第44話 復活

「鬼瀬のことを何とかして進化させてくれないか」

 公平が私に向かってそう言ったのは、あくまで私の中のジェシカと、公平自身の中にいるカミオカに対してのものだった。果たしてそんなことが出来るのか、鬼瀬君自身にその兆候があらわれるまでずっと半信半疑だったけど、その間板橋の私の自宅は、私の了解なしに彼らの拠点になってしまった。まぁいいんだけど。どうやら数キロ離れた場所から朝倉の電磁波をスキャンするには、ある程度の高さがある方が都合がいいみたい。必然的にジェシカの意志を伝えることになる私自身も、朝倉の電磁波を感知できるくらいには能力開発が進んだみたい。

 そして今日、2人は満を持して出掛けて行った。

 2人がやろうとしていることは、朝倉を倒すのが目的じゃなくて、朝倉から亀山君を取り返すこと。彼らなりの根拠に基ずく戦略もある。それをあの朝倉を相手に実行するのは難しいことだと2人は理解している。

 とにかく朝倉の電磁波が途切れる時が局面の変化を意味する。それは少なくとも朝倉の魂が亀山君の肉体の主導権を手放したことになるのは確かだ。

 ケイ子は部屋の時計を見た。2人が出掛けてから2時間以上経っている。依然として朝倉の電磁波は途切れることなく感じ続けていて弱まる気配すらない。長引くのはあまりいい兆候とは思えない。

 いても立ってもいられなくなったジェシカの意向で、自宅マンションを出発し彼らの元に行くことにする。GSX1100Rに跨って環状7号線に出る。朝倉の電磁波を追うにはここから大井ふ頭に向かって真っ直ぐ南下するだけでいい。

 

 未来で起こる出来事が原因で過去の時代の人間を苦しめていることに責任を感じる一方で、ジェシカは個人的な感情と自分自身が背負っている任務に胸が押し潰されそうだった。

 南下を続けるGSX1100Rが中野を過ぎ、高円寺陸橋を通過した直後、朝倉の電磁波が途絶えた。スキャンを続けていたジェシカは、ケイ子にGSX1100Rを路肩に停車させてスマホを取り出し連絡が入るのを待たせる。無事に亀山格を取り返すことが叶った時は、すぐに連絡が入ることになっている。こっちが連絡を心待ちにしているのは2人ともよくわかっているのに、それから5分以上経ってもスマホは沈黙を続けていた。こっちから連絡するのは憚られる。

 しばらくすると新たな電磁波の出現を感知する。朝倉のものでないのは確かだ。だとするとこの電磁波はイチローのものということになる。彼もようやく榊の身体を使役出来るようになったのだ。それはいいことだけど、朝倉の電磁波が切れたと言うのにどうして今更イチローが榊の身体を使う必要があるのか。現場でどんな事態が起きているのか想像が及ばない。きっと予期せぬことが起こっている。

 バイクの運転はまだケイ子に任せておいた方がよさそうだ。

 ケイ子はサイドスタンドを跳ね上げた。


 ケイ子が駆るGSX1100Rが現場の倉庫に辿り着いたのはそれから30分後だった。朝倉の電磁波は途切れたまま。イチローの電磁波は不規則にオンオフを繰り返し、やがてオフになったままに。結局この埠頭までの詳しい道程は2人がもっているスマホの位置情報を辿ってくることになった。

 ケイ子とジェシカは、台風一過のあとのようになった倉庫内のあり様に絶句する。榊と鬼瀬のスマホは中で無造作に乗り捨ててある車の中に置いてあった。

 奥では崩れた物流の木箱が瓦礫のように散乱し、その中に混ざるように死体が転がっているのを見つけたケイ子は息を呑む。

〈ケイ子、そんなのは放っておいて上に行くよ〉

 ジェシカは壁伝いに伸びているスチール製の階段へとケイ子を促す。

 込み上げる吐き気を堪えながらケイ子は2階へと登って行く。


「鬼瀬君。あなた大丈夫なの」

 事務所に入って奥のソファーで横たわる鬼瀬を発見する。

 両目を固く閉じて額に汗する鬼瀬の様子は、負傷箇所を自分の力で治療しているからに違いないが、見た目ほど重傷な訳ではなさそうだ。

〈ケイ子、鬼瀬君と視線を合わせて、それとどこでもいいから彼の脈と取って〉

 ケイ子はソファの前に跪くと両手で救い上げるように鬼瀬の顎を包み、顔を自分の方に向けて鬼瀬の細い目の奥を覗き込む。

「榊君はどこにいるの、無事なの」

「多分な、今外で朝倉と遣り合ってる」

「朝倉の電磁波が途切れたからもう何とかなったのかと思ったわ。まだ生きてるのね」

「あぁ、俺もビックリしたよ。朝倉の野郎、戦いながら進化していきやがる。もう電磁波が当てにできないとなると、今日ここでケリを付けないと後々面倒臭いことになる」

 話しているうちに、負傷して発熱している部分が更に熱を持ち、そこから徐々に温度が下がりながら傷が癒えていくのがわかる。癒えていくのは砕かれた腕の骨だけではなく、全身に及ぶ打撲や擦過傷の類にまで及ぶ。激痛を和らげるために使っていた脳のリソースが徐々に解放されていくと、鬼瀬の眉間に刻まれていた皺が一本ずつ消えて行った。

