第35話 決意
底なしの空腹にたまらず目を覚ました。
まるで寝た気がしないが窓の外はもう真っ暗になっている。リビングの壁掛け時計を見ると長針と短針が12時のところでピタリと重なり合っている。身体を覆っている厚めの毛布が温かくて肌触りも心地良い。ぼんやりとリビングに広がるオレンジ色の間接照明が目に優しい。
手の届くところにラップに包まれた食べ物が並んでいる。
幾日か前に似たような経験をしたことを思い出して苦笑する。
榊はソファーに座り直して箸を手に取ると、両手を合わせて「いただきます」とつぶやいた。
普段なら1度で食べきれる量ではなかったが、15分もしないうちにあらかた食べ終わってしまう。料理は和洋揃っていてデザートまで用意してあった。くわえて全てケイ子の手料理に違いないが、正直言って味はあまり覚えていない。もちろん不味くはなかったし、例え砂糖と塩を間違えていても完食していただろう。
玄関の方でガチャリと物音がしたかと思うと、リビングの扉を開いたケイ子が「ただいま」と言った。まるでここの住人になったかのような錯覚に陥る。
手には大きめの買い物袋を提げている。
「あぁ、おかえり」と返しつつ内心は、勝手に食事に手を付けてしまったことに引け目を感じる。無作法な男だと思われていないだろうか。
「全部食べたのね」
キッチンの奥で買ってきた食材を冷蔵庫に詰めているケイ子の後姿はカウンター越しで見えないが、榊のそうした気持ちを察しているようでもあった。
榊はカウンターのスツールに腰かける。
「死ぬほど旨かった」
些か品のない、そして馴れ馴れしい表現だったかも知れないとケイ子の反応を窺う。
「口にあったのなら良かったわ」
至って気にも留めていないかのような受け応えに内心でホッとする。
ケイ子は髪をポニーテールにして赤いフレームの眼鏡を掛けていた。振り向いた彼女と顔を見合わせると、なぜかそれだけで心拍数が上がるのを感じる。
急にここ数日の出来事とはかけ離れた嘘のようなこの時間を、何度も繰り返したい衝動にかられる。
一体どうしたんだ俺は。
これから宣言しようとしていた決意が揺らぎそうになる。強く後ろ髪を引かれる榊は一旦仕切り直すつもりでスツールから下りてソファーに戻る。
リビングの明かりを間接照明から蛍光灯に切り替えたケイ子はテーブルの食器を片付けると2人分のコーヒーを用意して榊の向かいに座った。
やはりケイ子はキレイだと思った。
カミオカやジェシカが未来からやってこなければ、決して知り合うことはなかったはずだ。こうして彼女が食事やコーヒーを用意してくれるのは、俺だからではない。例えるなら戦友。束の間の休息で食事を振る舞っているのではなくて、分け与えている感覚。そこに異性に対する感情という文化はない。男であるということさえ意識していないに違いない。これはあくまでそう言うことであって、ケイ子の自然な振る舞いに、勘違いをしてはいけないのだ。
「あの大男から友達を救う方法がわかったんだ」
なぜか彼女の顔を見ないようにして言う。
「あなたの友達に、あの大男を無力化できることを教えてあげればいい。その気になれば自分の身体から追い出すことも出来る。そう言いたいんでしょ」
「知っているのか」
「当たり前じゃない。自分の身体を貸していれば、いずれ気が付くことよ。逆に一度も身体を貸していないあなたがそれに気が付く方が、驚きだわ」
立ち上るコーヒーの湯気が弱々しくなっている。両手で包み込んでいるカップにケイ子はまだ口を付けていない。
「それでも言ってるのよ私は無理だって。……さっきも言ったけど、あいつは12年も前からこの世界にいてずっとカミオカが来るのを待っていたのよ。しかもただ待っていただけじゃないわ。あなたの友達になって観察していたの。だからあなたの考えることなんて何もかもお見通しよ。そうやってお友達を助けに行こうとするところもね……」
ケイ子はコーヒーに口を付けた。
「それでも俺は行く。それにあまり時間がないんだ」
榊は立ち上がって礼を言うとリビングから玄関に向かう。ケイ子が榊の背中を追う。
