よわきそのみがほしがるは
この頃最近困っています。友達のことについてです。私自身そのつもりはないけれど、私の行い一つ一つが、友達を怖がらせているようなのです。この友達を仮にSとします。
Sは、人間ではなく蜘蛛の妖怪なのだそうです。詳しくないのでよく知りませんが、この間見た蜘蛛の姿は大きくて強そうでした。本当は私にその姿を見せるつもりはなかったようで、ひどく申し訳なさそうにしていましたから、私は体に比べて小さく見える顔に並ぶ、八つの瞳を美しいと思ったことを伝えそびれたままでいます。惜しいことです。
対する私は普通の人間です。Sに言わせればとびきり運の悪い人間だそうですが、自分でそう思ったことはあまりありません。多少、人ではない方に会う機会が多いくらいのものでしょう。それにこういうとSは嫌そうな顔をしますが、少なくとも、Sと出会ったことに関しては、世に三つとない幸運だったのではないかと思います。
私たちの関係はちょっと複雑です。最初にSを助けたのは私の方ですが、関係が続くにつれ私がSに助けられる機会の方が多くなっています。Sは迷惑そうな顔もせず、危機的状況の私をひょいと掬い上げては「無事だね」と呟き、逃がします。どうにもアンバランスです。私は本当に普通の、下手したら運動神経が悪いという意味では普通より弱いくらいの人間で、Sに感謝され続けるようなことはできていません。歯がゆいです。ですが私に出来ることなどたかが知れているので、隙あらばお礼をしようといろいろ誘っていますが、私も楽しんでしまっているので、返礼として成立しているかは疑問です。
話が逸れました。そう、本当は私が怖がられるいわれなどないはずなのです。多少、人ではないし友好的でもない方に会う機会が多いだけで、私そのものに脅威はありません。本当です。走るのは遅く、体力もなく、かろうじて体の柔らかさだけは人より若干秀でている程度です。長座対前屈で多少周りを気味悪がらせるくらいしかできずに、どう他者を脅かせましょう。
それでもSは私をそれとなく遠ざけようとして、しかし何かトラブルの気配を嗅ぎ付けると真っ先に私の無事を確認しに来るのでした。怪我のないことを確認する慌てた表情、無事を問う緊張した声、何かあったと答えたら即座に原因をぶっ飛ばすと言わんばかりに力のこもった手が中途半端に私の方に伸ばされて、はっとしたように引き戻されるのを繰り返していました。その意図が分からずに首を傾げたのが数回。なんとなく意図が読み取れるようになって数回。近頃は手の動きに落ち着きが無さすぎて、いっそ握って大人しくさせてしまおうかと思うこともあります。そのうちします。
嫌われているのではないことは、それはもう分かりすぎるくらいに分かります。私の何が怖いのかと流石に面と向かって聞いたりはしません。しかし、そのつもりもないのに怖がられるのは傷つきます。なので、何をしたら怖がるのか、色々試して反応を見たことがありました。Sは私のことを無害で善良で、悩みのない子供と思っている節がありますが、このくらいのことはします。生存戦略というやつです、私は弱い人間であるので。
どうやらSは、私が奇妙なことをした場合にはやや引くけれども怖がるようなことはなく、むしろ私の、もっと仲良くしたいと思う欲求から来る行動を、特に恐れるようでした。頭を撫でたり、手を繋いだりのスキンシップとか。私が、Sに優しくしたいと思ったとき、その心の動きを仕草から感じ取って、不器用に躱そうとするのでした。顔には出さないようにしていますが、フッツーに傷つきます。はい。
とはいえ、その怯えの意味が、全く分からないわけではないです。Sが人の姿をしているときでさえ、自分とSの、生き物としての力の差に愕然とすることがあります。Sいわく、人の形に蜘蛛の体を押し込めているそうなので、きっと人の姿で出せる力はそう多くはないのです。Sが本来の姿で少し小突くだけで、いえ、人で言う肘がぶつかるような接触で、多分私は結構な怪我を負うでしょう。そんな生き物と付き合うのが怖いのは、当然のことだと思います。私も、とんぼやちょうちょが友達になろうと近づいてきたら、不用意に潰してしまわないよう気をつけます。そういう埋まらない断絶が、私たちの間には確固として存在し、手を伸ばすことをためらわせるのでしょう。
そのこともあって深入りさせまいとしているのか、Sは時たまわざと私を怖がらせようとします。蜘蛛の顎を口元からぬるりと覗かせてみたり、こめかみや額に蜘蛛のつやつやした目を浮かばせて睨んでみたり。私はそれを見ても恐ろしいとは思いません。どんな見た目であろうとも、中身は私の友達なのです。最初は少しびっくりしましたが、今はもう慣れたものです。後はもうその眼を見て、きれいですねと一言言えればいいのですが。
怖がらせようとしても以上のことから無駄な努力だし、私を傷つけやしないかというのも無用な心配だと、私の方は分かっています。分かってないのはSの方です。普段過剰なまでに気をつけているせいか、無意識であってもSは私を傷つけるようなことはないのに。
根拠もなくこんなことは言っているのではありません。言えるはずもないのです。特に、あの姿を見た後では。異形、という言葉を、あれほど生々しく肌に感じた瞬間はありません。でも見慣れてくると顕微鏡要らず、生物学者が喜びそうなサイズ感だなとか思い始めます。
