第36話 鬼瀬 VS 亀山
次に朝倉が竜神会の事務所から出てきたのは、若い衆から現場を引き継いで小1時間が経ってからだった。車に乗ったまま斜向かいのコインパーキングで待機していた鬼瀬はこの時初めて朝倉の顔を確認する。確かにでかい、それでいてそのサイズでもまだ足りないというほどの気力の充実を感じる。まるで空腹の猛獣が歩いているようだ。この男と殴りあったらどんなことになるだとうと喧嘩の蟲がゾクリと鬼瀬の背筋を這い上がる。
朝倉は職安通りに向かって歩いて行く。鬼瀬はコインパークから車を出して。10メートル程の距離を取りながらゆっくりとその後を追っていく。
職安通りに出た朝倉はすぐにタクシーを拾った。鬼瀬は朝倉の乗ったタクシーの1台後ろから後について行く。
朝倉は歩いている時もタクシーに乗ってからも一度も背後を気にする素振りを見せなかった。
「ボディーガードもつけねえで、舐めてんなこいつ」
朝倉を乗せたタクシーは職安通りから小滝橋通りを右折し、そのまま北上した先で合流する早稲田通りを中野方面に進んで行った。ここまでは良かった。が、間もなくして早稲田通りの右側を占める上落合の街中へとタクシーは進路をかえる。そのタクシーを追う鬼瀬の心中は、やがてハザードを焚いて停車したタクシーを見て驚愕せずにはいられなかった。
タクシーを降りた朝倉が入って行った建物は、亀山格が居を構えているマンションに間違いなかった。
鬼瀬はこれまでの経緯を振り返る。
榊が竜神会の朝倉から追われだしてから亀山格は、榊を逃がすために三鷹や八王子に隠れ家を用意しのだ。普通で考えれば、朝倉と繋がっているとは考えにくい。ならばその朝倉が亀山格の住んでいるマンションに入って行ったのはどう説明する。奴も偶然このマンションに住んでいるのか。そんな馬鹿なことがあるか。どう考えても何かの偶然の可能性を探し出すことが出来ない。
鬼瀬は携帯を取り出して亀山格の携帯番号を表示させて発信ボタンを押そうとしたが、思いとどまって榊に渡してある携帯の番号に電話を掛ける。
電源が入っていない。念の為、元の番号にも掛けてみるがそっちもやはり電源が入っていない。
「何やってんだ公平。こんな時に」
鬼瀬は自分の舎弟を呼び出して、マンションの見張りを交代し、自分は一旦歌舞伎町の事務所に戻った。
夜になっても朝倉がマンションから出てきたという報告はなかったが、その代わりに亀山格がマンションを出たと言う報告を受ける。
「1人は亀山の後を追え。もう1人はその場で張り込みを続けろ」
そう指示を出した鬼瀬は事務所を出る。亀山格の行動を直に確かめないと気が済まない。
上落合の自宅マンションで目を覚ました格はリュウに語り掛ける。
『リュウさん、いないのか』
リュウの返事はない。まだ未来から戻っていないのだろう。格はそう思った。
榊のもとに未来から工作員がやって来る日が迫っていると聞かされている。リュウが、万全の準備をする為にしばらくの間未来に戻ると言い残してから2週間が過ぎている。その間、榊公平と連絡を絶やさないようにしておいてくれ、とも言われている。ところが公平の身に思わぬ事態が降りかかる。歌舞伎町を根城にする竜神会が公平を指名手配したのだ。鬼瀬と2人で協力して公平を助ける為に動き出した。舎弟の荒川に東京郊外に隠れ家を用意させる。
その直後、竜神会は公平の自宅マンションに火を放った。
竜神会は本気で公平を消しに掛かっている。そう思った格は公平を海外に逃がそうと考える。その為の偽造パスポートも荒川に作るよう指示を出していた。
リュウが未来に戻ってから体調が思わしくない。
具合が悪くて動けないと言うほどではない。一言で言うと疲れが取れない。身体が重いという感じだ。
長年に渡って精神的にもリュウに依存して来た影響なのかも知れない。もしそうなら病院に行っても解決することではないと諦めるしかないが、ひと度眠りにつくと信じられない程寝込んでしまうのには困り果てている。目が覚める度に最低でも15時間以上は経過しているのだ。
そして起きてからも、寝る前のことをじっくりと思い出さないと、遣るべきことが脳裡に甦ってこないのだ。
眉間に皺を作って全てがアクティブになるのをじっと待つ。まるで電源を入れたばかりの昔のPCになったような気分だ。
ほどなくして最優先事項があることに気が付く。同時に壁に貼ってあるカレンターを見上げる。今回は丸1日眠っていたらしい。公平の偽造パスポートはもうとっくに仕上がっているはずだ。
