第42話 封印

 脈打つ朝倉の心臓がノッキングを起こした。それがハッキリと榊の手に伝わる。その衝撃が朝倉にほんの僅かな隙を生じさせる。この隙が生じなければ榊の掌底は瞬時に掴まれていたことだろう。掌底を打った榊はバク転して後方のガラス窓から外に飛び出した。事務所に置き去りされた朝倉が窓に飛びついて叫び声を上げるが、埠頭の喧騒に負けて榊にはよく聞き取れなかった。


 息苦しい。少しでも気を抜くと大口を開けて息を吸い込んだ挙句に、肩が上下に震えそうだ。このラッシュは一体いつまで続くんだ。もうそろそろ限界が近づいている。なのにどうして長谷川の野郎は平然としてやがる。体格差ってのはそのまま燃料タンクの差になるってのか。脳の処理速度をフル回転させて動体視力を上げても同じことが出来る長谷川が相手だと効果はゼロになる。まだ一発ももらってないが、これじゃあ世界最強になった実感が湧かねえ。話が違うじゃねえか榊。一瞬でも気を抜いたら忽ちサンドバックになるぞ。あぁそろそろ休みてえ。打撃の空振りがこんなに消耗するとは思わなかったぜ。避けるのも面倒になってきた。


 体格差で顕著になったスタミナの差が、やがてネガティブな思考回路を作り上げて鬼瀬の足を引っ張り始める。

 流れで避けるよりもガードして受け止める方が踏ん張りの利く反撃ができる。それはわかり切っているが、空を切る長谷川の打撃を見たらガードして受け止めようなんて考えにはならない。それでも鬼瀬はギリギリで躱せるはずだった長谷川の上段蹴りをとうとう腕でガードしてしまう。体力の消耗からくる苦し紛れの判断だった。     この辺で方向転換しないとジリ貧だ。鬼瀬はそう考えた。

 しかし長谷川の上段蹴りは、そんな鬼瀬の思惑ごと薙ぎ倒す破壊力があった。

 ガードした腕の骨は粉砕され、車に跳ねられたかのように投げ出された身体は階段の手摺りに激突し、激痛と呼吸困難が鬼瀬を襲う。それでものたうち回っている場合じゃない。次が来る。顔を上げると長谷川の姿が消えている。どこに行った。その刹那、顔に陰りが射した。咄嗟に身体を半転させると転がり続けて闇雲にそこからエスケープする。その直後、元居た場所に長谷川がコンクリートの地面を突き刺すように着地した。そこへ間髪入れずに地を這うような水平蹴りを放つ。しかしそれはまるでハエでも叩き落とすかの如くあっさりと長谷川の足に踏みつけられてしまった。

「なんだこの蹴りは、ヨガでもやっているつもりか、常に力を使うことを忘れるな」

 長谷川は踏みつけにした鬼瀬の足首を両手で掴み上げて、ズルズルと引きずったかと思うと軽々と鬼瀬の身体を振り回し始める。

 凄まじい握力で足首を掴まれた鬼瀬は、その力に抵抗するので精一杯だった。でなければ足首が粉砕骨折していたであろう。成すがままにジャイアントスイングされて投げ捨てにされた鬼瀬は、渦高く積み上げられている木箱に叩きつけられる。

 バランスを失って崩れだした木箱が鬼瀬を襲い始める。積み上げられていた一か所が崩れると連鎖して他の一画も次々と倒れて行き、あっと言う間に辺りは被災地の瓦礫の山のようになってしまった。

 濛々と立ち込める埃はいつまで経っても収まりを見せない。長谷川は崩れ落ちて瓦礫の山と化した木箱を蹴散らして前に進む。

「鬼瀬っ、このくらいで死んだわけじゃあるまい出てこい」

 瓦礫の一画が噴火でもしたかのように跳ね上がると鬼瀬が姿を現した。

「あんた、憎たらしいくらいに強いな」


 バク転しながら外に飛び出して行った榊は、一回転してコンテナの上に降り立ち、そのままコンテナから飛び降りて地面に着地すると、こっちが窓から飛び降りる姿を視界の隅で確認しながら、整然と並ぶコンテナ群の中に紛れ込んで行った。誘っているが透けて見える。そうしないと勝機が見いだせないのだろう。鬼瀬に同等の力を持たせればこの俺に勝てるとでも思ったのかも知れないが、その程度の小細工では通用しないのを教えてやらなければならない。

 耳を澄ませて榊が姿を消して行った方へ歩いて行く。海側から潮風が吹きつける。そう遠くない別の倉庫で搬出入を繰り返すフォークリフトのエンジン音、タンカーの汽笛、カモメの鳴き声、それらが絡み合って出来た喧騒をひとつひとつ紐解いて、奥に隠れている僅かな周波を増幅させる。

 2つ先のコンテナの陰で、その存在を消しつつ襲い掛かるタイミングを見計らってジッとしている静かな息遣いがあるのを捕らえる。

 榊も同じことを出来ると考えた方がいい。こっちはさも警戒しているかのような素振りで息遣いのするコンテナまで近づいて行き、反対側の角からコンテナに蹴りを放つ。普通の人間ならばせいぜいが銅鑼を叩くような音が響くに過ぎないところだが、フルサイズのコンテナは、ダルマ落としの積み木のように簡単に押し出され、通路を跨いだ隣のコンテナに激突する。

