第25話 武藤
「肋骨が折れたかも知れねえ」と東崎は言いたかった。しかし東崎の声帯は、脇腹に何本も鋭い針を刺されたかのような痛みによって、その用意していたセリフを発声することが出来ず、口だけが、撒かれた餌に群がる鯉のようにパクパクと動かすだけになる。苦痛に満ちた表情は最早、演技ではなく、東崎の肋骨は本当に折れていたのだ。
「お前だけは絶対に許さねえ、お前の妹もさらって一緒にブッ殺してやる」これは些かやり過ぎたかもしれないと思う。東崎の口パクに合わせて、リュウが生成した東崎の合成音声を格に聞かせたのだ。
その効果はてき面だった。格の、他人よりはよほど長い怒りの導火線が一気に燃え尽きて、脳裡にデパートでキャリーバックに詰められた みどり の姿が甦る。
格は、苦痛の呻き声を上げる東崎の襟首を掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「救急車を呼べ」とようやく絞り出した東崎の本物の訴えは、たった今妹もぶっ殺すと宣言された格の怒りに拍車をかける。
もうリュウが力を貸すまでもなかった。格は怒りの拳を東崎の脇腹に叩き込んだ。もし肋骨が折れていなければリュウの力を借りていない格の軽い拳に東崎は違和感を覚えていたことだろう。更に東崎の両肩を掴んで膝も突き上げる。あまりの激痛に卒倒しそうになった東崎は腰を再び落とした。それでも格が容赦なく脇腹を目掛けて蹴り上げようとする。それを避けようと後ずさった東崎は背後を見誤って階段から転げ落ちた。1階の廊下を歩いていた女生徒たちが、落ちてきた東崎にぶつかりかけて悲鳴を上げる。そこへ追いかけてきた格が東崎に飛び掛かり、馬乗りになって顔面を殴りつけた。格はリュウの静止にも耳を貸さず殴り続けることを止めなかった。
騒ぎを聞きつけた榊が現場に駆け付けると、我が目を疑う光景がそこにあった。
「格っ、と お る これ以上やったら本当に死んじまうぞ」
背中から両腕を回した榊に引き剥がされてもまだ格は、自我を喪失していた。東崎は顔面血塗れで、とうに白目を向いて伸びている。
もうすぐ教師が駆けつけてくる。出来るなら格だけでも逃がしてやりたいが目撃者は腐るほどいる。野次馬がどんどん増えてきて、どの道もう逃げられない。焦燥と諦めの渦中で榊は、武者震いがするのを抑えられないでいた。
東崎は肋骨の骨折に加えて、頬骨を陥没骨折し全治1か月以上の重傷を負った。幸い警察沙汰にはならなかったが暴力団組織の組長を父親にもつ東崎側との示談交渉や治療費の請求等がどうなるか懸念された。しかしそれについても何の要求もされることはなかった。
「それでもうちの親がさ、治療費を払うって病院に見舞いに行ったんだけど、向こうが頑として受け取らないんだって。菓子折りも受けっとたら示談したことになるって突き返されたし」と格が言った。
事件から一週間が経って登校して来た格は榊のグループがたむろする校舎の屋上に顔を出していた。
「東崎側がそう言ってんなら、3年の報復はねえんじゃねえか」格の話を聞いた鬼瀬が榊に尋ねる。
「暴力団なのに意外とフェアなんだな、だけど示談をする気がないってことは、まだ負けを認めたわけじゃねえってことだろ、怪我が治ったら勝つまで帰ってくんな的なことを言われんじゃねえのか。だけど、それと3年の連中が報復に来るのは別の話だろ」
1年生の亀山格が3年生の東崎を病院送りにした。この事実は東崎の傍にいた2人が言い触らしたため今も学校中で話題になっている。
尾ひれ背びれの付いた噂話は、誘拐未遂事件の時と同じように、格の怪物扱いに始まり、あることないこと言われるまではよかったが、面子をつぶされた3年生が格を含めた1年生グループに報復を始めるのではないかという話にまで発展し、それがいつ始まるのかが話題の中心になっていた。教師までもがそれを真に受けて、榊たちにしばらく登校してこなくていいと勧告しする始末だ。
「みんな、こんなことになってゴメン」
格は両手の拳に巻いている包帯をいじりながら言った。
「それ折れてるのか」
鬼瀬が格の拳を指し示すように顎をシャクる。
「折れたのは右だけ。左は打撲。でもどっちも同じくらい痛いよ」
東崎と同じく格も全治1カ月以上の怪我を負っていた。
「気にするなよ格」榊が格の拳を労わるように見つめると、肩に手を置いて言葉をつづける。「3年の奴らが報復に来るってんなら、むしろ大歓迎だ。わざわざ退屈しのぎに歌舞伎町まで出掛けなくても済むってもんだ」
「その通り、だから俺たち先コーの言うことを無視して学校に来てんじゃねえか」
榊グループの1人、津橋健太が言った。格はこの津橋が喧嘩で劣勢に立ったのを見たことがない。決して強がりに聞こえないのが頼もしい。
屋上の扉が派手な音を立てて開くと男が1人、姿を現した。
「10人もいねえのに、相変わらず生意気な連中だな」
それに続いて男の後ろに1人、2人と仲間が増えていき、あっという間に黒山の人だかりになる。
格は目を瞠った。あの時とは大分変っているが、忘れもしない体育館裏で自分にチョーパンを喰わせた2年生のあいつだ。背が伸びて日焼けした浅黒い肌に長めの髪をゴムでまとめた束が頭頂でパイナップルのようになっているが可愛らしいところはひとつもない。切れ長の釣り上がった目付きだけは春先と同じだ。こいつが関東の広域組織の幹部を親に持つ武藤大作だということは、格を含めたこの場の全員が知っている。3年が卒業した後、この学校の番は武藤が張ると言うことは、学校中の不良どもの共通認識でもある。