急いで出掛ける仕度をする。両膝の裏の辺りと脇腹に妙な感触覚えたが、見ても触っても異常はない。そのことはすぐ格の記憶から薄れてなくなった。
上落合の自宅マンションを出ると車の中から公平が持っているはずの携帯に電話を掛けるが電源が入っていない。続いて舎弟の荒川にも連絡を入れるが、こちらも電源が入っていない。最後に事務所に連絡を入れる。
「亀山だ。荒川と連絡が取れない。何とかして連絡を取ってくれ」
事務所当番にそう告げると電話を切った。
その途端、呼び出し音が鳴る。液晶画面に鬼瀬の表示が出ている。着信ボタンを押した。
「格、公平のパスポートは出来たか」
「もう出来てるはずなんだけど、今担当者と連絡を取ってる」
そう答えながら鬼瀬の口調がいつもと違うことに違和感を覚える。
「今どこにいる。これから会って話せないか」
逆に公平と連絡を取っていないか聞きたいところだが会うと言うのなら、その時でいいと思った。
「どこに行けばいい」
鬼瀬が指定した場所は北新宿4丁目にある中央卸売市場の屋上にある駐車場だった。自宅マンションから歌舞伎町の事務所に向かう途中にある。ここから車で5分もかからない。
急いで車をだして市場に向かう。そして市場の手前の信号待ちで、後ろに停まった車を運転しているのが鬼瀬だと気が付いた。
市場は深夜であっても住宅街の中で厳かに稼働している。2台の車は建物に入って5階の屋上に続くらせん状のスロープを登って行く。
車を停めると2人は同時に車から降りた立った。
鬼瀬は歩み寄って行くといきなり手が先に出てしまう。
しかし鬼瀬の拳は長身の格の顔面にそう簡単には届かない。ただならぬ雰囲気で迫りくる鬼瀬に格は咄嗟に身を引いた、鬼瀬の右フックは格の顎を掠めるのがやっとだった。それでも顎を支点にして頭部を揺さぶられた格はそれだけでガクッと膝から崩れ落ちる。
「なにすんだよ。急に」
顎に手を当て困惑の色を浮かべる格の反応が鬼瀬には白々しく映った。
それを無視して、目を剥いた鬼瀬は格の胸倉を掴んで言う。
「お前、すっとぼけんなよ。公平をどこにやった。まさかもう殺したんじゃねえだろうな」
今度は格が目を剥く番だった。
「何勘違いしてるんだ。俺がそんなことをすると思ってるのかよ」
胸倉を掴む鬼瀬の手を振り払って、格は鬼瀬から離れる。
「なら答えろ。お前いつから竜神会の朝倉と通じてる」
鬼瀬は目を血走らせている。深夜の薄暗い駐車場でもそれがハッキリとわかるほど鬼瀬が距離を詰める。
「俺が朝倉と通じてるって、だれがそんなこと言ってんだ」
今度は至近距離からの拳が格の脇腹に突き刺さる。格の身体がくの字におれた。
「だからすっとぼけてんじゃねえよ。お前のマンションに朝倉が入って行くのを俺がこの目で見てんだよ」
長身の体躯を曲げて脇腹を押さえる格の顔面を狙った鬼瀬のパンチは空を切った。その刹那、鬼瀬の鳩尾に格の拳がガツンとめり込む。これが食後なら胃の中の物を全てリバースしていただろう。初めて食らう格のパンチは信じられないくらい重い。追撃に対して備える余裕がない。腹の中を襲った衝撃に支配された鬼瀬は、殆んど無意識に距離を取った。
いままで何百人と喧嘩してきた。格のパンチはその中でも一番重くて硬い。鬼瀬は不謹慎にも榊のことで怒る自分とは別の部分が、喜びに打ち震えていた。その喜びに勝てない自分を自覚している。
一方、格にとっては朝倉の事などもちろん寝耳に水だった。勘違いも甚だしいとはこのことだ。鎌をかけるにしてもあまりにも性急に過ぎる。言い掛かりもいいところだ。
真相を確かめもせず手加減なしに殴り掛かって来た鬼瀬に切れた格は、追撃の旋風脚を放つ。まだ鳩尾にダメージを残していた鬼瀬は、避けきれずにこれをガードして受け止める。これまた経験したことのない蹴りに鬼瀬は、もんどりうってアスファルトの上を転がって行く。
どんなにやられても頑強な肉体と精神でゾンビのように蘇り、最後には相手を己の力で完膚無きまでに叩きのめしてきた鬼瀬のことを何度も目撃してきた格は、この程度で鬼瀬と言う男が微塵も怯まないことを知っている。
格は追撃の手を緩めない。起き上がろうとする鬼瀬の背中を的にフリーキックを放つ。がそれに合わせたように素早く半身を捻って身体ごと振り向いた鬼瀬は、そこから今まさに蹴りを打とうとして片足立ちになっている格の軸足を地を這うような水平蹴りではらった。今度は格がもんどりを打つ。