 息遣いはまだ死んでいない。覗いてみると、ぶつかったコンテナ同士の僅かな隙間から黒いノラ猫が顔を出して走り去る。勘違いか。いや榊はいる。それもごく近くだ。それが真後ろだと気付いた瞬間、両耳に迫って来る風圧を感じ、その風圧は硬い衝撃と共に耳孔の奥で破裂して耳鳴り以外何も聞こえなくなった。

 聴覚を奪われた。回復させるのに多少の時間は掛かる。それでも動揺はない。榊の両手の平が耳にインパクトする直前に、背後に向かって裏拳をスイングする。当たらない。2発目はコンテナに直撃する。

「どこだ、出てこい榊」


「ここにいるぜ」

 またも背後に立った榊の声は鼓膜の破れた朝倉の耳には届かない。

 些かの冷静さを欠いた朝倉が背後を気にして闇雲に拳を振るのを掻い潜りその顔に今度は催涙スプレーを吹きかける。

「ぐぁ」と獣のような叫び声をあげて朝倉が両手で顔を覆った。百均の商品にしては意外と効き目がある。

「常に力に頼ってるからこういうことになるんだ」

 一時的に聴覚と視覚を失って暴れ回る朝倉に近寄ると、背後から腰の部分を掴んで後方へ放り投げる。実際には体重100キロを超える朝倉の巨躯が宙に浮いたわけではなく振り回されヨロヨロと10歩ほど後退しただけだったが、ことはそれで足りている。

 榊は開いたままになっている空のコンテナの扉をとじて閂を掛けると南京錠で施錠した。朝倉をコンテナに封じ込めたのだ。奴の鼓膜が治癒して且つ催涙スプレーの効果が切れるのに15分は掛かるだろう。

 朝倉の持ちかけた取引に応じて格を救い出しても問題の解決にはならない。

 朝倉は倒さなければならない。その為にはやはり鬼瀬の力が必要だ。榊は鬼瀬のもとへと走った。


 長谷川がゴミ屑のように蹴散らす木枠はひとつ20キロ以上の重さがある。金属製の細かい部品のような物がそこら中にザクザクとまき散らされていた。

 鬼瀬はまだ原型を留めている木箱を持ち上げて長谷川に投げ付けた。それを難なく躱そうとした長谷川は思いとどまって、自らの蹴りで破壊して払い除けた。身体を振って躱せるほど足場が安定していないのだ。そこに天啓を得た鬼瀬は次々に木箱を投げつける。破壊され散らばって行く木片と金属が長谷川の周囲に降り積もり益々足場を悪くして行く。

 やがて痺れを切らせた長谷川が頭上で両腕をクロスして、その場から跳躍して脱出を試みる。軽々と2メートルは舞い上がった。

「そのうち飛び上がると思ってたぜ」

 長谷川の跳躍はその場からの脱出だけではなく鬼瀬との距離を詰める為でもあった。しかしそれが徒となった。

 いくら力を駆使して動体視力と反射神経を上げて至近距離でも銃弾を躱せるよになったとしても、空中では蜂のように自由に動くことは出来ない。常識外れの跳躍は尚都合がいい。僅か数秒の滞空時間でも脳の処理速度を上げた鬼瀬にとっては落ち着いて狙いを定めることが出来る。

 同じく脳の処理速度を上げた長谷川にはそれを刮目することしか出来なかった。鬼瀬が構えた拳銃の銃口から射出された弾丸が回転しながら自分に向かって突き進んでくるのを。それが長谷川がこの世で見る最後の光景だった。


「鬼瀬、無事か」

 榊が倉庫の正面の入り口から入って行くと崩れた積み荷が山となっている。

 長谷川が倒れていた。眉間が熟れたザクロのように爆ぜて流れ出た赤黒い鮮血が血だまりを作っている。

 その長谷川の死体を飛び越えて散乱する積み荷の瓦礫を搔き分けながら鬼瀬を探した。

「どこだ。鬼瀬返事をしろ」

「ここだ……」

 鉄骨の柱に背を預け腰を下している鬼瀬の姿がようやく見つかる。足元には拳銃が転がっている。

「大丈夫か鬼瀬」

「あぁ、腕を折られた。今、治してるところだ。ちょっと待っててくれ。それより朝倉はどうした。まさか終わったのか」

「あの化け物はやっぱり一人じゃ無理だ。今は外のコンテナに封印してきたけど、あと数分もしないうちに出てくるはずだ」

「俺の方はもうちょっと時間が掛かるぞ」

 榊は肩を貸して鬼瀬を立ち上がらせた。

「その時間は稼ぐつもりだ。治ったら作戦通りにやるぞ」

 榊は鬼瀬を2階の事務所に連れて行くと奥のソファーで横にしてやる。給湯室にあった冷蔵庫を開けるとビールや缶ジュースと共に栄養ドリンクが入っている。

 鬼瀬に栄養ドリンクを飲ませ自分は野菜ジュースを飲む。どちらも消費した体力を補うには心もとないが、急いた気分を落ち着かせるには幾ばくかの効果があった。

 鬼瀬の負傷箇所を治癒させるのに協力したいところだが、もうすぐ復活する朝倉と対峙するために自分の体力は温存しておきたい。

 鬼瀬の骨折が元通りに治るのに少なくともあと30分は掛かりそうだった。本来なら全治1ヶ月以上は掛かる怪我だ。それが僅かな時間でしかも1人で治せるのは驚異的としか言いようがないが、今の2人には途方もなく長い時間でしかなかった。











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