第45話 サルベージ
「公平、格の身体を使ってる朝倉は泳げるのかな」
それは鬼瀬の何気ないひと言から始まった。格が泳げないと言う事実は、榊と鬼瀬の間では共通認識のひとつでもある。
榊は鬼瀬の疑問を、バルコニーの手摺にもたれかかっているケイ子に聞いてみる。
「ケイ子、ジェシカに聞いてくれよ。ジェシカがケイ子の身体を使ってる時はどうなのかって」
この時代にやって来た直後からケイ子の身体を使っていたジェシカなら、他人の身体を使うのがどんな具合なのか知っていると思う。
「いつも、すごく使いづらいって言ってるわ。自分の身体で普通に出来ていたことでも、私の身体が反応しないことは多々あるみたい。一番大きいのは利き腕の違いですって」ケイ子は両手を開いて見せる。「ジェシカは左利きで、私は右利きなのよ。でもこれって当然のことじゃないかしら」
「と言うことは、いくら朝倉が泳げたとしてもだ、金槌の格の身体で泳ぐのは一苦労するってことだよな」
顔を上げた鬼瀬が腕組をしたまま視線を遠くに投げる。榊もケイ子もその視線を追ってマンションの8階から東京23区の空を見遣る。うすいブルーの上空で飛行機が白い筋を一本引いているが、その筋に垂直に交差するもう一つの筋を3人は見ている。
「あの電磁波。あの位置にいるのがいつも一番長い」鬼瀬が垂直に立ち上がる白い筋に指を差した。
「恐らくあの位置が、今の竜神会って言うか朝倉の拠点だろ」
それは、前から榊も思っていたことだ。
「あの方向は品川方面ね。距離にして20……5、6キロはあるわ。もしかしたら大井埠頭の辺りじゃないかしら。でもどうして」ケイ子が鬼瀬を見遣って言う。
鬼瀬がボリボリと頭を掻きながら榊とケイ子に恐る恐ると言った感じで、喉から絞り出すように言葉にした。
「海に突き落としたら勝てんじゃね」
海中に落として溺れさせてしまえば、朝倉は自ら格の身体を放棄せざる得なくなるのではないかと鬼瀬は言う。ただ一歩間違えれば格本人も死なせてしまうことになる。その辺の匙加減は極めて重要な要素になる。
この時から所謂、俺たちの能力開発の場は海で行うようになった。
「これで朝倉も金槌だったら尚いいのにな」
実際、朝倉は本当に金槌だった。
海に落ちた朝倉が溺れ始めるのを海中で窺っていて確信する。
そしていよいよ朝倉が溺れかけたところで、2人で下に潜り込んで行き朝倉の足首を片方ずつ掴かみ更に海中に引きずり込んだ。
朝倉は激しく抵抗するが、海中で戦うことを想定してきた俺たちに今の朝倉はあまりにも無力としか言いようがない。
海中と海底の狭間をなすグラデーションが頭上に来た辺りで手を離してやると、パニックに陥りかけている朝倉は、なりふり構わず掴みかかってこようとするが俺たちには触れることも出来ない。何をするにしてもあれほど圧倒的だった朝倉が海中では見る影もない。意識がグループ化されているのも忘れているようだ。
「朝倉、どうだ海の中は苦しいだろ。あまり無駄な動きをしているとすぐに酸素がなくなるぞ」
海中でロッククライミングでもしているかのような朝倉に対して、榊は見せつけるような立ち泳ぎで近づいて行く。
「うるせえ、さっさと俺を引き上げろ。長谷川なにをしてる。俺を助けに来い」
「朝倉ちょっと待てよ、倉庫の2階で俺が怪我の治療していたのは、長谷川に負けたからじゃねえぞ」
苦しいながらも、そんな馬鹿なという顔をして鬼瀬のことを探すが、鬼瀬は声だけでどこにも見当たらない。最早、他に頼れる者がいないと察した朝倉の、絶望に歪む顔が海面を仰ぐ、僅か数メートルのその距離が果てしなく遠くに感じているはずだ。
「朝倉、何を迷ってる。格と心中するつもりか、早く格の身体から出て行かないとマジで死ぬぞ」
こいつらがどうして息が切れないのか理解できない。そんなことより肺に残っているなけなしの酸素がもう尽きかけている。
必死になって海面を目指して泳ぎ出すが、いくら水を搔き分けても沈むのに逆らっているだけで上に向かっている気がしない。根本的に泳ぎ方を間違えてる。そんな気さえしてくる。もう息が切れそうだ。