したたかに後頭部を打った。激痛と共に背筋がうすら寒くなる。痛みと戦うのは後回しだ。過去に鬼瀬の詰めが甘かった試しはない。格は闇雲に後ろに転がって鬼瀬から距離を取って立ち上がる。
しかし鬼瀬は悠然と構えていた。格が立ち上がるのを待っていたかのようだ。真っ直ぐにこっちを見据えているその目は、いつにも増して挑戦的だ。そろりと片手を上げた鬼瀬が引き金を引くように人差し指を動かした。掛かって来いと言っている。
どうやら鬼瀬との対話は拳から始めないといけないらしい。そう理解した格は1度両肩をだらりと脱力してやる気のないような素振りを見せたかと思うと、次の瞬間全力でダッシュして跳躍し鬼瀬の顔面に目がけて飛び蹴りを放った。
ストリートの殴り合いで飛び蹴りほど無謀なものはない。まず殆んどがまともに当たらない。それでも尚、格が飛び蹴りを慣行したのは、これまで幾度となく鬼瀬の喧嘩を見てきたが、一度でも倒れた相手が起き上がるのを待って掛かって来いなどと言う仕草を見せたことがなかったからだ。これはさっきの蹴りが思いのほか効いているのだと瞬時に見取ったうえでの判断だ。決して無策で飛んだ訳ではない。当たる確信があった。
事実、格の飛び蹴りは鬼瀬の胸辺りを捕らえる。鬼瀬の身体はまるで爆風に晒されたかのように派手に後方へと吹っ飛んで行った。
格は飛んだ勢いでコンクリートの地面に身体を打ち付けながらも、渾身の一撃に荒ぶる呼吸を肩で押さえつけながら鬼瀬の行方を見守る。数メートル先で、津波で生き残った一本の松の木のような鬼瀬の腕が地面にパタリと落ちて動かなくなった。髪の毛がざわざわと逆立ってくる。あの鬼瀬に勝ったのだ。しかも自分の力だけで。そう思うと急に身体の力が抜けて、格はその場で大の字に寝転んで夜空を見上げる。そこには雲ひとつない満天の星空があるはずだが、都心の夜空にそれは望めるはずもない。はずもないのだが格に待っていたのは間切れもない漆黒の暗闇だった。
格が飛んだ瞬間、鬼瀬はそれを躱すのは無理だと判断すると腕を折りたたんでガッチリとガードを固めてそれを受け止める。それでも身長190センチ、体重100キロ越えの大男の飛び蹴りの衝撃は凄まじいものがあった。軽く5メートルは後方に飛ばされる羽目になって、まともに受け止めたことを後悔する。コンクリートの上を引きずられるように転がると額や肘が擦り剝けて血が滲み出し、あちこちと打撲を負ったような鈍痛が残る。並の人間ならこの時点で戦意など喪失していてもおかしくはない。起き上がろうと宙に向かって伸ばした腕が言うことを聞いてくれい。
格の攻撃には肉体が受ける衝撃もさることながら、それ以上に震えるような感動に近い衝撃を覚える。鬼瀬は嬉しくて仕方がなかった。自分をここまで一方的に追い詰めることが出来る人間が、実はこんなにも身近にいたことに。正直言って自分と同等の公平では物足りなさを感じていた。そんな物足りなさを残したまま大人になった。おいそれと喧嘩の出来ない立場になって数年が経った今でも身体は殴り合いを求めて疼いていた。腕が落ちたとは些かも感じていない。喧嘩はそれを渇望する気持ちが枯渇しない限り強くなり続けるものだと信じていた。今ここで格と殴り合ってみてその手応えが改めてそれを証明している。つまるところ喧嘩の強さとは腕力などではなく。全ては相手に負けたくない絶対に勝つという気力を、その場で相手よりも持続させることが出来るかなのだ。それが結果として、体力を消耗した相手には打撃が重く響くようになり、全身を駆け巡るアドレナリンによって相手の打撃に痛みを感じなくなるのだ。
やられれば、やられるほどこの相手に勝つと言う気力が強固になって行く気性の鬼瀬が吹っ飛ばされても、立ち上がったのは当然のことと言えた。満足そうに大の字になっている格に失望すら覚える程だった。
無防備の相手に不意を突くような真似はしたくはなかったが、最早そこまでの余裕はない。
鬼瀬は体操選手が最後のフィニッシュを決める時のように真っ直ぐに格に向かって走った。そして両手を地面に着くと前転をする。ダッシュと回転のスピードが乗った鬼瀬の踵が、仰向けの格の眉間に落ちた。
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