第18話 亀山格
正月休みも終わり、あと3カ月もすると自宅から東の方角に歩いて15分掛かる小学校への通学路は、今度は西の方角にある中学校へと変わる。その中学校へも歩いて15分ほど掛かる。学校の場所が東から西に変わるだけ、という感覚だから進学することに何ら不安や不満を感じることはない。ただ今年から同じ小学校に通うようになった妹の”みどり”が来年度からは1人で通学しなければならないのには、一抹の不安を覚える。尤も本人はそのことに何ら心配している様子はない。むしろ友達同士だけで通学するのを楽しみにしているくらいだ。どうやら両親のどちらかが送り迎えをするという文化は、亀山家には存在しないらしい。
「
いつの間にか母さんに押し付けられた、塾のない火曜日の僕の仕事だ。
自分の宿題を後回しにして、1階のリビングルームに降りていくと、妹の みどり がテーブルに算数の教科書とドリルを用意しているが、本人はテレビアニメに夢中になっている。
「みどり」
妹の名を呼んでソファーに腰かける。みどりは、カーペットの上にべたりと座っている。
「ちょっと待ってて、もうすぐ終わるから。これ見とかないと明日学校で友達がいなくなっちゃうの」
苦笑して算数の教科書を取る。”一ねん二くみ かめやま みどり”と書いてあるのを見て、訳もなく笑みがこぼれる。
幼い妹に、こうして勉強を教えるのは決して無駄な時間だとは思っていない。まだ掛け算や割り算の存在を知らない妹に、二桁に及ぶ算数の応用問題を教えるのは、例えば、右という言葉の意味を、右という言葉を使わずに教えるようなもので、なかなか骨の折れる作業だ。いつも自分の知識の創意工夫を求められる。その時に得た小さな発見の積み重ねが、自分自身の応用力を育てていると気付いてからは、嫌々をしないで熱心に取り組んでくれる妹に感謝することさえある。教えながらにして自分自身も学んでいるのだ。
キッチンでは母さんが、夕食の準備をしている。
ダイニングテーブルに、4人分の箸が用意されているということは、父さんの帰りが今日は、早いといことを意味している。
「お兄ちゃん、今日のおかずなんだろうね」
みどり が鼻をクンクンさせて言う。キッチンから揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきている。
「フライかな。みどりの好きな鶏のから揚げかもしれないよ」
やがて父さんが帰宅すると、4人は食卓を囲む。予想通り我が家の今晩のメインディッシュは鶏のから揚げだった。母さんの揚げる鶏唐は僕も大好物だ。ご飯が進む。
食卓に登る話題の9割は、母さんの近所付き合いの愚痴と みどり の学校の話。基本は女性陣の日常生活。父さんと僕はひたすら聞き役に徹し、相槌を打っている。この形が家族円満の秘訣らしい。
「格の学生服そろそろ買いに行かないといけないわね」
母さんが思い出したように言った。
「そうかまだ早いんじゃないか。育ち盛りだから始業式の時に着れなくなったら大変だぞ」
父さんの主張はもっともだが、話題に上った時点でそれは8割がた決行されることを僕は経験から知っている。きっと父さんもそうに違いないが、家族の民主主義の体裁を守るために、敢えて言ったに違いない。
「少し大きめのを作っとけばいいのよ。行けるうちいっとかないとだめよ。そっちの方が心配だわ。みどり はどこのデパートで食事したい」
概して母の主張ももっともなのである。こうなるとやはり母の主張に軍配が上がる。そしてみどりのお気に入りは最近、京王デパートから伊勢丹に変わっている。亀山家のイベント企画は、あくまで女性陣が全権を握っている。ただし我々男性陣がこうした体制に不満を持っているということは一つもない。父さんと内緒で体制批判をしたことなど一度だってない。家庭内のかじ取りは女性陣に握らせておくのが日本文化のスタンダードとしては、古臭いのかもしれないけど、少なくとも僕はこれでいいと思っている。
こうして次の日曜日、亀山格の学生服を新調しに、亀山一家は新宿の伊勢丹に繰り出すことになった。
この日の夜まで、亀山格にとっての家族は確かに4人だった。
〈とおる、とおる〉
しんと静まり返る深夜2時、亀山格は2階の自室のベッドで両目を開いた。
〈とおる〉
「だれ」
格はベッドの上で半身を起こして、薄暗い自分の部屋に注意深く視線を巡らせる。部屋のドアは閉まっている。窓もロックしてある。格はベッドから下りて爪先立ちでそっとドアに近づくと静かにノブを回して扉を開け廊下の様子を窺ってみる。1階のリビングに誰かいて電気が点いていれば、ここからでもわかるはずだが、今は真っ暗で何も見えない。
夢にしては、リアルで奇妙な聞こえ方のする声だった。耳元で囁かれたというよりもっと近いところで話しかけられた感じに聞こえてきた。格は再びベッドに戻る。
するとまた声が聞こえる。
〈とおる君、落ち着いて聞いてくれ。これは夢じゃない〉
格は跳ね起きて、部屋の電気を点ける。ベッドを降りて床のカーペットに頬をつけてベッドの下を覗きこむが、そこに人が入れるスペースはない。それでも何か仕掛けがあるのかも知れないとばかりに、ベッドの下に顔を近づけてみる。がそこには何も見当たらない。
