第30話 ライド

 那智海翔の直観は実際は的を得ていた。

 那智が上野で遭遇した学ラン男の正体は間切れもなく亀山格だ。正確には亀山格の肉体を乗っ取ることに成功した私だ。

 理論上で思い描いていたことを遂に実行した。元に戻れなくなるのではないかという懸念は心配することではなかったと確認できた。更に都合のいいことに私が格の肉体を支配している間、格の意識は睡眠状態が保たれている。

 故意に風邪の症状を引き起こして学校を休ませた上で、格が入眠するタイミングで実行に移したのだが、私は我慢が出来ずに、格の肉体を駆って外出することにする。


 Tシャツの上から学ランに袖を通した時、サテンの裏地が素肌に触れてヒヤリとした。革靴のサイズが左足だけ微妙にキツイことに気付く。外では十二社通りで信号待ちをしているタクシーのラジエーターのファンの騒音が気になって思わず振り向いてしまう。絶えず溜まって行く生唾をゴクリと呑み込んでみる。

 ただ歩いているだけでも五感は常に刺激されているのだと言うことを久々に肉体と繋がった私は改めて思い知る。

 目まぐるしく襲ってくる刺激に具合が悪くなる。これは時差ぼけのようなものだ。それよりも検証しなければならないことが幾つかある。私は気力に鞭を打って、これまでのように血流を操作することができるのか試してみる。しかしこれも取り越し苦労に過ぎなかった。

 私は悪くなった具合の原因を探り当てると血流を操ってこれを難なく回復させてみせる。こうなると次は格と2人で鍛え上げたこの肉体がどこまで強くなったのか試したくなってくる。私は後で妙な噂を立てられて格に不信感を抱かせない為に、なるべく離れた場所でそれを実行することにする。

 それが上野だった。

 相手はすぐに見つけることが出来た。しかし4対1でもウォーミングアップにもならない。

 こうなれば時代錯誤かもしれないが、どこかで道場破り的なことが出来そうなところを探してみようかと半分本気で考えながら家路に就こうとした時、目の前に思いがけない人物が現れる。それが那智海翔だった。

 鼓動が跳ね上がった。格にとっては可愛い後輩にあたる。

 先輩見てましたよ。そんな目をしている。

 だが考えてみればやましいことは何もないのだ。見ていたのなら先輩として当然の振る舞いを見せればいいだけだ。

 ところが那智は、次は俺の相手をしてくれと言うではないか。普段の彼からは想像もつかない物言いだ。こっちが亀山格だと気付いていないのか。もう日は落ちてるとはいえ表情が判別できない程の夜は東京の都心には訪れない。全く不可解なことだが、学校で毎日のように武勇伝を打つ、喧嘩屋の後輩と手合わせすることの方に興味が勝つと、私はその場のノリで那智の要求に応じた。

 結果は最初の4人組に毛が生えた程度でしかなかった。

 格にはもう少し風邪を引いてもらおう。そう考えながら帰路に就いた電車の中で、流れていく街並みを眺めていたら、那智が最後まで亀山格に他人行儀だった訳がわかった。車窓に映る自分の顔が亀山格ではなく、本物の私の顔にソックリになっているのだ。二重目蓋は一重になり、目は細く釣り上がり、肌艶さえも20代後半の実年齢が反映されているように見える。学校の校章を外しておいて正解だった。

 指先で頬の辺りをなぞる。しばらくの間、胸の内でほくそ笑むのを止められなかった。


 私が格の肉体を乗っ取っている間、格の意識は眠っている。その間は顔つきまで変化してしまう為に亀山格とは別人として行動が出来る。私は頻繁にそれを繰り返し、来るべき日の為に肉体を鍛えることに没頭し、肉体の限界値を少しづつ広げていく。更に格の肉体を乗っ取っている間でも、顔つきを格の人相に戻すことまで出来るようになった。いざとなれば私の行動を亀山格の仕業にも出来るようになったのだ。これほど都合のいいことがあるだろうか。ネックがあるとすれば格には絶対に不信感を持たせてはいけないことだ。全ては格と良好な関係の上に成り立っている。これがひと度、格にとって疎ましい存在になってしまったら私は無力化されてしまう恐れがある。そうなってしまっては私の使命が果たせなくなってしまう。今のところ私が肉体を乗っ取っていることなど格は夢にも思っていない。肉体のビルドアップは自分自身の鍛錬の賜物だと格は信じている。


 やはり、昼間はどこであっても格の知り合いに出会う可能性がある。人相が違っていても、いつどこでボロが出るかわからない。私は格の肉体を乗っ取って活動する時間帯を夜中に限定した。

