第16話 過去

自室に戻り、力が抜けたように椅子に凭れ掛かった彼は暫くの間そのまま動かなかった。

人形のように四肢を投げ出し、その顔には表情らしい表情もない。


声を掛けるべきなのか掛けないべきなのか、もし声を掛けるとしたら何と言っていいのか…私は迷った挙句、結局何も出来ずにただその場に佇んでいた。
















どれくらい経った時だろうか。


「…紅茶でも淹れようか。フローレス、君も飲む?」


ウィリアム様はゆっくりと立ち上がりながらそう言った。

急に彼の口から飛び出した明るい口調に私は目を瞬かせる。

その顔は穏やかに笑っているようでいて、よく見ると無理やり貼り付けたかのように不自然だ。


「君はどれくらい砂糖を入れる?僕は砂糖をいつもより多めにしようかな」


そんな事を言いながら体を翻し戸棚へ向かって行くウィリアム様の手首を私は咄嗟に掴んでいた。


「…?…フローレス?」


怪訝そうに振り返るウィリアム様を前にして、私は何と言えばいいのか分からなかった。






私が今ここで引き留めなければ、ウィリアム様は何でもないフリをして紅茶を飲み、1日を終え、そして明日の朝にはいつものような笑顔で私を迎えるのだろう。

…でも、そのままにはしておけなかった。

そのままにしておいたら私の知らない所でウィリアム様が壊れていくのではないか、という予感じみた漠然とした不安が私を苛んでいた。






手首を掴んだまま黙り込んだ私の顔を、ウィリアム様は暫くじっと見つめていた。


「…君は、優しい人だね」


彼は静かにそう呟くと、私の目を覗き込む。

窓から差し込む光がその艶やかな濡羽音色の髪に反射した。


「フローレス。僕の昔の話を聞いてくれるかな」


私は彼と目を合わせると、明確に一度頷いた。

















「僕は小さい頃から病弱でほぼ部屋から出られない生活を送っていた。父上と母上はそんな僕に興味を示さず、殆ど会いにくる事は無かった。

僕の部屋にやってくるのは兄上と世話係のマーサ、そして花を届けにくる庭師のオスカーくらいのものだった。正直言って父上と母上についての思い出はあまりないんだ。本当に、殆ど会わなかったから」


どこか寂しげに彼は語る。


「そうだな…。父上は厳格な人だよ。代々続くこのムーア公爵家を治めるにあたっては規律を重んじる政策を採っている。母上は現国王陛下の妹で、王家特有の金の髪を受け継いでいる。王家とムーア公爵家の繋がりを強固にするためにこの地へ嫁いできたと聞いているよ」


淡々とした口調でそう話しながら遠い目をする。


「兄上は…テオドール兄上は快活な人だった。太陽のように明るくて暖かい人。母上に良く似た白金の髪を靡かせて明朗に笑う兄上は、いつだって周囲にいる人々を虜にした。特に母上はそんな兄をとても可愛がっていて、庭でお茶会をする様子をよく見かけた。…厳格な父上も兄の事は好ましく思っていたようで、『剣術ばかりではなく学問にも精を出しなさい』と注意しながらも、兄上を見る目は柔らかかった」


そこで紅茶を飲み一息つくと、彼は再度話し始めた。


「一方の僕はといえば、いつ病気の発作が起きるか分からなかったから部屋にこもって読書ばかりしていた。異国の風景が描かれた絵本の絵を眺めてはそこに行った自分を想像し、冒険譚を読んでは心を躍らせた。兄上は度々僕の元へ訪れて僕の好きそうな本を持ってきてくれた。兄上が『秘密だぞ』と言いながら珍しいお菓子を持ってきてくれた時には、2人でこっそりそのお菓子を食べたよ」


懐かしむような、そんな表情をしたウィリアム様は僅かに微笑む。


「マーサとたわいない話をしたり、オスカーが持ってきてくれる花の香りを嗅いだり、兄上と一緒に遊んだり…。幸せだった。病でつらいことも沢山あったけど、それ以上に彼らといられる日々は幸せだったんだ」














「その日常が壊れたのは僕が7歳の時。前に話したよね。…テオドール兄上が流行り病で亡き人となってしまったんだ」


グッと彼の手に力がこもる。


「信じられなかった。優しくて、格好良くて、強い兄上が呆気なく帰らぬ人となってしまった事が」


ウィリアム様は静かに瞼を伏せた。


「葬式で、父上は眉根を寄せていた。母上は肩を震わせて泣いていた。僕は何も実感が湧かなくてただ呆然と棺の中で花に囲まれた兄上を見つめていた。葬式が終わり何日か経ってやっと分かったよ。兄上はもう僕の部屋を訪れない。兄上にはもう2度と会えないんだって」


そう言って、彼は唇を震わせた。















「元々夫婦仲が良いとは言えなかった父上と母上の仲は日に日に悪くなっていくようだった。兄上の葬儀から数ヶ月経ったある日、僕は父上と母上に呼び出された。父上は僕に向かって『お前は病弱で、跡取りとして相応しくない』と言い、18歳までに僕が病弱な身体を克服できなければ辺境へと追放して新たに養子を迎え入れ跡取りとする旨を話した。母上と審議した結果だと、そう言って」


ウィリアム様はゆっくりと瞬きをする。


「僕はよっぽど酷い顔をしていたんだろう。部屋に戻った僕の顔を見て、世話係のマーサと偶然部屋に来ていた庭師のオスカーがどうしたのかと尋ねてきた。僕は…洗いざらい話してしまった。話したら、僕のことを大事に思ってくれている彼らがどう思うのかなんて分かりきっていたのに」


