第41話 2対2

 朝倉が榊を追って階段を登って行くと、お互いに至近距離で銃弾を躱せる鬼瀬と長谷川が睨み合ったまま、ゆっくりとサークリングを開始した。

 この1ヶ月の間に榊とカミオカの力によって、通常は30パーセントしか使われていない身体機能が100パーセント引き出せるようになり、それに耐えられる身体に鍛え直してきた。加えて、自分で血流を操る技も身に付けた結果、今の榊と同等レベルのパフォーマンスを鬼瀬は自分1人で発揮できるようになっている。

 これに対して、長谷川の場合は、朝倉の思考回路を受信するアンテナを埋め込まれたような状態だが、それでいて長谷川本人の意識は浅い覚醒を保っている。言わば夢を見ている時のように、長谷川は何の疑いもなくこの異常な身体機能の変化を受け入れていた。

「東崎にはガッカリさせられたが、お前は俺の期待に応えてくれるんだろうな鬼瀬」

 サークリングの円は徐々に狭まっている。

「逆の意味で期待外れにしてやるよ」

「言うじゃねえか。おもしれえ」

 直後、サークルの直径3メートルの距離がゼロになった。長谷川が鬼瀬に掴みかかる。鬼瀬は上から来る長谷川の懐に入り、その巨体に密着して投げを打った。今の鬼瀬なら120キロはありそうな長谷川の体躯でも軽々と投げれるだけの力は充分にある。しかし長谷川の両足はコンクリートの地面から溶接でもされているかのように離れない。真正面からの力のぶつかり合いが、大気を震わせギリギリと互いの体力だけを消耗させていく。

 埒が明かないとみた長谷川が懐に潜り込んでいる鬼瀬の背中に重い肘を落とし始める。常人なら一発で背骨を損傷するか、その衝撃で呼吸困難に陥るのは免れない。それでも鬼瀬は投げを打つことを諦めなかった。

 これに業を煮やした長谷川は更に覆いかぶさり腕を伸ばして鬼瀬の腰に掴みかかる。その一瞬の隙を縫って鬼瀬の投げが決まる。鬼瀬に覆いかぶさった長谷川の身体は縦に半回転し、脳天を地面に打ち付けるのは必至だった。しかしそのはずが、そうはならない。背筋がゾクリとして鬼瀬は距離をとって長谷川を見遣る。それが間一髪で長谷川の裏拳を躱すことになった。打ち終わりを狙った鬼瀬のパンチも躱される。そして2人は弾かれたように間合いを取るが、休まずに同時に打って出る。

 乱打される2人の拳と蹴りの応酬が始まった。2人の打撃は当たるどころか掠りもしない。均衡を先に破ったのは長谷川の顔面を捕らえた鬼瀬の右拳だ。しかしそれは長身の長谷川には浅い。長谷川は相打ちを覚悟で蹴りを放っていた。これをショルダーブロックで受け止めるが、凄まじい衝撃に鬼瀬はコンクリートの壁面に叩きつけられる。しかしダメージは殆んどない。

 憤怒の形相を見せていた長谷川が、奥歯まで露出するほどの笑顔を見せた。まさに鬼か、化け物にしか形容の出来ない顔だ。

「そろそろ、本気でやろうじゃねえか」

 長谷川のその言葉が鬼瀬の鼓膜を震わす前に拳のほうが先に飛んで来る。

 拳だけが瞬間移動してくるほど早い。それをヘッドスリップして躱すも僅かに掠めたそれは、鋭利な刃物でなぞったかのように鬼瀬の頬をパックリと裂いた。忽ち頬が朱に染まり、みるみるうちに血が滴り始めるが、頬を拭う時には既に切り口は塞がれている。この程度の外傷を治すことなど今の鬼瀬には造作もない。

 鬼瀬の顔にも自然と笑みが零れた。


 スチールの階段を2段抜かしで駆け上がった榊は、アルミの扉を開いて中に入った。下からは朝倉が手すりを掴んでカンカンと乾いた音を響かせながら悠然と階段を登って来る。

 中はこの倉庫の事務所のようだった。誰もいない。榊は事務机や応接セットの脇をすり抜けて、ガラス窓の外の様子を窺う。

 サッシを開くと港の潮風が顔に吹き付ける。眼下に立ち並ぶ無数のコンテナ群の遥か向こうにも似たような倉庫が点在している。カモメの群れが空で賑わっている。

〈君はコンテナに縁があるようだな〉カミオカが落ち着いた口調で言った。

「あんま経ってねぇはずだけど、八王子のコンテナが懐かしいぜ」

 2人の暢気な会話を邪魔するように背後でドアが開いて扉が激しく壁に叩きつけられた。朝倉が中に入って来る。

ガラス窓の桟に片足を掛けていた榊が振り返ると中に入って来た朝倉と視線が合う。その途端に射抜くような鋭い眼光を放つ朝倉の眼球がどす黒く変色し、得体の知れない吸引力に榊はそのままの姿勢で動くことが出来なくなった。