 夜中の新宿で活動している人間は、どこもかしこも昼間のそれとはソックリ入れ代っている。タクシーの運転手でさえもそうだ。夜中であれば、いちいち人目を気にして上野などに遠出する必要はない。昼間と比べれば人口密度は格段に落ちるが私にとっては用のある人種ばかりが夜中に残っていた。

 最初に出くわした人種は、西新宿を根城にする少年たちで構成された暴走族だった。人通りの絶えた、十二社通りを国道20号に向かって歩いていると前方から、かつて聴いたことのない爆音を轟かせた単車が道幅一杯に蛇行運転をして私の目の前を通過し始めた。

 先頭の白い特攻服を着た男が駆る単車以外は、全員黒い特攻服で2人乗り、あるいは3人乗り。あまりの爆音に何10台も続いて来るのかと思いきや実際は8台しか走っていなかった。

 立ち止まって歩道から眺めていた私は単車に乗っていた何人かと視線が合う。群れていなければ何も出来ない連中だと決めつけて侮蔑する冷たい視線を投げつけた。何人かは通り過ぎて行っても振り返って私を睨みつけている。そして暴走族は西新宿の住宅街の中に消えて行った。

 しばらくすると、単車を降りた何人かが駆けてくるのがわかった。

「おい、そこのお前、ちょっと待てよ」

 案の定、思った通りだ。私はゆっくりと振り返える。そこには黒い特攻服を着た2人の少年が立っていた。特攻服には喧嘩上等だの何だのと、あちこちに刺繍が入っている。足元を見ると編み上げの黒いブーツを履いている。彼らにとってはこれが正装なのだろう。単車に乗っていれば様になっているが、徒歩でこの格好は頂けない。時刻は午前2時を過ぎている。警察官がこの絵面を目撃したら見過ごすことはないだろうと思われる。

 私は面倒くさい罵り合いを省いて「仲間の所に連れて行け」と言った。

 2人は面喰ったようだが、すぐに元の硬い表情に戻って「こいっ」と言って私を促すと歩き出した。1人は私の後ろに回り込んで付いて来る。

 私は気が付いていた。この2人がかつて新宿西中学を締めていた東崎と板倉だと言うことを。この2人は今、明らかに使い走りをしている。確か東崎の父親は暴力団の組長だと聞いたことがある。暴走族の世界では親の七光は通用しないのか……。

 実力至上主義と言うことなら少しは骨のある人間がいるかも知れない。前を歩く東崎の背中には「新宿 CHAOSカオス」と刺繍が施されている。この男とはまだ縁があるらしい。

 私が連れて行かれたのは住宅街の中にある小さな公園だった。東崎と同じ格好の少年が20人弱はいる。その中で1人白い特攻服を着た少年だけがベンチに座っていた。

「長谷川さん。連れてきました。」

 東崎がそう告げると長谷川と呼ばれた白い特攻服の少年はベンチから立ち上がった。身長180センチ、体重100キロ強の東崎が小さく見える。今や格の肉体も180センチ、体重90キロはあるが長谷川の身体はそれよりもまだひと回りは大きい。その長谷川が言った。

「お前どこの誰だ。俺に喧嘩売りにきたのか、いい度胸してんじゃねえか」

 不敵な笑みを浮かべながらも長谷川の語気に底知れぬ凄みが増して行くのを周囲は敏感に感じ取り、長谷川から離れていく。

「申し訳なかった」何のてらいもなく言い放った私の、このセリフに一瞬静寂が下りる。

「長谷川さん、こいつビビってるみたいですね」と側近らしき男が声をかけたが、私は構わずに続ける。

「さっきは、お前たちのような人間は群れてないと何も出来ない連中だと思っていたんだ……」私が言い終わらないうちに長谷川の拳が私の顎に下からさく裂した。その一撃で身体を浮かせて私はその場にもんどりうってひっくり返った。

 完全に油断していた。危うく舌を噛み切りそうになった。顎の根元から激痛が走り喋れなくなる。身体を起こそうとしただけで更に激痛に襲われる。顎に損傷を負ったが、怪我は後からどうにでもなる。今は構っている余地はなさそうだ。

 私は痛みの神経を断ち切ると、素早く立ち上がって斜に構える。周囲が動揺を示す。

「こいつ、長谷川さんのアッパーを喰らって平然としてやがるぜ」

「いや、立ち上がるのがやっとのはずだ」

 狭い公園内を照らす2つの電灯はひとつが切れている。薄暗いがそれでも白い特攻服に身を包んだ長谷川の姿は目立つ、見失うことはないが怪我の影響か若干視界が滲んでいる。

 不意にビル風に煽られたような風圧を感じた刹那、私は反射的にシャイニングドライブを発動した。格との遣り取りで、便宜を図るために脳の処理速度を上げ、それに伴って身体機能を向上させる合わせ技をシャイニングドライブと名付けている。

