第29話 武勇伝
俺の名前は那智海翔。この春、新宿西中学に入りたての一年生だ。
最初に言っておく、俺は喧嘩が強い。1年はもう締めた。どいつもこいつも恰好ばかりで情けないほどレベルが低い。今の3年生がこの辺りの中学や高校を従えていることを思うと1年のこの体たらくには先が思いやられる。
俺の日課は、放課後一人で新宿に出て強そうな野郎を見つけて喧嘩をすることだ。1日一番。喧嘩が強くなるにはこの方法が1番いい。そう教えてくれたのは、何を隠そうこの中学の頂点に君臨する榊先輩と鬼瀬先輩だ。この2人は小学生の頃から新宿のストリートで喧嘩をしていたらしい。2人の名前はこの界隈に轟いていて、俺にとっても小学校の時からの憧れだ。この2人に会いたくてこの学校に入ったと言ってもいい。だから俺は入学初日から体育館裏に挨拶に行ったんだ。誰から体育館裏に先輩方がいるのを聞いたかって。そんなもん不良のたまり場って言ったら便所か屋上か体育館裏しかないっしょ。
「お前見どころあんじゃねえか」って言ってくれたのは榊先輩だ。他の先輩方は俺の背が小さすぎるとか言ってくれたけど、かつてこの学校に君臨していた歌舞伎町の東崎組の実子を、1年の時にフルボッコにした亀山先輩も当時は今の俺より小さかったらしい。えっ亀山先輩が誰かって、お前知らねえのかよ。この学校の神だよ神。あまり表に出てこねえから名前は売れてないけど、その強さときたら榊先輩や鬼瀬先輩でさえも敵わないそうだ。その亀山先輩、今じゃ学年で一番背がでかい。喧嘩と背のでかさの二冠だ。最初に見た時はスカイツリーじゃねえかと思ったくらいだ。
あっ日課と言ったらもうひとつある。毎日、体育館裏に行って先輩たちに昨日の喧嘩の報告をすること。他の先輩らには、また武勇伝が始まったとか言われてるけど俺的には、体育館裏に行くのが目的だから話なんてどうでもいいんだけどな。だからって嘘は吐いてねえぞ。負けはまだ一度もねえしよ。
それに亀山先輩から、いつも俺の話を聞くのを楽しみにしてるって言われたこともある。神にそんな感想を賜ったら、もうさぼる訳に行かないだろ。
だから今日も俺はいつものように体育館裏で先輩方が車座になってしゃがんでいる前で昨日の自分の暴れっぷりを話して聞かせる。
「昨日の奴は、危なかったっすよ。歌舞伎町のゲーセンでメンチ切ったまではよかったんすけど、そいつ立ち上がったら見上げるほどでかいんすよ」
俺の武勇伝は決まって不利な状況演出で始まるのが常だと言う批判もあるみたいだけど、これは事実だからしょうがない。
「だからってまさか逃げ出したわけじゃねえだろうな」と津橋先輩が横槍を入れる。
「まさかこっちから吹っ掛けといて逃げるわけないじゃないですか、裏に連れて行って勝負してやりましたよ」
喧嘩において相手が飛びぬけて小さいとそれだけで勝った気になる奴が実に多い。俺は身長が151センチだから、それがよくわかる。殴り合いが始まる前から口が笑っている野郎は、決まって俺のことを力で捻じ伏せようと掴み掛かってくる。俺にしてみれば隙だらけもいいところだ。俺は難なく相手の腕を取ると素早く懐に潜り込み1本背負いを決めて、その勢いのままマウントポジションを奪う。近頃はその流れも洗礼されて、両膝でガッチリと両腕も押さえつけるようにマウント出来るようになった。あとは無防備の顔面に拳の雨を降らせるだけ。これが俺の必勝パターンのひとつ。
「これでストリート20連勝ですよ」
多分、今の俺は完全にドヤ顔になってるよな。
「だけどよ那智、お前もしかして自分より弱い相手を無意識に選んでるってことはねえか、それでなくともこの界隈じゃ榊と鬼瀬の名前は売れてるんだぜ、うちの学校の校章を見ただけで怯んだ奴も結構いたんじゃねえのか」
