけど……あたし、まだ潤のお嫁さんでもなんでもないよ? うわっ」

「そうなのか? いや、どうでもいいさ、君は潤が好きだ。実に見る目がある。すばらしい。それにすなおで、かわいくて……」

「それさっき聞いたよ」

「そうだったかなぁ? 覚えてないよ」

 テーブルやソファの隙間を縫って、小柄とは言えない二人がくるくる踊る。通った軌跡に、色が分からないほど細い糸が際限なく引かれていく。転びそうになる万里を、蜘蛛の脚が自然に支えた。瞳は紫に輝き、人の体から本性が滲みだしている。万里は普段見ない姿に狼狽して悲鳴じみた声を上げた。

「先生、縞がヘン!」

「酔っぱらうとそうなるのよ、普段はもうちょっと自制するんだけど」

 笑いながらくるくる回る縞に翻弄されて、万里は爪先でカーペットの端を盛大に捲りあげた。テーブルの上の皿は葛ノ葉が守っているが、それがなければ今ごろ大惨事だ。万里は止まらないダンスにちょっと酔いそうになりながら、楽しそうな縞に声をかけた。

「縞、あのね」

「なんだ?」

「お酒はやめた方がいいと思う」

「こんなに楽しいのに? 褒められるのはいや?」

「いやじゃないけど。でもさ、言いたくないことだから、いつもは言わないんでしょ? だから、こんな……ヘンになっちゃいながら言っちゃうのは……よくないんじゃないの?」

 万里は至極真面目に言っているのに、縞は低い声を立てて笑うだけだった。

「きみは潤に似ている。……助けてもらった人間に似るのかな、せんせいどう思う?」

「それは検証するのが難しすぎるわね。事例が少なくて」

「そうだな、それにどれだけ長く一緒に過ごしても、ちっとも似ないやつもいた」

 自分にはわからない話をしながら踊り続けるものだから、万里は飽きてしまってその手をほどこうとした。それなのに手が離れない。鈍い抵抗に驚いて、手元に視線を落とすと真っ白な繭のようなものに包まれている。蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされている。くすくすと意地悪い笑い声の元をきっと睨んだ。

「はは、鈍いところも潤に似ている」

「先生! 縞がいじめる!」

「はいはい、ほどほどにしときなさいね」

 葛ノ葉も素面ではないためか、おざなりに言って酒を飲んだ。万里は当分酒を飲みたくないと思ったし、二匹にも飲まないでほしいと思った。

「こんな糸簡単に切れるだろう、人の姿でも。気にせず切ればいい」

 言われてみればそうだと万里が手に力を込めたその瞬間、ドアの隙間から滑り込ませるように言葉が差し込まれた。

「実際切られたら傷つくが」

「何が? ちゃんと糸だけ選んで切れるよ?」

 心外だとばかりに万里が言えば、縞は脚を止めないまま首を横に振った。

「心がだよ、お嬢さん」

 万里はそう言われて困ってしまった。心。人の形をとって、その生活を学ぶなかでその複雑さに目を回している一番の難事がそれだったのだ。しかも何を言っているのか全然分からない以上、うっかり糸を切ってしまうこともできなくなってしまった。分からないことはちゃんと聞きなさい。ここに来たばかりに言われたことを、万里は素直に実行する。

「なんで心が傷つくの?」

「なんでだろうなぁ」

「教えてくれなきゃわかんないよ」

「分からなくていい、こんなこと」

 縞が怒ったように言うものだから、万里はほとほと困り果てて天井を仰いだ。あ、蛾がいる。明かりに引き寄せられる気持ちは分かるけど、この家からは出た方がいいんじゃないかな。何するか分からない大蜘蛛が一匹いるし、でたらめな軌跡の糸がそこらじゅうで透明に光っているし。それは万里の初めての現実逃避だった。腰のあたりにまた糸が巻き付けられていることに、万里は今度は気づいた。

「やっぱお酒、やめた方がいいよ」

 諦めたようにそう言えば、縞は腹の底から響くような笑い声を上げた。自分が楽しくないときに相手が笑っていると腹が立つ。万里はこの場で一つ学んだ。

「明日のわたしによくよくそう言っといてくれ」

 そう囁いて、縞は仰向けにソファに倒れ込んだ。当然万里も道連れだ。そのまま寝入ってしまったのを絶望的な気分でしばらく眺め、深々とため息をついた。名付け親を具にしたサンドイッチになってしまった万里は、辛うじて動かせる首をゆっくり捻って藁にもすがるような気持ちで訊ねた。