突然、背後から両腕を取られて羽交い締めにされる。正面で浮遊している榊がまるで観察でもするかのような目でこっちを覗き込んでくる。俺が亀山格の身体をいつ放棄するのか見極めようとしているに違いない。
不意に脇を締めて拳を引いた榊が水を蹴ってこっちに迫って来た。
「や、やめろ今ここでそれをしたら俺は死ぬぞ。俺が死ぬってことは亀山格も死ぬことになるんだぞ」
水の抵抗がパンチの威力を奪うとしても、朝倉の肺から残りの酸素を吐き出させるのはわけもない。
「お前らは勘違いをしている。俺は自分の意志で亀山格の肉体を放棄することは出来ないんだぞ」
「わかってるよ。だから早く格を起こして、格に追い出してもらえよ。そうすればお前は自動的に未来に帰れる。こっちは1度試しているからわかるんだ」
「本当だな。本当に俺は未来に帰れるんだな」
榊が再び拳を振り上げる。
「わかった、わかった。ちょっと待て。格君、起きろ起きるんだ。聞こえるか私の声が。いいかよく聞くんだ。私たちは今最悪の事態に陥っている。聞こえないのか私の声が、格、とおぉ……」
ありったけの酸素を使い切った朝倉が苦悶の表情で喉元を掻きむしる。
羽交い絞めを解いた鬼瀬が、掴もうとしてくる朝倉の手を突き放す。
やがてその激しかった動作に力強さが失われて最後には水の抵抗に負け弛緩した肉体がゆっくりと海底に向かって沈み始める。朝倉が窒息した。ここからが勝負だ。鬼瀬と2人で沈みゆく格の肉体を引き上げに掛かる。
目を見開いたままポッカリと口を開いたその顔はもう朝倉のそれではなかった。その面相は間違いなく格のものだ。しかしその顔は精気を失っている。
榊と鬼瀬は渾身の力で海面に向かって泳いでいった。
「る…おる、格、しっかりしろ、戻って来い格」
目蓋の裏が妙に明るい。この光は太陽によるものだということがわかる。
僕はずっと市場の屋上で眠っていたんだろうか。
「格っ戻って来い格、格」
断続的に胸を圧迫されている。時折鼻を塞がれて、サラリとした髪が頬をなでる。口移しで酸素を送り込まれて胸が膨張する。力なく半開きになった目蓋から、どこかで見覚えのある女の人が僕に人工呼吸をしている。
傍らでずぶ濡れの公平と鬼瀬がしきりに叫んでいた。
「格、目を覚ませ。格」
公平。僕はもう大丈夫だよ。ほら。
出したつもりの声が出ない。おまけに身体も動こうとしない。自分の肉体と意識が繋がっていないのだ。
格は必死になって自分の身体を動かそうと試みる。そして何度目かのマウストゥマウスが自分の胸を膨らませた時、初めて胸の圧迫感を感じる。その直後、呑み込んでいた大量の海水を腹の底から吐き出して咳込んだ。痙攣する腹筋が身体をくの字に折り曲げる。吐き気と涙が止まらない。
「格、大丈夫か」
咳込みながら上半身を起こしに掛かると、まだ起きるなと身体を押さえつけられた。その気遣いがなぜか妙に嬉しい。
荒い呼吸と共に、何とかして大丈夫だと言葉にすると、僕の声を聞いた2人がホッとした表情で頷き合う。
「やっぱり、この調子じゃ何も覚えていないんだろうな」
どうして2人はズブ濡れ姿なんだろう、あっ僕も同じようにズブ濡れじゃないか。
そうか、僕は海に落ちていたのか。それを2人が助けてくれて、この女の人が人工呼吸をしてくれたんだ。
「格、まずは確認だ。お前の中にまだいるか、未来からやって来た人間の魂が。どうだ」
未来から来た魂とはリュウさんのことを言っているのだろうか。どうして公平がそのことを知っているのだろう。僕が眠っている間に何が起きたのか見当もつかないけど、きっと僕が何か重大な間違いを犯していたのかも知れない。そしてこの2人が僕の知らない間に解決してしまったんだ。
3人が固唾をのんで僕を見守っている。どうやら鬼瀬もこの女の人も事情は承知しているようだ。
心の中で「リュウさん」といつものように呼び掛けるまでもなかった。心の中が軽くなっているのに僕はもうとっくに気付いている。リュウさんがもう自分の中に存在していないのがわかる。
