第40話 デザリング
狂ったように鳴くカモメの声にうんざりする。潮の匂いとコンクリートに沁み込んだ排気ガスや機械オイルの混ざった匂いが鼻にまとわりつく。ここが東京湾沿いのどこかの埠頭のひとつだろうと、頭巾の中で見当を付けた。
肩を掴まれて倉庫の中に促される。シャッターは開いたままのようだ。
「戻りました」
襲撃犯に、頭巾を外される。
日射しの照り返しに、しばらく目を開けていられなくなる。やがて視界がハッキリしてくると、やはりここがどこかの埠頭の倉庫だと言うことがわかってくる。
奥に積み荷が置かれていると言うことは、今も稼働している生きた倉庫ということになる。この期に及んで生きて帰れるとは思っちゃいないが、ここが竜神会の所有している倉庫なら、俺の生存確率は限りなくゼロに近づいていることを意味する。
どうやら正面で、積み荷を背にしている5人の男たちが、俺の生殺与奪を握っていのは確かそうだ。真ん中の1人だけがパイプ椅子に座っている。どの顔もよく知っている顔だ。新宿カオス初代総長に四天王。暴走族時代に戻ったような気がしてくる。竜神会になっても四天王は健在らしい。差し詰め今は若頭補佐と言ったところか。
「久しぶりじゃねえか東崎」
パイプ椅子に座っている初代総長だった長谷川が言った。交戦中の組同士の人間が対峙しているとは思えない穏やかさだ。
懐かしい雰囲気に釣られてつい「ウスッ」と答えてしまった自分が恥ずかしくなる。長谷川の両脇で失笑が漏れる。そのうちの1人がツカツカとこっちに歩み寄って来た。昔は面倒見のいい先輩だった気がする。
「ウスッじゃねえだろ東崎、お前うちの人間何人殺した。何か言うことはねえのか」穏やかな顔したその先輩は懐からバタフライナイフを出すと、俺の手首を拘束している粘着テープを切りに掛かる。切り終えると先輩はまた後ろに下がって行った。
「死ぬ気でやれ」去り際に囁くように言われた言葉をカオス時代にも言われたことがあるのを思いだした。
あれは確か、中野にあった
結果は言うまでもない。勝ったからこそ今があるのだ。そして晴れて引退を認められた時に言われた。
「死ぬ気でやれ」と。
その長谷川がパイプ椅子から立ち上がると脱いだ上着を脇にいる男に手渡した。
「歌舞伎町でうちに仕掛けてきたのがまさかお前の組だとは夢にも思わなかったぞ東崎」
「あなたたちは、あまりにも……やりすぎた。うちにも面子がありますんで」
二歩、三歩と歩み寄って来る長谷川に対して、その分退きたい衝動を抑えているのがやっとだった。
「鬼瀬のことか」
「はい」
「何言ってる、あの野郎は元々うちの朝倉が的に掛けていた榊を匿ったのがいけねえんじゃねえか、それともお前の組は、竜神会より榊を大事にするってのか」
「榊のことは正直どうだっていいんです。しかし鬼瀬はうちの組員なので」
「馬鹿野郎、結局同じだろ。うちの的はもう榊と鬼瀬の2人なんだよ。あの2人どこに行きやがった」
「さぁ、知りませんね。あの2人の行方は俺も知りたいぐらいですよ。なんならここで解放してくれれば、うちの組員も総出であの2人の行方を探させますよ」
迫りくる長谷川の威圧は凄まじいものがあった。この男に窮鼠猫を噛むという概念はない。たとえこの場でこいつに噛みついても俺は鼠にすらなれはしない。苦し紛れの出任せもこの男には通用しない。吹き出す汗が目に入って沁みてくる。
「お前を無傷で連れて来いと命令しておいたのはチャンスをやるためだ」
長谷川が何を言いたいのか、すぐにわかった。
「昔、お前がカオスを辞めたいって言いだした時、正直言って俺はお前の名前も知らなかったんだ。死男神の頭とタイマン張って来いって言ったのも俺にとっては余興に過ぎなかった。まさかお前が勝っちまうとは思わなかったんだ。改めて惜しい男を無くしたと思ったよ」
長谷川は両拳を握ってボキボキと指の関節を鳴らす。
「掛かって来い。俺とタイマン勝負だ。俺に勝ったらこの場でお前だけ見逃してやる」そう言いながら長谷川が斜に構える。
つまるところ長谷川と言う男もこの上なく殴りいの喧嘩が好きでしょうがないのだ。