 私は右側頭部に迫っていた長谷川のハイキックに戦慄したが、それを潜り抜け空振りして背中を晒す長谷川の後頭部に逆にハイキックをお見舞いした。十分に狙いすまして放った一撃だったが、自分より上背のある相手にハイキックは致命傷とはなり得ない。長谷川はバランスを崩すこともなく、まるで虫に刺されたかのように後頭部に手を当てているが精神的には衝撃があったようだ。目を丸くしている。きっと何があったのかさえ判然としていないだろう。

「俺の蹴りを躱したのも、俺に蹴りを入れたのもお前が初めてだ」

 長谷川は軽く握った両拳をゆっくりと胸の高さに上げると右足を引いた構えを取る。切れ上がった細い眼孔の奥にある目が私を見据えている。口元には僅かに笑みが浮かぶ。それは強すぎるが故に滅多にお目に掛かれない強い相手に対峙した時の喜びの表れに違いない。

 私の口元にも同種の笑みが自然と浮く。

「俺が勝ったら、新宿カオスは俺のものだ」

 場を繋ごうとして言ったセリフに過ぎなかったが私自身、妙に納得をしてしまう。

「お前、本気で言ってんのか。やれるもんならやってみろ」

 激高した長谷川が先に打ってきた。


 長谷川がどんなに先に動いたとしてもシャイニングドライブを駆使した私の攻撃はカウンターとなって先にヒットする。もちろん長谷川の攻撃は掠りもしない。ストレートにはクロスを被せ、フックにはアッパーを突き上げる。蹴りには軸足の方を狙う。最後には掴みかかってきたその手を逆に捕えて後ろ手にねじり上げた。

 振り返って、固唾のんで見守る他の者たちに言う。

「このまま全員掛かって来い」

「舐めやがって、やっちまえお前ら」

 私はねじり上げている長谷川の右腕を限界を超えてねじり上げた。

「ぐぁぁぁ」たまらず上げた呻き声が合図のようになって、それまで見守っていた周囲の兵隊が一斉に私に襲い掛かかってきた。

 何の統率もなく無秩序に我先にと襲い掛かってきた集団の標的は長谷川の横から消え去る。次の瞬間、集団の後方にいた者の呻き声が上がる。

「後ろだ」

 振り返って、そこにいる私の姿を捕らえた集団は、再び殺到する。しかしまたしても標的は目前で姿を消す。そしてまた一番後方の者が襲われる。

「お前ら1人相手に振り回されてんじゃねえ」

 長谷川の怒号が飛ぶ中で、幾度もそれは繰り返され、やがて半数の者が地面に突っ伏しているような状態になった。いずれも戦闘不能で苦悶の表情を浮かべている。

 新宿カオスは俺のものだ。と宣言したことについて私は段々と本気に考え始めていた。長谷川の意のままに動く兵隊を見ていて自分にもそれが必要だと感じていた。

 不意に自転車の急ブレーキが鳴り響いた。

「コラッお前たち何やってんだ」

 制服を着た警察官が血相を欠いて叫んでいる。騒ぎを聞きつけた近隣の住民が通報したに違いない。気が付けば遠くからサイレンの音も近づいてるく。

 公園は袋小路だ、逃げ場はない。場の空気が一変する。さっきまであれほど殺気立っていた連中が肩の力を抜いて制服警官に歩み寄る。どうやらこの手の場面に慣れている様子だ。

「お巡りさん、すいませんね通報でもありましたか。ちょっとした内輪もめなんですよ」

「なにが内輪もめだ。そこに倒れてる奴は苦しんでるじゃないか」

 苦悶の表情を浮かべている1人を差した警察官が狭い公園内で他に倒れている兵隊が1人や2人じゃないことに気付いて、顔色が変わって行く。

「もう終わりましたんで、間もなく解散します」

 言葉を失った警察官に構わず少年たちはその場をやり過ごそうとするが警察官が聞く耳を持つはずがない。腰の無線機を握ると救急車の要請をし始める。そうこうしているうちに応援にやって来たパトカーが次々に到着してくる。いつの間にか近所の住宅の窓は明かりがともり、公園を塞ぐように野次馬が集まり出していた。全員補導する。辺りが騒然とする中でその言葉だけは少年たちの耳に届いた。

 私はまだ公園内にいる。まだ無傷の者に話しかける。

「お前ら囮になれ、俺は長谷川を連れてここから逃げる」

 こんな時の不良少年の団結と機転は連携が取れている。彼らは集まる警察官の注目を引くように高圧的な態度で、一層騒ぎ立てはじめた。











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