 身体が落ち着きを取り戻して行く。このまま眠ってしまいたいとすら思う。それでも完全治癒までまだ折り返し地点を回ったばかりだ。

 突然、ケイ子が弾かれたように背筋を張る。消えていた朝倉の電磁波と同種のものがこの辺り一帯に蔓延るのを感じたのだ。鬼瀬のことを庇うようにして振り返ると、開けっ放しの窓の外から何かが迫ってくるのを感じる。それは電磁波とは似て非なるものだが、その主体が何なのかすぐに判別がつく。

「朝倉の気配だわ」

 ケイ子の口からその名が零れる。と同時にその朝倉の気配は一瞬で霧散してしまった。この室内にも入り込んでいたのは確かだ。

「何だ今のは」だいぶ顔色の良くなった鬼瀬が半身を起こして言った。

「わからないわ、でも朝倉の意識がここに来て、私たちのことを確認したんじゃないかしら」


 眼球を漆黒にして微動だにしない朝倉の両肩を掴んで激しく揺さぶる榊は、中にいるはずの格に呼びかける。

「格、お前いるんだろ。起きろ。起きるんだよ」

 どうやら肉体の持ち主の了解なしに彼らは、宿主の身体を使えてしまうようだ。カミオカが俺の身体を突然使いだしたことでそれが判明した。確かケイ子は気が付いたらジェシカが自分の身体を使っていたと言っていた。その代りに宿主には拒否権がある。朝倉が取引を持ちかけてくるのは、この拒否権を行使されるわけにいかないからだ。この権利があることを格に教えてやらなければならない。

「格、起きろ。自分の身体を取り戻せ。聞こえてるか」

 榊は力一杯、亀山格の肉体を揺さぶり続ける。

 不意に漆黒の眼球が元の色を取り戻したのに榊は気付かなかった。

「格っぐはぁ」朝倉の拳が榊の鳩尾に深々と突き刺さる。

「残念だったな。外部から何をしようと無駄だ。亀山格の意識を元に戻せるのは俺だけだ」

「そんな馬鹿な、格に何をした」

 朝倉に足を払われて地面に背中を叩きつけられるが、痛みなど感じはしない。

「安心しろ。亀山格の意識は、言ってみれば金庫の中に閉じ込めているようなものだ。まだ取引前だからな、ヘタなことはしてない」

 地面に仰向けのままの榊に、朝倉の容赦のない重い蹴りが襲って来る。その度に榊の身体は宙を舞ってコンテナにぶつかり地面に叩きつけられた。

「あの女が事務所で鬼瀬の怪我の治療を手伝っていた。どうせ後から探し出すつもりだったから手間が省けて助かるよ。だけどな榊、お前らが何人掛かってこようと俺を殺すのが目的じゃない限り無駄なことだ。おとなしく取引に応じろ」

 朝倉の蹴りが榊の脇腹にめり込む。地面を転がって次打を避けようとするが、すぐに追いつかれて再び蹴りを食らう。それを繰り返しているうちにコンテナエリアから埠頭の岸壁に転がり出る。

 強烈な日射しに焼かれたコンクリートがユラユラと陽炎を立ち昇らせている。

 地面に着いた頬が火傷しそうに熱い。榊は思わず顔を浮かせる。

 陽炎の中で倉庫の正面が口を開けている。そこにケイ子のGSX1100Rが置いてあるのが見えた。ジェシカが鬼瀬の治療に手を貸しているならもうそんなに時間は掛からないだろう。