「先生、どうしよう」

「切ればいいじゃない。酔っぱらいの言うことなんかまともに聞くことないんだから」

 酒が入ってるとはいえ生きていてそれなりに長い妖狐は、至極真っ当な答えを返した。万里は少しためらって、もう一つ訊ねた。

「傷つくって言ってたのは嘘なの?」

「それは本人にしか分からない。冗談に聞こえるように言ってたみたいだけどね」

 その「冗談」というのも万里にはまだ難しかった。どうしてわざと誤解されるようなことを言う必要があるんだろう。考えたが分からなかったので、次の機会に聞いてみようと思った。

「このままにしとく」

「あら、いいの?」

「うん」

 万里はまだうまく説明できなかったが、こんなことを考えていた。意味なんてないと言い張っていた名前に本当は意味があったというのなら、心が傷つくというのにも何か意味があるんじゃないだろうかと。分からなくていいと突っぱねたその奥にあるものは、もしかしたら大事な何かなんじゃないだろうかと、そう思ってしまったから、無理矢理糸を切ることはできなくなってしまった。

「起きたらほどいてってお願いする」

「そう? じゃあ何かかけるもの持ってくるから。姿勢が辛くなったらちゃんと糸を切って、その酔っぱらいを放り出すのよ?」

「はぁい、せんせい」

 下敷きにしてしまった大蜘蛛の体が酒で火照ったままなので、万里はだんだんと眠くなってきてしまった。自分の体で縞の鼻や口を塞いでしまわないようにどうにか動いて、薄手の毛布をかけてもらったのにむにゃむにゃ礼を言ったのを最後に、蟷螂は眠りに落ちた。


「何でこんなことになってるんだ!」

 体の下から響いた困惑混じりの叫びに、万里は目を覚ました。

「縞、おはよ」

「ああおはよう。これは一体どういうことなんだ?」

「縞が踊って、寝たの」

「それだけじゃ分からないよ……」 

 酒を飲むと記憶がなくなることもある。覚えたばかりの知識を引っ張り出して、縞はサンドイッチのままかいつまんで説明した。うっかり口を滑らせてしまったであろう発言については、葛ノ葉に口止めされていたので黙っていた。

「これほどいて。どいてあげらんないから」

「またやったのか、私」

「……? こんなことされたのは初めてだけど」

「君にじゃない。ああもう最悪だ……」

 呻きながらも縞は糸を切り、万里はのそのそ起き上がった。青白い顔で頭痛をこらえる縞は、ふと顔を上げて低い声で尋ねた。

「というか君、これくらいの糸なら自分で切れただろ。なんでそうしない」

「縞が、切ったら傷つくって言ったから」

「はあ? いや、確かに肌が切れるくらいはするだろうが……」

「違うよ。心が傷つくって言ってた」

 万里の言葉に縞は目を見開いた。それからじわじわと表情が変わっていく。万里はまだ知らなかったが、それは蜘蛛が弱みを握られたと思ったときにする表情だった。

「……酔っぱらいの言うことなんか真に受けるな」

 絞り出すような声に、万里は曖昧に頷く。蜘蛛が未だ秘密のままだと思っている、一匹の蟷螂が通った長い道行きのことを考えていた。あのまとまりのない言葉を冗談だと思ってしまうことがあれば、万里はそれこそこの大蜘蛛に顔向け出来ないような気がしていた。それを言葉にすることはまだできなかったから、傍目にはただ寝起きでぼんやりしているだけのように見える。

 縞は二日酔いと不機嫌を合わせた最大級のしかめ面で念を押した。

「いいか、今度そうなったらちゃんと抜け出してくれ。君はそうすることが出来るんだから」

「わかったよ」

 万里は縞がわざわざ「君は」と言ったのには理由があることに気づかなかったし、縞自身そういう言葉を選んだのは負い目があるからだということに気づかなかった。

 そのままソファにひっくり返って唸る縞に、昨日はあんなに楽しそうだったのに、と万里は呟いて悪気なく追い討ちをかけた。縞が渋面のまま短く吐き捨てる。

「もう酒はやめる」

 酒飲みの常套句をまだ万里は知らなかったので、心底安堵したように頷いた。

「そうした方がいいよ、本当に」

 縞は万里にこの世のあらゆるところに転がっている常套句というものを教え損ねていたことを思い出し、しかし頭痛がひどかったので教えてやるのは後回しにした。

「いいか、言葉ってのは言われたこと全部が本当なわけじゃないんだ」

「知ってる。いろいろ複雑なんでしょ」

「そうとも。これから君もそうなる」

「そうなんだ。……うん、それもいいかも」

 少し楽しそうに頷いた蟷螂に、大蜘蛛は心底嫌そうな顔をして、「いい趣味してるよ」とぼやいた。それが皮肉と呼ばれるものであることに、蟷螂の子供はまだ気づかない。

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