榊先輩や鬼瀬先輩と違って他の3年生は、俺の存在を単に生意気な後輩としか見ようとしていない。じゃなきゃこんなこと言いださないでしょ普通。きっと俺の活躍があまりにも目立ち過ぎるんでパラジ先輩も威厳を示すつもりでそう言ったに決まっている。
なのに、おいおい皆さん、どうしたんですか、そんなに納得しちゃったような顔して。
でも確かに舐めて掛かってくる相手の隙を付くという戦法があまりにも通用してしまうばかりに、もしかしたら自分よりもずっと体格の大きな相手を無意識に選んでいるのかも。しかも狙う相手は決まって学生服だ。相手が校章を意識していたとしても不思議ではない。それでも神に誓って自分より弱い相手を探そうと思ったことはない。俺は1匹狼なんだぞ。
不意に、狼だからこそ弱い相手を探すのが得意なんじゃないかという考えに支配される。
「何言ってんだよ那智は1人で行ってるんだぜ、それだけでもたいしたもんじゃねぇか」
榊先輩、フォローを入れてくれるのは嬉しいんですけど、それってパラジ先輩の言うこと否定してないです。そんな気の使われかたをしたら益々打ちのめされるじゃないですか。俺、今日はもう帰ります。
「あれっ走って行っちゃったよ」
「どうしたんだ。あいつ」
「パラジの言ったことが、結構効いたんじゃね。こりゃ今日のあいつの相手は可愛そうなことになるぜ」
「そう言えば、今日、格が学校に来てねえな」
学校を飛び出した俺は、JR新宿駅に向かって走った。今日は指向を変えて上野に行くことにする。上野ならパラジ先輩のいう校章の威光が及ぶことはないはずだ。本当なら学ランを脱げば済むことだが、敢えてそうしないのは新宿西中学の那智という名前を売るつもりだったからだ。
パラジ先輩や津橋先輩が喧嘩に弱くないのは知っているけど、彼らには負けたくない。榊先輩や鬼瀬先輩の名が轟いていない地域で、新宿西中の那智の名前を売りたかった。もう相手は選ばない。誰であろうと不良っぽいのに出くわしたら片っ端から喧嘩を売るつもりだ。
山ノ手線で上野に着くと、駅前から続いているアメ横商店街に行ってみる。新宿の繁華街とは明らかに雰囲気の違う混雑した人の波がどこまでも続いている。駅前の繁華街で魚屋が軒を並べていることに少々面喰らった。若者向けの店がない訳ではないが鞄屋と化粧品屋が安物を叩き売りしているのがやけに目につく。行き交う人も化粧気もない普段着のオバさんがやたらと多い。つまるところここは、家の近所の商店街の拡大バージョンなのだ。ゆとりなく
完全に来るところを間違えた。そう思って踵を返そうとした時だった。魚屋のオヤジの耳をつんざく濁声の向こうに学生服を着た若者の群がりを発見した。
「なんや、おるやんけ」
俺は肩を怒らせてツカツカとその群がりに向かって行った。
店先には、極端に裾の短い学ランが沢山吊ってある。不良ファッション御用達の店らしい。よく見れば店に群がっている連中も、ひと癖以上ありそうな顔ばっかりだ。こういう店で喧嘩はご法度だと聞いたことがあるけど、店でなければいいのだ。喧嘩相手を探すのにこれほど都合のいい場所はないだろう。店先の頭上にはマンモズという看板が掲げてある。鉱脈を発見した気分で俺は嬉しくなった。
よく見るとマンモズの店先で何人かの学生が睨み合ってる。こりゃ喧嘩になるぞ。見たところ4対1だ。4人組の方は全員紺のブレザーで、1人の方は学ランで背がでかい。まるでスカイツリーだ。俺は目を見開いた。こっちに背を向けているけど髪型といい背格好といいあの人は亀山先輩じゃないのか。
間違いないこんなところで、しかもひとりでなにやってんだ。俺はクロールで前に進む、しかしこの混雑だ思うように進めない。するとマンモズの奥から頭を禿散らかしたオヤジが飛び出してきた。
「おらっ小僧ども、ここで喧嘩するんじゃねえ。不忍池にでも行ってやれや」