 ただ無防備に蹴られ続けたわけではなかった。

 くたばったように地べたに転がる榊は、東京湾を覆う黒々とした海が埠頭の岸壁を打つ波の音を聞いた。

 横殴りの潮風が榊の全身をなぶりつける。朝倉の巨躯が榊の顔に降り注ぐ、直射日光を遮った。伸びてきた朝倉の手で胸倉を掴かまれて強制的に立たされる。

「カミオカをこっちに渡せ」

 返事をするのも億劫な素振りで、朝倉の顔に唾を吐きかけてやる。朝倉は顔を拭おうともせずに榊の顔面に拳を叩きつけた。

 これまでは、カミオカの血流操作のお陰で、痛みに対する神経はオフにしてもらい、打撃に対してはコネクトする刹那に身体を硬化させ損傷を最小限に抑え、負った損傷は直後から治癒に取り掛かってもらっていた。それがセットで回復機能として確立している。朝倉と戦い続けるにはそれが不可欠な要素だったが、このセットが朝倉相手にいつまでも都合よく機能するとは思っていなかった。全てはカミオカ次第なのだが、激しすぎる損傷に回復機能が追い付かなくなってきている。リソースを確保するのに最初に削るのは、痛みの神経をオフにしている労力だ。それは最初からの了解事項でもある。そうなった時は既に蓄積されている痛みが雲霞の如く一斉に迫って来るだろうとカミオカは言っていた。

 榊は歯を食いしばって神経回路がオンになるのに備える。

 凄まじい痛みが大きな衝撃になって脳天を突き抜け、意識が飛びそうになる。

 視界にボーダーノイズが流れる。一泊遅れて堰を切ったように夥しい鮮血が鼻腔の奥から溢れ出した。朝倉に顎を掴まれて揺さぶられる。溢れた鮮血で呼吸もままならない榊は朦朧とする意識の中で自分を繋ぎとめておくのに必死だった。

 鬼瀬が来る前にダウンしたら元も子もなくなる。

 朝倉の言葉に耳を傾ける余地などなかった。

 朝倉は痛みにわななく榊の眼孔を覗き込む。何も映していない榊の虚ろな瞳に、失望を隠さない朝倉の眼球が再び漆黒に染まり始めた。


「朝倉っ」背後から浴びせられた誰何すいかに振り返ると、倉庫の正面入り口から鬼瀬とあの女がこっちに駆け付けてくるところだった。黒いライダースジャケットを身に着けた女の方は身体が淡いブルーの光をまとっている。

「その手を離せ」鬼瀬がなりふり構わず朝倉に突進する。

 鬼瀬は、完全に快復した肉体をもって、身体能力を最大限にしたレスリング張りの高速タックルを仕掛ける。

 しかし常人離れした鬼瀬の高速タックルをもってしても朝倉にはまるでスローに見える。榊の胸倉から手を突き放した朝倉は、鬼瀬のタックルを正面から受け止めて見せた。子供を相手に相撲を取っているかのように朝倉の身体は一歩も後退しない。そこに狙いすました肘を鬼瀬の背中に落としていると、脇から別の人間がタックルを仕掛けてきた。

 榊だった。あれほど瀕死で精気を失っていたはずが、鬼瀬と変わらない圧力で腰にぶつかってくる。それでも状況がたいして変わったわけではない。朝倉は鬼瀬と榊の背中に交互に肘を落とし続けた。やがて肘が炸裂する度に呻き声が聞こえるようになる。肉体の強化に頼った防御がいつまでも続く道理がない。

 淡々と2人の背中に肘を落とす朝倉は、自分が半歩、一歩と後退しているのに気付いていなかった。不意に朝倉の踵が宙をさまよう。後ろを見なくても背後に埠頭がないのがわかる。

 こいつら最初からこの俺を海に突き落とすつもりだったのか。

 朝倉は榊と鬼瀬の腰のベルトを掴むと2人を軽々と持ち上げて、海に放り投げた。

 派手な水しぶきを上げて榊と鬼瀬が海中に落ちるのを見届けた瞬間、背中に衝撃を受けた自分の身体も海面の上に舞った。入水する刹那、あの女が片足を高々と上げているのが見えた。


 底なし同様の水中に浸かるのは、この時代でも100年後の未来でも経験のないことだった。

 必死になって両腕を埠頭の岸壁に向かってクロールさせるが、寄せては返す波に行く手を阻まれる。海面は見た目以上に激しく上下していて、波が寄ってたかって覆いかぶさって来る。波間に見える埠頭が徐々に遠ざかって行く。力を温存している場面じゃない。そう思った朝倉はクロールする両腕に血流を集中させて圧倒的なパワーで泳ぎ切ろうと、まずは大量の酸素を肺に送り込む。ところがそのタイミングで潮を被り、しこたま海水を身体の中に取り込んでしまう。最早泳ぐことすらままならず、酸素を求めて藻搔くしかなかった。段々と海中にいる時間が長くなって行く。それでも波は続けざまに襲って来る。

 先に、この海に落ちた榊と鬼瀬はどうなった。奴らもこの辺りで溺れているのか。それともあの女が助けたのか。

 何かが自分の両足に絡み付いた。足を振りほどこうとする間もなく朝倉は、海中に引きずり込まれた。

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