蜘蛛の姿で天も地もなく縦横無尽に駆け回る、細くて長くて固そうな脚が、不自然に人の姿からこぼれて私を絡めとったときの慎重な動き。八つの目は私ではない方を見ていたのに、迷いなく私を引き寄せたのが不思議でした。ゆっくりとしていて逃げられそうなのに、いつの間にか退路を断たれている、生まれながらの捕食者の挙動。私はその、遠慮がちなのにどこか切実な動きに、驚きこそすれ抵抗する気は起きず、まあいいかと思ってぷらんと宙吊り体験を楽しみました。ハンモックとはまた違った浮遊感でした。もう一度やってみたいとは思うのですが、Sがぷらぷらゆれる私に気づいて悲鳴を上げたので、忘れた頃に頼むことにします。何年後になりますかね。
その時もなんだか落ち込んでいたので、どうにか慰めたかったけれど。頭を撫でた手は嫌がるように払われて、正解が分からず手をふらふらさせるばかりでした。苦悶にひきつる目元、その瞳の奥のS自身を焼く衝動に、私自身ができることはきっとないのです。
強い力を持つ生き物が、私だけを慎重に扱う様子に優越感が全くないと言うのは流石に嘘になりますが、Sが私に触れるときは先述のような無意識からの行動か、それ以外だと大抵私に何か危機が迫っているときで、そういう場合高い確率でひどく余裕のない、焦った表情をさせてしまっているのを、申し訳ないと思う良心くらいは残しています。そして、何か危機が迫ったとき以外には触れようともしてくれず、無意識に私を求めていながら、不器用に距離をとろうとするSに怒っています。私の背後にあなたの脚が伸ばされて、後ずさることもできないのに、あなたは人間の形をした腕を精一杯伸ばして、私を遠ざけようとするのです。求められたなら応じようと思う私の気持ちを迷わせる、優柔不断なその態度。すごく困ります。
でも、S自身その気持ちに振り回されていることを私は知っているので、かける言葉も見つからず、困ったなあと、自分の気持ちを直接伝える気にはなれないでいます。
Sは不思議なくらいに私の誘いを断らないので、今日もまた行ったことのない喫茶店に誘いました。今はその待ち合わせの途中です。小さな駅の改札近く、小さな花壇の横にたたずんでいると、足元に何かの気配がしました。視線を下げると、つるんとした黒い瞳がこちらを見つめています。
「ねこちゃん? わんちゃんかな?」
ふわふわの毛をゆらした生き物が、にゃあとわんを足して二で割ったような声で鳴くのにつられ、ついかがみこんで手を伸ばしました。
「あれ?」
足元をすり抜ける毛のこそばゆさを感じた途端、足がもつれてしまいました。尻餅をつきそうになったところを、素早く肩を支えられ、その方を向けば見知った顔が、不機嫌に見下ろしています。
「すねこすりだ。全く君はまた妙なもんに好かれて……」
すねこすり。名前は聴いたことがあります。そう言えばその小さな体を脛に擦りつけられたような。いたずらな毛むくじゃらを一睨みして追い払い、Sは腹立たしげにため息をつきました。
「しゃがんでましたし、尻餅つくだけだったじゃないですか。あんな邪険にしなくても」
「怒るよ。その服、気に入ってるやつだろう」
汚したら嫌だろと苦い顔のSに手を引かれて立つ、私の表情がどうなっているかなんて、考えるまでもないことでした。だらしなく緩んだ頬に、下がった目尻。前髪を手ぐしで整えて、Sが手を離さないのをいいことに、そっと指に力をこめて握りました。
教えてもいないお気に入りの服。本来の姿であれば服など必要ないはずのあなたが、そうやって見ていてくれるから、だから私はたまらなく、あなたに近づきたいと思うのに!
……まあ、焦ってどうにかなるのもでもありませんので、のんびりやっていきましょう。ほら、私が手を握ったままでいることに気づいて、ひくりと動いた指の先。何か言われる前に自然にほどいて、はっとした顔の友達に、「どうかしました?」と小首を傾げてみせます。
「なんでも……ない。なんでもない……」
どこか覇気のない声で繰り返すSの顔色に変化は見られませんが(血の色が違うからなのでしょうか、Sの顔色が変わったところを見たことがありません)、付き合いの長さもそこそこ、これは照れているのだと分かります。ここでそれを指摘するのは悪手、私は何食わぬ顔で、今日の目的地の方向を指して微笑みました。相手の顔色を慎重に伺いながら、無垢を演じるこの滑稽さ。胸にさざめく白々しさを飲み込んで、私はひたすら待つのです。
「行きましょう、ほら」
促されたSがどこか物足りないような顔をするのに、しめしめと意地悪く笑う自分を自覚します。S、私の友達、人ならざる生命。どうかあなたは知らないでいて。あなたと同じように、いいえ、あなたよりずっと浅ましい形で、私もまた自分のために、巣を作り獲物を待つ生き物であるということを。退くこと叶わず、捕まえようとすればすり抜けるあなたに触れることもできず、純真の皮であなたを誘き寄せる、弱さを盾にしたずるい生き物。あなたを繋ぎ止めるためにこれしか思いつけなかった私の愚かさに、どうかいつまでも気づかないでいてください。いつか私が死ぬまでは、いいえ、死んだあとも、私をかわいい子供と勘違いしたまま、私のことを好いていてください。
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