第19話 事件

「格、そろそろ起きて、出掛ける支度をしなさい」

 今日は家族で新宿の伊勢丹に出掛けて、僕の学生服を買いに行く日だ。母さんが朝から張り切るのと同じくらい、僕もワクワクして昨日はなかなか寝付けなかった。そのお陰で今日は少し寝坊気味なんだけどね。

「あら起きてるじゃない。じゃあ後は、お父さんだけね」

 やけに慌ただしい母さんは、続いて父さんを起こしに行く。日曜日の午前9時。1階のリビングに下りると みどり は既にお出掛け用の洋服を着てテレビを見ていた。色は少し地味な感じだけど、あれはこないだ母さんとお揃いで買ったバーバリーのワンピースというやつだ。母さんは娘のオシャレにも余念がない。そう言えば母さんはもう化粧を済ませていた気がする。昼食は伊勢丹のレストラン街で予約をすると言っていた。ダイニングテーブルはピカピカに輝いてる。どうやら若干寝坊気味の男どもに朝食の用意はないらしい。洗面所で顔を洗った後、冷蔵庫から牛乳をだしてグラスに注いでいると、ようやく父さんが2階から下りて来て、俺にも、という体で新しいグラスを出した。父さんはそれを一気飲みして洗面所に向かう。

「お父さん早くしてね。格も みどり もお父さんが準備出来たらすぐに出掛けるからトイレに行っときなさいよ」

「もういつでも出れるよな」

 呟くように言うと、みどり が横で頷いだ。

〈格君、差し出がましいようだが、一言いいかな〉

『どうしたのリュウさん』

〈みどりちゃんの服装がちょっと地味じゃないか。いやお母さんのファッションセンスが悪いと言っている訳じゃないんだ。出掛ける先に問題がある。日曜日の繁華街だ。迷子にでもなったら見付けにくい色合いじゃないか」

 意外な助言に少し戸惑いを覚えるが一理あるような気もする。ましてや自分のことで出掛けるのだ。

「母さん」格はリュウの意見をそのまま母親に言って聞かせた、すると父親もそれに賛同し みどり の恰好は急遽、緑を基調としたワンピースに変更になった。袖や襟足の鮮やかな赤色が引き立っているのは、確かに可愛いと思うけど、どこかカエルを連想してしまうのは僕だけだろうか。

「まさか格がそんなことに気が回るとは思わなかったよ。さすがお兄ちゃんだな」

 車のハンドルを握る父さんが言った。リュウさんのアドバイスだよ、とは言えない。格は褒められたことを素直に喜べるはずもなく「テレビでやってたんだよ」と答えた。

〈格君、遠慮することなんかない。堂々と自分の意見だと言っても差し障りはないんだ。格君の頭の良さがどれほどのものか、格君の心にいる私が誰よりもよくわかっている。そして私は、格君の本来の能力が導き出せるはずの答えしか言わないつもりだ。例えば私の助言だけで東大に合格しても意味がないだろう。ただし、私の調査の協力で忙しくなって、格君の本来の立場が疎かになる分は、私が責任をもって守らなければいけないと思っている。だから私の言うことは、自分の言葉だと思って答えていいんだ。わかったね〉


 伊勢丹に着くと早めの昼食をレストラン街で済ませ、学生服売り場がある階に下りて行った。世の中うちの母さんと同じ考えの人は沢山いるようだ。売り場は、似たような家族連れでごった返していて、僕は少し近寄り難いものを感じる。

「結構な賑わいだな」

 父さんは、そんなことを言って二の足を踏んだが、母さんは違う。

「何よこれくらい。たいしたことないわ」

 と言い残して、果敢に群れの中に分け入って行く。母さんに手を引かれるのはいつ以来だろう。みどり と手を繋いだ父さんがあっという間に見えなくなった。

 この混雑の中で、母さんは易々と店員を捕まえて試着室をひとつ占領し、僕は次々と学生服を押し付けられ何度もカーテンを開け閉めすることを強いられる。僕の母さんは間違いなく何かの特殊能力を持っていると確信した。

 カーテンを開くたびに、そこで待っている家族と店員に自分の学生服姿を披露するのは、恥ずかしさを伴う。しかしそれも段々と慣れていく。そしてこのファッションショーが終わるのはプロデューサーの母さん次第だと悟る。若い男の店員は完全に母さんの顔色しか気にしていない。

「これが一番いいんじゃないか」

 父さんは呑気に同じ言葉を繰り返している。


 何度か着替えを繰り返しているうちに僕は観客席が変化していることに思い当たる。まさかとは思いつつ慌てて学生服のズボンに足を通してカーテンを開いてみる。そして変化の正体に焦燥を覚える。