子供の頃、困ったことや、何気ない疑問が生まれた時、いつも全て答えたくれたリュウさんが突然別れもなしに消えてしまった。ポッカリと心に大きな穴が開いている。だからあまり動く気力が湧かないのかも知れない。
不意にリュウが初めて自分の心の中に現れた日のことが脳裡にフラッシュバックする。そこから物凄い速さで次々に甦るシーンが涙で覆われて行った。
「格、しっかりしろよ。俺たちがいるじゃねえか」
この依存体質が今日の格の弟じみた性格を形成してしまったとも言える。
この2人の前で喪失感を嘆いて涙を見せるのは間違っていると思う。2人は命がけで僕は助けてくれたんだから。そのことに気が付いた僕は自ら手をついて立ち上がって見せる。
「ありがとう。本当にもう大丈夫だよ」
「公平、いつまでもここにいるのはまずい。とっととずらかるぞ。格も話をするのは後だ。行くぞ」
鬼瀬が倉庫内に乗り入れた車を取りに走りだした。
榊も格も、鬼瀬に続いく。ケイ子はバイクを取りに向かう。
もうどこにも朝倉の気配は感じられなかった。
埠頭を後にして向かう先はもちろんケイ子の自宅だ。セダンと1台のバイクは、途中で埠頭に向かう多くの警察車両と擦れ違う。どこかから通報が入っていたに違いない。
「ところで鬼瀬、お宅の組長は大丈夫なのかよ」
ハンドルを握っている榊が助手席の鬼瀬に尋ねる。
その鬼瀬は後部座席の格に話しかけている所だったが、「あぁ兄貴なら俺たちより先に更けちまってるよ。全く舎弟を置き去りにするなんてどうかしてるぜ。それより格、お前の中にいたそのリュウってのは本当にお前の中にいないんだな。単に沈黙しているだけなんじゃないか」
「そんなことはないよ。小6の頃から何度か未来に戻っていたことがあるんだけど、その時とも全然違う。今僕の心の中には僕しかい」
少し寂し気な格の表情がルームミラーに映る。
渋滞する環状7号線の間を縫うように抜けていくGSX1100Rのテールランプがあっという間に視界から消え去って行く。
「格、ひとつ教えといてやる」鬼瀬が身体を捩じって後部座席に振り返る。
「未来からやってきた魂ってのはな自分の意志で追い出すことが出来るんだ。もしまたあんなのが来たときは、すぐに追い出してやれよ」
まるで自分の知見のように話す鬼瀬はドヤ顔で前方に向き直るが、格の表情は尚も淋しそうなままだ。
「格、そう冴えない顔すんなよ。そりゃ12年も一緒に過ごしてきた奴がいなくなったんだ、淋しくなるのもわかるけどよ、俺たちがいるじゃねえか、もしまた格の中に誰かがやってきたら、まずは俺たちに紹介しろよな」
「おうそうだそうだ、どいつもこいつも悪い奴ってわけじゃねえからな」
知ったかぶって話した鬼瀬はバツが悪いのかこっちの話に便乗してくる。この3人の中で自分だけがその経験がないことへの強がりなのかも知れない。
「公平、朝倉は本当に未来に帰れたのか」
鬼瀬、ちょっとは空気を読めよ。
「多分な」俺は肩眉を動かしながら答える。これは格の身体に沁みついている真実を隠すときの癖だ。朝倉の持ち掛けてきた取引話が嘘だと断言した根拠でもある。
セダンは環状7号線を北上する夕暮れ時の渋滞に巻き込まれる。だけど積もる話をするにはおあつらえ向きだ。格にカミオカのことを紹介し、ケイ子やジェシカのことも教えてやると、格は妹の誘拐未遂事件の経緯からの全てを打ち明けてくれた。
ケイ子の自宅がある板橋に辿り着いた時には、もうすっかり夜の帳が下りていた。
砂利が敷き詰めてある駐車場に愛車のGSX1100Rを停めてヘルメットを脱いだ女が1人佇んでいる。うっすらと青白い光をまとっているのが榊と鬼瀬には見えた。
「カミオカ、ジェシカが待ってるぞ。バトンタッチだ」
榊の肉体を借りたカミオカがひとりで駐車場の砂利を踏みしめた。
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