「あんたって本当に馬鹿ね。どうして私が助けたと思ってんのよ。次は本当に死ぬわよ」
靴を履いた榊はケイ子に向き合う。
「友達を見捨てる訳には行かないからってだけで、勝算もなしに行くわけじゃねぇよ」
「何か策があるって言うの」ケイ子が言った。
「もちろんだ。あの男の度肝を抜いてやるよ」
そう言った榊はドアノブに手を掛けて施錠を解くと、ドアを細く開いて素早く外に出る。そして気持ちを断ち切るかのようにドアを閉じた。ケイ子が何か言ったような気がしたが、気に掛けるのは止めにして、エレベーターに足早に乗り込んだ。
時刻は深夜の2時を過ぎている。電車など走っている時間帯ではない。ケイ子にGSXを借りればよかったと後悔しながら、静まり返る常盤台の街を歩いた。タクシーを拾うしかないようだ。
「カミオカ、ジェシカとゆっくり喋れなくて悪かったな」
〈いや、いいんだ。彼女に説得されてあそこに留まるようだったら、逆に私が焚きつけていたかも知れない〉
「え、何でだよ。ジェシカだって、喋りたかったはずだぜ」
〈今はいいんだ。ところでさっきの度肝を抜くってなんだ。そっちの方が気になる。まさか格好つけて言った訳じゃあるまい〉
川越街道に出て、池袋方面に向かって歩いているとタクシーを拾うことが出来た。行き先は新宿の歌舞伎町と告げる。深夜の2時ともなれば都心でも車の流れはスムーズだ。この分なら30分も掛からないだろう。
「任せとけって。その前に鬼瀬と連絡を取らないと」
榊は八王子で拉致された時点で朝倉に携帯電話を奪われていた。人の番号を覚える習慣はない。従って公衆電話から連絡することも出来ない。鬼瀬と連絡をとるには自宅か事務所に直接出向くしか方法がない。
〈そう言えば、鬼瀬君は朝倉を暗殺すると言っていたな〉
「そうだ。あの口ぶりだとあいつ自分で行くつもりだ。でも朝倉を普通の人間だと思って掛かったら、取り返しのつかないことになる。取り敢えずは狙うのを中止させなきゃならない。間に合えばいいんだが」
〈それが急いで出てきた理由か〉
屋根の潰れた白いベンツが明治通りから歌舞伎町に入って行く。時刻は午前の早い時間帯だったが、車の交通量も行き来する人もそれなりに出ている。
まるで隕石でも落ちたかのようなその白いベンツは、四方全ての窓ガラスも粉々に砕け散っていて、それなりの注目を浴びる。擦れ違う車の運転手は振り返り、歩行者は驚いて指を差すが、それでもベンツが視界から消え去ると人々はそれ以上の興味を忘れてしまう。見渡すだけで刺激に満ちている新宿で、そんなベンツは、七色のアフロ頭で新聞配達をしているオッサンのインパクトの足元にも及ばない。
しかしこの数日間、命令を受けてその白いベンツを待ち構えていた人間にとっては待ちに待った瞬間だった。
ベンツの向かう先には竜神会の事務所がある。
見張っていた男が携帯電話で連絡を入れる。
「奴が、現れた白いベンツだ、ボロボロだからすぐにわかる確認してくれ」
その連絡を受けた別場所で待機している男は、間もなく区役所通りを横切ってすぐの所にある立体駐車場にベンツが駐車されるのを見届けた。
ベンツから降り立った男は、外人レスラーのように大柄だ。身長は190センチを楽に超えている。その大男は、すぐ近くにある竜神会の事務所が入っている雑居ビルに入って行った。
この時、鬼瀬は100メートルも離れていない区役所通り沿いのビジネスホテルで待機していた。
竜神会の事務所をはじめとする朝倉が現れそうな場所を、ここ数日の間若い衆に見張らせ、ずっと待機していたのだ。
「兄貴、現れました。乗ってきたベンツのナンバーも、人相風体も情報と一緒です。あんなの他にいないはずです。朝倉に間違いありません」
「わかった、そのまま見張っていろ。すぐそっちに行く」
本当は、そんな風体の輩が竜神会にはもう一人いる。幸いそのもう1人である長谷川の顔は以前に数回みたことがある。それが長谷川だったら、また待機に戻ればいい話だ。
電話を切った鬼瀬は、懐に拳銃を忍ばせてホテルの部屋を後にした。
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