第2話
自分の命は尽きたのかもしれない。
唐突に受けた衝撃に痛みは無かったが、カストは漠然と死を予感していた。
次にもう目覚めることは無いだろう。
ぼんやりする意識の中思った瞬間、はっと視界が開けた。
「……あ?」
あまりにも眩くて顔をしかめる。
これが死後の世界なのかと一瞬思ったが、どうも違う。
感じた眩しさは、大きな窓から入り込む太陽の光だった。
最後に見た灰色の空とは異なる、青空と緑の大地が窓から覗いている。
見渡す限りの美しい景色は、見覚えのあるもの。
レグラマンティ領の一角に建っている、警備団の詰め所から見える風景だった。
「……どういうことだ?」
しばし呆然として、かじりつくように窓の外を凝視する。
手入れの行き届いた庭には花が咲き乱れ、その合間を蝶が飛んでいる。
上空に広がるのは柔らかな色の青空。雲一つない晴天だった。
今際に見る夢か、幻か?否、こんなにはっきりとした幻覚があるものか。
「カスト、どうした?」
にわかに名前を呼ばれて振り返ると、そこにはライモンドが立っていた。
不思議そうな顔でこちらを見る友人に、怪我をしている様子はない。
先ほど馬車の事故にあったとは思えない。
困惑しながら一歩、二歩、彼に近づき、その顔を凝視した。
「ら、ライモンド?平気なのか?俺たちは、馬車で……?」
「馬車?本当にどうした?夢でも見ていたのか?」
「……夢?」
言われた言葉を繰り返す。
こちらを見る友人の目に、心配そうな気配が現れた。
―――あちらの、事故の方が夢だったのか?
うつむいて考えていると、一つため息をついたライモンドがぽんと肩に手を置いた。
「もしかして疲れているのか?すまない、最近忙しかったからな」
「あ、ああ……」
「今日はもう休んでくれて構わない。警備団長には言っておく」
いまだに混乱が収まらないながらも、カストは頷く。
本当に疲れが沸き出てきたような気がした。
額に手を当てて熱を測りながら、自宅に戻ろうかと踵を返し……その時ふと窓の外に視線を転じた。
窓の外には武骨な詰め所には似つかわしくない、綺麗な庭が広がっている。
警備団内に園芸が趣味のやつがいて、毎日けなげに手入れをしているのだ。
咲き乱れる花の中に、鮮やかな紅色がある。
「ライモンド、あの薔薇……ずいぶん前に落ちなかったか?」
その紅色……咲き乱れる薔薇たちをカストは睨みつける。
あの色を見ていたからヴァンダ嬢が倒れたとき薔薇を思い出したのだ。
しかし咲いた直後に嵐が到来し、あの真紅は既に落ちてしまっていたはずだ。
手入れしていたやつが、「保護していればなあ」としょげていたのを思い出す。
ぽつりとした呟きを拾ったライモンドが首を傾げた。
「何を言っているんだ、カスト。薔薇の季節ははじまったばかりだろう」
「……あ?」
「本当に疲れているんだな。今日は深酒せずに早く寝るんだぞ」
まるで子供に向けるような目と言葉を向けられ、カストは呆然自失としたまま詰め所を出た。
◆
自宅に帰ると、カストは大きくため息を吐きながらベッドに寝転ぶ。
部屋の天井は普段とまったく変わらない。
ただ体の下にある夏用のシーツは昨日タンスから出してきたようなにおいがする。
台所に備蓄しておいた食料も、昨日と品ぞろえが変わっている。
まるでカスト自身が、
否、戻ってきているようだ、ではない。
確実に戻ってきていた。
(どういうことだ?)
天井の木目を睨みつけながら、カストはこの不可思議な事態について考えている。
自室に戻る途中で、馴染みのパン屋の女将にそれとなく今日の日付を尋ねた。
勘違いであることを期待したが、告げられたのは三ヶ月前の日付。
鼻白むカストに気付かない女将は、今年の夏は新商品を出したいのだと楽しそうに語った。
それを聞き、さらに言葉につまる。
このパン屋は新商品の開発中に、かまどに水を入れてしまったことを思い出したのだ。
(確か嵐の日に雨漏りが酷くなったんだよな……かまど自体は近所の飯屋に借りて何とかなったんだっけか)
パン屋はなんとか廃業の危機は免れたものの、新商品の開発はお流れになったはずである。
やはり自分は過去に戻っている?