俺がやった最後の喧嘩は、死男神の頭とのタイマンだった。今となっては随分と昔の話になる。あの当時と体型はさほど変わらないものの筋肉は脂肪へと変化し、腕力も劣っているのがわかる。ヤクザともなれば、チャカの引き金が引ければ、それでことは足りると思ってきた。そして何と言っても荒事は鬼瀬に任せておけば良かったのだ。それでもいざとなればいつでもやってやると言う気概は持ち続けてきた。
こんな形で、いざと言う時がやって来るとは思わなかったが、この倉庫に向かう車に乗った時から長谷川がそう言って来ると予感していた。
ここにきて及び腰だった気持ちにようやく踏ん切りがつく、深呼吸をひとつ吐くと両手を上げて構えを取った。勝てるなんて思っちゃいないが人生の最後にひと花咲かせてやる。やるなら奇襲だ。
東崎は、何の前触れもなくいきなり右の初打を放った。それを難なく躱した長谷川は、そのままクルリと身体を半転させて右の裏拳を返す。
これを寸前でスウェーした東崎は久々の殴り合いにも拘わず身体が反応したことに満足する。思ったより行ける。そう思った。
出し抜けに1台のセダンが倉庫の中に突入して来て、急ブレーキをかけて止まった。東崎に躱された裏拳の勢いのまま振るった次打の左拳を止める長谷川。
その左拳の尋常ならざる反射神経と角度に肝を冷やす東崎。出番だとばかりに長谷川を守るように詰め駆ける四天王。
そして東崎をここまで攫ってきたワゴン車の4人組が突入して来たセダンに群がって行く。
「何だぁてめぇら」「降りて来いヤァ」
セダンを取り囲んだ4人組が口々に罵声を浴びせながら、ドアを蹴り、ウィンドウを殴りつける。
左右のドアが同時に開くと4人組は更に勢いづいて開いたドアに殺到するが次の瞬間には呻き声と共にバタバタと倒されて地面にのたうちまわる羽目になった。セダンから降り立った2人は4人組を足蹴にしながら、煙草に火を点けて太々しい態度で紫煙を吐き出して睨み付ける。
何だお前ら、と長谷川がそれを言う前に東崎が先に口を開いた。
「鬼瀬っ、榊っ、お前ら今まで何やってた」
本当に知らなかったことをアピールする打算が、声を大きくする。
「兄貴こそ、そこで何やってんだ。雲隠れしとけって言ったじゃねえか。それが抗争なんか、おっぱじめやがって」
「うるせぇ、お前に腰抜け呼ばわりされて黙ってられるか」
「それが理由かよ。あんたどうかしてるな」
こんな時に冗談のような応酬をしつつも、鬼瀬と榊は片時も長谷川から目を逸らさなかった。2人の遣り取りに口元を歪ませた長谷川が割って入る。
「お前らが鬼瀬と榊か、ここがどうしてわかった」
これには俺が答えると言わんばかりに榊が前に出る。
「あんたじゃ理解できねえ。少なくとも人の組事務所の車に発信機を付けたりするようなアナログな方法じゃねえ」
「なんだと小僧が」自分たちの遣り口を見透かしたような言われように長谷川の目付きが鋭さを増す。
常に長谷川の機嫌を窺い、その意志を代わりに体現して来た四天王が、ここで長谷川の言葉に反応して鬼瀬と榊に殴り掛かるのは当然と言えた。
四天王の忠誠心と竜神会の中では並外れた強さに絶対の信頼をおいている長谷川は4人の反応に満足しながら、最初に座っていたパイプ椅子まで戻って座り直した。いつの間にか脇に退いている東崎のことはもう眼中にない。
たっぷりと痛めつけてからその上で一体どんな方法でここを嗅ぎ付けたのかゆっくりと聞き出してやる。鬼瀬と榊がかなり出来る事は、これまで耳にしたことはあった。朝倉からも見つけた時は、特に榊には注意しろ舐めて掛かるな。と言い含められているが、うちの四天王が相手では、ひとたまりもないだろう。恐らく1分も持たない。長谷川はそう思った。
しかしパイプ椅子に座り直して目前に広がる、その光景に長谷川は目を疑う。
組員130人強の竜神会で並外れた強さを誇っているはずの四天王が、地べたに這いつくばっているのだ。相手を殺すために暴力を用い、銃を持たせれば心臓や脳天に向けた銃口の引き金を躊躇なく絞ることが出来る4人がこうまで簡単にのされている。
「余裕かまして、ふんぞり返ってる場合じゃねえぜ。長谷川先輩」息切れもしていない榊が言う。
この光景に、腹の底から打ち震えるような衝動が込み上がり全身を泡立たせた長谷川は、ゆっくりと立ち上がる。
「お前ら2人まとめて掛かって来い」
その時だった。倉庫の壁伝いに沿うスチール製の階段の先にある2階のドアが開いた。
「榊、お前の相手は俺だ。今度は逃げたりしないだろ」