お構いなしの、かなり大きな怒声だったが断続的に辺りを支配している魚屋のオヤジのリズミカルな濁声に呑み込まれる。行き交うババアどもは気にも留めない。
紺ブレの1人が顎をシャクルと全員が駅方向に向かって歩き出した。その時こっちに背を向けていた長身の学ランが振り返って歩き出した。マンモズのオヤジの言うように場所を変えるようだ。俺はまたもや目を見開く。長身の学ランは亀山先輩ではなかった。全く違う。顔以外は全て、パーツ取り出来そうなほど一緒なのに。
5人は俺の前を通り過ぎて行った。擦れ違う刹那、学ランの襟元を注視する。校章は付いていない。俺は5人の後について行った。
5人は中央通りを渡って、不忍通りから不忍池の敷地内に入って行った。辺りはもう暗くなり始めている。アメ横商店街の人通りに比べたらこっちの人通りは格段に少ないけど、池にはまだボートが出ている。こんなところでおっぱじめたらすぐに通報されるんじゃないか。俺は不忍通りから公園内に入って行った5人を観察しつつ辺りを警戒する。思ったより目立ちそうもないことに安堵する。勝った方に喧嘩を売るつもりだったからだ。5人が視界から消えつつあった。俺も敷地内に足を踏み入れる。が姿が3人しか見えない。目を凝らしてよく見ると、2人は既に倒れているではないか。もう始まっている。そこへ紺ブレの1人が飛び掛かったが出鼻にパンチを喰らうと両手で顔を押さえてたたらを踏んだ。押さえた指の隙間から赤い液体が流れ出している。残ったひとりにもう戦意はない。やがて4人組はジリジリと後退り、距離が出来ると一斉に振り返って走り去って行った。残された学ラン男は何事もなかったように引き返してくる。
俺は陰から飛び出して学ラン男の前に立ちはだかった。学ラン男は息も切らせていない。学ラン男はこっちに気付いて立ち止まる。
「今の見てたぜ。あんた強いな。次は俺の相手になってくれよ」
学ラン男は一瞬困惑したかのよな表情を見せたが、すぐに目の据わりを取り戻し、ほんの少し笑ったように見えた。
俺と学ラン男は池のほとりで対峙した。学ラン男は何も喋ろうとしない。名乗るのは勝った後でいい。だけどその機会が訪れることはなかった。
俺のパンチや蹴りは掠りもしない。ならばとタックルをかましてようやく懐に飛び込んで投げを打とうにも、まるで電信柱のようにビクともしない。逆にボディスラムを喰らう。素早く立ち上がったが、今度は死角から重いボディを叩き込まれた。たまらず四つん這いになって地面に腹の中の物をぶちまけた。最後には襟首と腰を掴まれて信じられない力で池に放り込まれた。
しこたま池の水を呑み込んで、ようやく這い上がると学ラン男の姿はもう消えていた。
俺の遠征は初っ端から黒星が付くことになった。
次の日、那智は悔しがったが昨日の負けを体育館裏で正直に打ち明けた。
「そいつの校章は見なかったのかよ」と鬼瀬が言った。
「それが付いてなかったんですよ」
「じゃあ中学生か高校生かもわからなねえってことか」と榊が言う。
「いや中学生なことは確かです。ボタンが中の字でしたから、アッうちのにそっくりだ」那智が自分の学ランのボタンを凝視しながら言った。
負けたという割には、目立つ外傷もないし本人は至って元気そうに見えるので、この場の雰囲気がいまいち切迫したものにならない。
「中学生ってことか、でもマンモズって言ったら有名な店だからな都内のどこの学校でも不思議じゃねえぞ」
「しかも亀山先輩にソックリだったんすよ。顔以外なんですけどね」
学ラン男がどこの誰かわからなければ仇の打ちようもない。榊も鬼瀬も那智の言葉に笑うしかなかった。自分にソックリだと言われた格は、何と言っていいかわからない始末だった。
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