いや、ただ単に今まで見ていたものが夢だったと言うことだろうか?
ヴァンダ嬢が犯罪を犯し、ライモンドが彼女を殺め、自分が馬車の事故で死んだのは全て幻。
「……いや」
ふと思い出したことがあって、カストは起き上がった。
ベッドから降りて、壁一面に並べてある本棚へと移動する。
そこにはカストが気に入って置いてある小説の一部が収められている。
大半は持ちきれないので実家にあるが、目的の本は持ち込んでいたはずだ。
「……あった、これか」
本棚の一番片隅にあった、古ぼけた装丁の本を取り出して眺める。
幾度も読み返したものだから所々へたれているが、手入れはしているのでまだまだ綺麗だ。
(小さいころ、爺さんがくれたやつだな)
優しく愛嬌のあった祖父の顔を思い出し、カストは苦笑する。
祖父のダニオ・フランチェスキは、己に読書の楽しさを教えてくれた人物であった。
カストの父は根っからの軍人気質で、息子にも厳しく接し体と精神を鍛えた。
体を動かすことも鍛錬を積むこともカストは好きだったので、苦痛に感じたことは無い。
だがそれでも日々の疲労は溜まる。
それを癒してくれたのが祖父との読書時間だったのである。
「なあカスト。読書はいいぞ。鍛錬じゃ出来ねえ経験を俺らに積ませてくれる」
これはそう語った祖父が、少し悪戯っぽい目をしながらカストに譲った本だった。
(時を渡る宝石と勇者の物語……)
表紙に金字で記された題名を読み、ページをめくり目的の場所を探す。
幾度も読み返したため内容は全て頭に入っているが、どうしても確かめたかった。
(……託されたのは時渡りの宝石だった。国を滅ぼされた失意の中、彼は過去の世界へと飛ぶ決心をしたのである)
小説のはじまりの部分、その一文を何度も目でなぞりカストは息を吐く。
物語は国を滅ぼされた男が神に時渡りの宝石を託され、過去を変えるという内容。
それだけ聞けばただの夢物語である。
確かに今のカストの状況に似ているが、現実に起こりうると断言したら笑われてしまう。
しかし……視線を隣のページの挿絵に転じ、カストは己の首元に手を当てた。
指の腹にネックレスチェーンのひんやりとした感触が伝わる。
無造作にそれを取り外して、カストは光にかざし睨みつけた。
淡い赤色が窓から入り込む陽光を透かし、きらりときらめく。
「このネックレス……俺をからかうためにじいさんが作ったんじゃねえのか……」
普段己の首にチェーンで吊るされているもの。
それは本とともに祖父から譲り受けた親指大の宝石であった。
そしてその宝石は本の挿絵に記載されている時渡りの石と、あまりにも酷似している。
「……じいさんの戯言だと思っていたが、これはもしかして魔法遺物か?」
眉間にしわを寄せ、本とネックレスを譲り受けた日のことを思い返す。
祖父は少年のように笑いながら、己の首にチェーンをかけながら語っていた。
「これはよう、カスト。昔の出来事を小説にしたもんなんだ。まあ、多少脚色は入っているが」
「え、嘘だ。神だとか時を渡るとか、いかにも物語だろ」
「まあ、信じられねえだろうな。だがホントのことだぜ」
祖父は息をするようにほらを吹く達人だったから、幼いカストはこれもそうだろうと話半分に聞いていた。
だから思い出せるのはこの会話だけで、それ以上に手掛かりになりそうな場面は記憶から出てこない。
こんなことならもっと興味を持てばよかった。
再度深くため息をつきながら、ことさら鋭く赤色の宝石を睨みつける。
「……俺に過去を変えろとでも言っているのかよ」
変えなければならない過去……悲劇といえばライモンドが婚約者を手にかけたことだろうか?
いや、それよりもヴァンダ嬢が犯罪に手を染めないようにするべきか?
ヴァンダ嬢。
彼女の小説を思い出し、カストはふと動きを止める。
(ヴァンダ嬢が死ななければ、あの小説が世に出るかもしれない……)
ふとそんなことを考えてしまい、あまりにも不謹慎だと首を横に振った。
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