「カミオカどうなってる身体が動かねえぞ」

〈どうなっているのか私にもわからないが、動けないのは向こうも同じようだ〉


〈カミオカ、お前はこの時代に何をしに来た〉

 その声は初めて聴く声音だった。微動だにしない朝倉は口を開けていない。

 朝倉の声ならそれは亀山格と同じはずだ。聞き間違えるはずもないが声の正体が朝倉だと言うことは明白だった。

 朝倉の意識は否応もなくカミオカと共有する領域に割り込んできて、自らの問いかけの答えを探し回り、やがてその答えを探り当ててしまう。

 榊の脳裡に朝倉の高らかで嘲るような笑い声が反響した。

〈タイムスリップのショックで肝心の目的を忘れてるのか、俺が12年も前からお前が来るのを待ち構えていたのはとんだ無駄骨に終わったってことか。教えてやるよ、お前は元の未来で世界の統一を目前にした我が中国の存在を根底から揺るがす情報を掴んでこの時代に来ている。俺の役目は、お前が掴んでいる情報もろともお前を消してしまうことだった。ところが俺もこの時代に来て初めてこの時代の人間と意志の疎通が出来ることを知った。そうなるとお前が情報をこの時代の人間に拡散している可能性もある。お前を消すのは、それがどこまで広がっている確認してからだと予定変更を余儀なくされたが、それもどうやらしなくて済みそうだ〉


〈こうして視線を合わせるだけで、人の脳の中を探れるようになるとは驚いた。だけどそれを想定して、ここへ来る前に私がその情報をどこかに隠して、その事実を榊の脳内から消去していたとしたらどうする。お前は榊の脳内を探索しただけで私の脳内に入り込んだわけではあるまい〉

「何だと」

 突然、朝倉と榊を繋いでいた見えない糸のようなものがブツリと切れる。朝倉の眼球も同時に通常の光を取り戻した。硬直していた榊の身体も自由を取り戻す。

「人の頭の中で馬鹿笑いしやがって、俺にはお前の魂胆が読めたぞ。お前はカミオカの情報が何なのか知りたいんだろ。その情報を未来に持ち帰って、金にするか出世の道具にするか、あわよくばその情報で自分が世界を支配しようなんて考えてんじゃねぇのか」

 朝倉の表情が怒りの形相に変わる。図星に近いのかも知れない。

「黙れ、榊。そう言うお前の目的は俺から亀山格を救い出すことだろ。まさかお前この俺を相手に力ずくでそれが出来ると思ってきたのか」

 実際にそれが可能だと思って乗り込んで来ている。ただしそれは鬼瀬と2人で力を合わせて初めて可能になる筋書きだ。まさかここへきて長谷川がこっちの脅威になるとは思いもしていなかった。しかし物事が思い通りに運ばないのはいつものことだ。

「榊、ひとつ取引と行こうじゃないか。亀山格はこの肉体ごと本人に返してやる。その代りカミオカの意識をこっちに寄こすんだ」

「なんだと、そんなことが出来るのか」

 まるでファイル交換でもするかのような言い草だ。

「出来る。お前の身体にもう一度俺を入れさせろ。さっきは咄嗟だったからお前も受け入れざる終えなかった。だが本当は自分の意志で拒否が出来る。その理屈はお前も知っているな。その上で俺とカミオカの意識を自分の身体から追い出すだけでいい」

 窓の桟から足を下して朝倉と向き合った。

「もう一度俺の中に入って、出るときにカミオカを連れ出すって寸法か、それで俺の身体から出たお前たちはその後どこに行く」

 朝倉の左の眉がピクリと一瞬だけ痙攣するように動いた。

「そのまま未来に戻るのさ。その後、亀山格の意識は時期に覚醒する。それでいいだろう。それとも100年後の未来に戻ったカミオカがどうなるか心配か、この男は中国の機密扱いの情報を握っているだけじゃない、日本政府の管理下にあったタイムトラベルの技術まで勝手に持ち出している。帰ったらどの道ただでは済まない身だ。この時代の人間が関わることの出来ない問題だろ。考えるまでもない。さあもう一度俺を受け入れろ」

 榊は目を閉じてこめかみのあたりをマッサージするようにして軽く揉んで見せる。

 手を離すと朝倉はもう目の前に立っていた。

 受け入れ難い提案だが、どうやら従わざる終えないことだと諦めたような冷めた表情を作った。満足そうな不敵な笑みを零す朝倉の顔がそのにある。この顔を殴りつけたかった。しかしその顔は亀山格の一部でもある。今は迂闊に目を合わすこともできない。

 榊は最大限の力を駆使して朝倉の分厚い胸板に掌底をお見舞いした。

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