その武藤が2年の不良グループを引き連れ、榊たちのグループの3倍に達する人数で対峙した。
「何だ、テメーら」
津橋が、榊たちの静止を無視して、武藤に突っ掛かって行こうとする。慌てて他の2年が武藤には触れさせないとばかりに津橋に群がる。榊と鬼瀬も津橋を止めに入って何人かが入り乱れた。
「やめろ、おまえら」武藤の荒げた声にその場の全員が静止した。
「俺が先輩を呼んだんだ」続いて榊がそう言うと入り乱れていた1年と2年は距離を取った。話を聞かされていなかった鬼瀬が榊に詰め寄って行って小声で話しかける。
「2年とつるむんじゃねえだろうな、俺はゴメンだぞ」
「わかってる」榊はそう言うと武藤に対峙する。
「話ってなんだ」武藤が言った。
「俺たち1年はもうすぐ3年と戦争になるかもしれねえ。その時あんたら2年がどっちに付くのかハッキリしてもらいたい」
「相変わらず口の利き方を知らねえ奴だな。その態度に気分を害して3年に付くって言ったらどうする。俺たちは今ここで、やってもいいんだぞ」
「3年に付くのは構わないが、奴らはもう半年もすれば卒業してこの学校からいなくなる。仮に今ここで俺たち全員があんたらにやられて病院送りにされたとしても、俺たちは何度でも復活してあんたらに挑み続ける。長い戦争になることは確かだ。そこんとこよく考えろよ」
鬼瀬と津橋が榊の両脇に並び立ち、それが1年の総意だと無言で表明している。
「バカヤロー、1年坊主のクソガキに言われなくても、そんなことはわかってんだよ。今回のことはお前らと3年の問題だ。俺たちはどっちの加勢もしねえ」
武藤の言葉にこの場の緊張感が僅かに解けた。
「だけど俺はそれが言いたくてここに来たんじゃねえ」
武藤の視線が格を捕らえる。
「あの東崎先輩が、他に2人も連れてたって言うのに」武藤が格に指をさす。「お前1人にやられたってのが、どうにも納得がいかねえ、噂じゃタイマンだって話だが本当は3対1で東崎先輩の不意打ちだったって話じゃねえか」
格は武藤が何を言いたいのかよく分かっていた。
誘拐未遂事件でビデオに撮られた格と、体育館裏に呼び出した時の格がとても同一人物だとは思えなかったように、今回も噂の真相と自分が蹴り飛ばした1年生とが結びつかないのだ。
「こいつとタイマンを張らせろ」
場の空気が再度、緊張感を増す。格は無意識に握り締めた拳に亀裂めいた痛みが走り眉間に皺を寄せた。
榊が割って入る。
「格は見ての通り怪我人だ。どうしても今やりてえんなら俺が相手になるぜ」
榊が学ランのボタンに手を掛けながら言った。
「俺が今、お前をブチのめしたら3年側に付いたみたいになるだろ。今日はやるつもりはねえ」武藤は腰履きのズボンに両手を突っ込んだ。
「亀山お前、手が治ったら、面出せ」武藤はそう言って踵を返すと「お前ら行くぞ」と仲間に告げて屋上から出って行った。
終始一歩も引かなかった榊たちだったが、屋上が1年生だけになると誰もがホッと溜息を吐いた。榊に至っては尻餅まで着いてしまう。
「公平、自分で呼び出したくせに、ビビってたんじゃねえだろうな」
津橋がチャチャを入れる。
「バカヤロウ、武藤の野郎があんなに人を連れて来るとは思わなかったんだよ。俺がどんだけ神経をすり減らしたと思ってんだよ」
「それにしても格は、人気者になったな。次は2年のボスキャラだぜ」
そう言って津橋から向けられた笑顔に格は嬉しくなった。
「怪我さえ治れば、何とかなると思うよ」
「マジかよ、格が覚醒した。これで武藤をブッ飛ばしたら、この学校で俺たち1年が最強ってことじゃねえか」
パラジというまだあだ名しか知らないグループの1人がはしゃいでみせた。どうやら東崎を病院送りにした効果はそれなりにあったようだ。いつの間にかグループのみんなが気軽に格と呼ぶようになっている。
「俺たち1年が最強っていうよりも格が最強ってことだろ」
「まぁそりゃそうだけどよ。でも俺たち仲間だからな」仲間という言葉の響きも心地良がいい。
「まてよ。そしたら俺たち1年で誰が1番強いか最強トーナメントやろうぜ」
「馬鹿かお前、1番弱いくせに何言ってんだ」
「そんなことより3年の報復に対抗するほうが先だろ、お前ら危機感てもんがねえのか」榊がうんざりしたような口調で言うが顔は笑っている。
「なんか腹へらねえか……」
午後の日差しは、いつの間にか西日へと変わり、屋上をオレンジ色の光で照らし始めていた。格はだらだたと続いて行くたわいもない言葉遊びに混ざりつつ、間もなく誰かが言い出すであろう「帰ろうぜ」の言葉を聞くまで、屋上から見える山の稜線の向こうに陰り行く太陽から目を離さないと決意していた。それがこの仲間たちを絶対に裏切らないという誓いの証のつもりだった。
その晩のことだった。榊から格の家に電話が入る。
「津橋が3年にやられて病院に運ばれた」
榊の声は怒りに震えている。遂に3年の報復が始まったのだ。
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