「ねぇ、みどり はどこに行ったの」

 恥ずかしいくらいに声が裏返るが、そんなことはどうでもいい。

 サッと顔色を変えた母さんは手にしていた学生服を店員に投げ渡して父さんに「あとは、任せるわ」と言い残すや否や「みどり」と辺りかまわず大声を張り上げながら混雑と雑踏の中に割り込んで行ってしまった。

 この時、僕と父さんはまだ事態を楽観視していた。

『リュウさんが、目立つ格好にした方がいいって言ってくれたから良かったよ。多分すぐに見付かるよね』

〈あの色は目立つから見付からない訳がない〉

 僕は父さんと、学生服が二週間後の仕上がりを約束する引換証をもらって、会計を済ませるためにレジに向かう。どうして何もかも一か所で済ますことが出来ないのか疑問に思いながら、混雑の中をひたすら父さんの背中にくっついて行く、すると父さんが立ち止まって携帯を耳にあてた。父さんの表情がみるみる険しくなる。

「みどり が見付からないらしい。母さんは今1階の案内所にいる。父さんは上の階から探す。格は下の階に下りながら探してくれ」

 父さんは、そう言うなり登りのエスカレーターを駆け足で上がって行った。館内放送も流れ始める。

”ご来館中のお客様にお願い申し上げます。緑のワンピースを着た6歳の女の子、 カメヤマミドリ ちゃんが現在、当館内において迷子になっております。お見掛けした方は、お近くのお店にお知らせ頂くか、1階の案内所までお連れ下さいますようご協力お願い申し上げます。繰り返します……”

 格は父親に言われたように1階へ下りて行きながら、各フロアを隈なく探し回るが、婦人服や紳士服のテナントばかりが連なる場所にとても みどり が1人で歩いてるとは思えない。それでも時折、喧騒に みどり の声が混ざっているような気がしてフロアを駆け回る。よそ見をして何度も人にぶつかる。その度に頭を下げながら、緑の みどり を探しつづけた。

〈格君、落ち着くんだ。繰り替えし迷子の館内放送が流れているんだ。本当に迷子なら、すぐに見つかるはずだ。それより自分だけは最悪の事態を想定した行動を取るべきだ〉

『最悪の事態って』

 格は駆け下りるエスカレーターの途中で足を止めた。

〈誘拐を想定するんだ。館内放送を聞いた人たちは、緑のワンピースの女の子に注目しているはずだ。もし誘拐ならそう簡単に身動きは出来ない。連れ去ろうとするなら緑のワンピースじゃ目立ち過ぎる。着替えさせるか、何か大きな入れ物に入れてしまうしかないだろう。しかしそれでも通常の出入口を通るのは目立ってしまう。おそらく従業員の出入口や商品の搬入をする裏口を利用するに違いない。君だけはそっちに回るべきだ〉

 格は立ち止まった分を少しでも取り戻そうとエスカレーターを一段抜かしで降り始めた。1階に辿り着くと案内所に向かう。

〈格君、そっちは裏口じゃないぞ〉

『母さんにも話して、一緒に裏口に回ろうと思って』

 リュウは自分が落胆する姿を、見せられないことに落胆する。

〈よく考えてみるんだ。自分が変だと思ってからどれくらいの時間が経ったと思ってる。もう手遅れの可能性もある。こんな時大人ってのは、最悪の事態に考えが及ぶまでに時間が掛かるものなんだ。今からお母さんに説明しても最初のうちは拒絶されるだけで時間を食うばかりだぞ〉

『だってこれが、リュウさんの言う通りだったら、僕1人じゃ何もできないよ』

〈その心配は無用だ。今の君は1人じゃないだろ〉

『でも……』

 その時だった。格の耳に聞こえていた周囲の音が聞こえなくなった。エレベーターに乗った時の急な気圧の変化を思い出す。反射的に喉をゴクリと鳴らしてみたがこの変化からの脱出は叶わない。それどころかこの変化がもたらしたものに格は目を疑った。フロアを歩いている人の動きが妙に遅いのだ。よく見るとそれは人だけに留まらず、エスカレーターの動きや、はためく洋服の裾にまで及んでいるではないか。そしてこの不思議に何もかも遅くなった景色の中で、自分だけが普通に動いているのだ。これは夢の中なんだ。きっとそうだきっと みどり のことも……。

〈これは夢なんかじゃない。私が出来ることは助言だけじゃない。私が格君の能力を引き上げているんだ。しかし、これは物凄く体力がいる。長い時間は無理だ〉

 周囲が元の速さを取り戻した。水の中から顔を出したような感じだが、元の速度に溺れそうな錯覚に陥る。呼吸は全速力で走った後のように荒くなっている。

〈体力が必要だということがわかるだろ〉

 もう説明はいらなかった。格は迷いを捨てて踵を返した。





 

 









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