その時のことを悔いるように唇を噛む。


「彼らは激昂した。そして父上と母上に一言物申してくるといきりたった。そんな必要はないと僕は止めたけど、彼らは僕を安心させるように『ウィリアム様は心配しないで大丈夫ですよ。部屋で待っていて下さい』と繰り返すだけだった。7歳の子どもが大人2人を止められる筈もなく、彼らは部屋から出ていってしまった」


彼は顔を俯かせた。

その黒々とした濡羽音色の髪がさらりと揺れる。


「僕は部屋で2人を待っていた。心配ない、部屋で待っていてくれと言った彼らを信じたかった。…夕方になり、夜になり、朝になっても2人は帰ってこなかった。昼頃、お腹が空いて部屋から出た僕は廊下にいた使用人たちが噂話をしているのを聞いた。『ウィリアム様付きの世話係と庭師が屋敷を追い出されたらしい』と」


彼は顔を上げない。


「僕はそれを聞いて父上の執務室へ向かった。扉を開けて開口一番『マーサとオスカーを知りませんか』と言った僕を、父上は廊下に落ちた塵でも見るかのような無関心な目で見ていた。彼は徐に口を開き『公爵家当主としての私の決定を受け入れられない使用人は処分に値する。解雇して屋敷から立ち去らせた』と僕に通達した」


ギリギリと音がするほどウィリアム様は手を握りしめる。


「僕が処分を取り消して欲しいと懇願しても『これは決定事項だ。もう既に屋敷に件の使用人はいない。どこへ行ったのかも分からない以上連絡を取りようがない』と機械のように繰り返されるばかりだった。僕は呆然としながら部屋へ戻った」


握りしめられた手が痛々しくて私がその手の甲に触れると、ハッとしたように彼は力を緩めた。


「…フローレス、ありがとう」


私はその言葉にゆるゆると首を振ると、再び姿勢を正した。

彼はまたその目を伏せて話を始める。


「それ以降、使用人たちは僕を避けるようになった。僕と関わり合いになると解雇される、辺境に一緒に飛ばされる等の噂が飛び交っているようだった。使用人たちと話をしようとしても彼らが怯えて逃げるので次第に僕は使用人たちと関わり合いになるのを諦めた」


深く息を吐き、彼は椅子に凭れかかる。


「暫くして僕は領地経営や外交に関する勉強をし始めた。僕は兄ほど良い領主にはなれないかもしれないけれど、領主になる可能性がある以上努力はしなければならないと思った。…読書は元々好きだったからね。その延長だと思えば、それほど苦にならなかったよ」


軽く微笑み、ウィリアム様は私を見る。

彼の苦労を思えば大変に思いこそすれ笑うような気にはならなかったが、ウィリアム様の場の空気を柔らかくしようという思いを汲んで僅かに微笑みを返した。


「ある日、書庫に本を取りに行く途中、廊下の向こうから母上の声が聞こえてきた。母上は兄上が亡くなって以降僕を見ると暗い顔をするようになったから努めて顔を合わせないようにしていたのだけれど、廊下の向こうから聞こえてくるその声が切羽詰まっているように感じて僕はそっと様子を伺った」


グッと眉根が寄り、険しい表情になるウィリアム様を私は見つめる。


「そこには父上と母上が立っていた。母上は涙を流しながら叫んでいた。『どうして…」


そこまで話すと彼は思い出すのを拒むかのように表情を歪め、手で顔を覆った。

微かな声で呻く様を見ていられず、


「卿、無理はなさらないで下さい」


と声をかける。

彼は暫く手で顔を覆ったままじっとしていたが、やがて手を下ろすと


「いや、大丈夫だよ。ありがとう」


と弱々しく囁いた。


「母上はこう言ったんだ。『どうして亡くなったのがテオドールだったの?これがウィリアムだったら…』。そう叫んで母上は泣いていた。父上は無言だったけれど、母上と同じように思っているのは表情から明らかだった」


視線を虚空に向けながら彼は話し続ける。


「それを聞いてから、どうやって部屋に帰ったのか覚えがない。気がついたら僕は部屋で1人、椅子に座っていた。…改めて言葉にされると中々受け止めきれなくてね。自分は両親から愛されていると思いたかったのだと痛感したよ。愛されていないことなど分かりきっていたのに」


そう言う彼の眼は虚ろだった。


















「僕が9歳の時の事だった。僕と会った母上が僕を見て愛おしいものを見るように笑いかけたんだ。驚いたよ。僕も母上に愛おしく思われているのかと期待した」


苦笑する顔はまるで当時の彼の考えを憐れんでいるかのようだった。


「僕に駆け寄り『テオドール‼︎』と呼びかけた母上の声に、その幻想は打ち砕かれた。母上は僕のことを兄上だと思い込むようになっていた。兄上が亡くなった現実を母上は受け止められなかったんだ」


肘掛けに置かれた彼の腕が力なく垂れ下がる。


「『母上、僕はテオドール兄上ではありません』と否定した瞬間、母上は目を見開き金切声を上げ始めた。この世の全てを呪うかのような悲鳴をあげる母上を見ていられなくて、僕は兄上の真似をして母上を宥めた。それから、母上に会った時僕はテオドール兄上のふりをするようにしている」


















そこまで話して、彼は紅茶を一口飲み下した。

紅茶は冷め切っていて湯気もたっていない。

彼は紅茶のカップを受け皿に戻し、


「それ以降は大体君の想像の通りだと思う」


と話を結んだ。





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