声音は亀山格だが、紛れもなく朝倉だった。放たれている電磁波がオーラのように全身を縁取り頭頂からうっすらと細い線が天に立ち昇っているのが榊には見えていた。
「当たり前だろ。お前がここにいるのがわかってるから来たんだ」
階段を降りてきた朝倉が長谷川の横に並ぶ。
ひと月ほど前に市場の屋上で見た時よりも、ひと回りも二回りも身体が大きくなったように感じる。こんなデカい奴は日本人にはいないと思っていた長谷川と、さほど変わらない背丈だ。2人とも2メートルは越えているはずだ。その圧倒的な存在感のお陰で、広い倉庫内が狭くなったような気さえしてくる。背後で榊と鬼瀬にやられた四天王とワゴン車の4人組が、おずおずと負傷した身体を助け合って退いて行くのは、朝倉が放つ無言の圧力がそうさせたに違いない。
会ったことがあるはずの東崎でさえも朝倉の姿を前に、気を許せば下肢が力を失って膀胱が決壊してしまいそうだった。鬼瀬に腰抜け呼ばわりされたことがこの抗争を仕掛けた発端に違いなかったが、その他の思惑を含めて全てが安易だったと後悔せずにはいられなかった。鬼瀬と榊が、この場をどうにかしてくれないと自分の命にも係わる。しかしこの状況でそれが叶うのは絶望的だ。それでも朝倉と長谷川の2人に堂々と対峙してる鬼瀬と榊が信じられなかった。
朝倉が鬼瀬を睨みつける
「お前、長谷川になら勝てると思ってるのか」
「1ヶ月の沈黙破って、こっちから出向いてきてやったんだぞ。それがどういう意味か教えてやるよ」
鬼瀬がそう言うや否や、朝倉はおもむろに懐から拳銃を抜いて鬼瀬に銃口を向け発砲した。5メートルに満たない距離だった。耳をつんざくような発砲音がした直後、だいぶ後ろの方で剥き出しになっている鉄骨が火花を散らせる。
度胸試しにわざと外して撃ったに違いない。そう考える東崎の角度からは、鬼瀬が弾丸を躱したようには見えなかった。そもそも常人は至近距離で拳銃の弾が避けれるなどと考えたりはしない。
「そう言うことか」朝倉は榊に向かって言った。
その朝倉が長谷川の肩に手を置くと、まるで静電気に触れたかのように長谷川の身体がピクリと反応し、何か別の意志が入り込んだように目の色が変わる。その上で拳銃を榊に向かって放り投げる。そして榊を見据えたまま長谷川に顎をシャクって見せる。長谷川に撃ってみろと言っているのだ。榊はその通りに長谷川に銃口を向けると引き金を絞った。
今度は榊の撃った拳銃の射線上に長谷川が立ってるのが東崎からハッキリと見える。間違いなく当たる。それでも榊が発砲する直前に東崎は不覚にも目をつむってしまう。
長谷川の背後の木箱の一部が砕ける音がした。
東崎が目を開けると長谷川の立ち位置が僅かに変わっている。
「躱したのか」
驚愕に値する事実が、東崎の常識と先入観を引っ掻き回した。混乱しその受け入れ難い事実にわななく思考は、別の一方で鬼瀬も同じことをやってのけたのだということに行き着いて更に混乱する。そもそもこの期に及んで度胸試しなどする必要があるものか。
こいつら一体何者なんだ。理解不能のまま東崎の意識は遠のいて行った。
榊が拳銃を脇に放り投げる。
「あんたの度肝を抜いてやろうと思ってたんが、代わりに東崎先輩の度肝を抜いちまったみたいだな」
「これで面白くなってきた」鬼瀬が長谷川を見据えながらつぶやいた。
「なんだよ。長谷川先輩と遣りてえのかよ」
「朝倉とは一度やったからな」
「長谷川、油断するなよ。確実に殺せ」
長谷川は無言のまま頷くとゆっくりと両腕を上げて構え直した。
「カミオカ、朝倉の野郎こっちが鬼瀬の身体能力の限界を突破させたのと似たようなことをこの場で長谷川にもしやがったぞ」
〈結果的には同じことかも知れないが、長谷川の意志はあまり関係ないように見える〉
「どういうことだ」
〈わからないが、長谷川の意志がコピーされた感じだ。とにかくこれでこの場の4人が似たような条件になったわけだが、2対2でやった方がいいんじゃないか〉
「それは同感だ。余計な足の引っ張り合いにならなくて済むからな」
「鬼瀬、負けんじゃねえぞ」
榊はそう言い残すと、今しがた朝倉が下りてきた階段に向かって走り出した。
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