〈私は、そんなところにはいないよ〉
床にはいつくばってベッドの下をのぞき込んでいる姿をどこかから見ているんだ。今度は立ち上がって頭上を見て回る。カメラのレンズのような物はもちろん見当たらない。カーテンをめくって外の様子を窺ってみても2階の窓から見える近所の住宅街に異常は見られない。あったとしてもわかるはずもない。途方に暮れているとまた声が聞こえてくる。
〈私は、君の胸の中にいるんだ〉
咄嗟に心臓の辺りに手をあてがう。若干早くなった鼓動がそこにあるだけで、他に違和感はない。
「誰なの、どうやって僕の胸に入ってきたの」
格は、囁くように話しかけた。
〈私の名前はリュウ、100年後の未来からある調査をしにタイムスリップしてきたんだ〉
「えぇっ」
思わず大きな声が出てしまう。その拍子に廊下を挟んで向かいにある両親の寝室で物音がした。
〈静かに。明かりを消すんだ〉
格は急いで電気を消して布団に潜り込んで目を閉じる。
しばらくすると、僅かな音を立てて部屋のドアが開く。廊下の静けさと人の息遣いが自分の部屋に流れ込んでくるのがわかる。
「格……、」
母さんの声を無視して寝たふりをしていると、扉はそっと閉じられて格の部屋は再び夜の自由を取り戻す。
〈声に出さなくても会話はできる。やってごらん〉
リュウと名乗った男の声は、格に優しく話しかける。格はそれに従って念じるように内に向かって無言の言葉を紡いだ。
『調査って、どんな調査なの』
少年は、それまでの動揺していた精神状態から落ち着きを取り戻していた。それどころか今のこの状況に数分前とは別の意味で鼓動を弾ませている。興奮しているのは明らかだった。これがもう少し大人だと、そうはいかない。これまで三度のタイムスリップで出会った者たちはいずれも数日から1ヶ月以内に社会不適合者の烙印を押され精神病院に送られてしまったことを考えると、拍子抜けするほど簡単にこの少年は私を受け入れてくれた。
〈格君がお爺さんになるくらい先の話だが、世界は大変なことになってしまうんだ。その原因がこの時代にあるはずなんだ〉
『大変なことって、どんなこと』
〈悪い奴らが世界のコンピューターを壊して使えなくしてしまうんだ。それが原因で大勢の人が死ぬ〉
少年は眉をひそめる。少しは理解しようと頑張っているみたいだ。
〈それをテロっていうんだ。聞いたことがあるかい〉
少年は首を振って否定する。素直でいい子だ。
『リュウさんは、そのテロが未来で起こらないようにする為に来たんだね』
〈その通りだ。私は未来の世界を救うために格君の力を借りに来たんだ。協力してくれるかい〉
『うん僕、リュウさんに協力するよ。でも僕は何をしたらいいの』
〈悪い奴はね、この私と同じように未来からやってくるんだ。まだ何年か先の話になるんだけど、格君は予め受け皿になる少年と友達になっておいてほしいんだ。それだけでいい簡単なことだろ〉
少年のままでは、自分に課されている任務を遂行させるにはまだ無理がある。しかし問題の日が来るまで時間はたっぷりとある。幸い少年はこの状況を過不足なく受け入れてくれた。最初にして最大の難関はクリアしたと言えるだろう。当面はこの少年との関係構築に専念しなければならない。
〈それから一つ約束してほしいことがある。私が格君の側についていることを誰かに話したりしてはいけないよ。わかったね〉
『わかった。約束するよ。だけどリュウさん一つ聞いていい』
〈なんだい。何でも言ってごらん〉
『リュウさんは、いつまでこの時代にいられるの』
〈期限は決まってないが、調査が済んだらすぐに戻ることになる。その間私がずっといては迷惑かい〉
本当は、少年のこれまでの人生よりも長い設定でやってきているが、今はあえてそれを言わないでおいた。興奮している今はいいかも知れないが、これからの長い年月、この少年のプライバシーはないも同然となるのだ。いずれこのことに不満を募らせることは明らかで、この辺りのことは、折を見て、時々定期報告のために未来に帰ることがあると説明しておくつもりだ。その際にはただ黙っていればいいのだから。
『僕は全然いいんだけど、僕には学校もあるし親も妹もいるから、いつもリュウさんの仕事の手伝いが出来るかなって……』
〈その心配は無用だよ。さっきも言ったように格君にやってもらいたいことは、友達になってもらうことだ。しかもその相手は、同じ学年の榊浩平君という名前だ〉
『え、悪い人って榊君のことだったんだ』
〈違うんだ、榊君は何も悪くない。悪いのは、未来から榊君の胸の中にやってくる奴さ。格君は榊君と話したことはあるかい〉
『今は違うけど、同じクラスになったことはあるよ。あんまり話したことはないけどね』
格は、起き上がって少し大人ぶった腕組をした。時刻は午前3時を回っている。
〈榊君は、どんな感じの子だい〉
格はしばらく考え込むと、選んだ言葉を内に向ける。
『榊君は両親がいないんだ。お祖母ちゃんと暮らしてるって言ってた。だからかも知れないけど、榊君の友達は片親の人が多くて、僕は話しにくかったんだ。でも、悪い人じゃないと思うよ。クラスでは一番目立ってたしね』
〈なるほど。でも格君は友達になれるかい〉
『うん、卒業した後も同じ中学だし、何とかなると思うよ』
〈それを聞いて安心したよ。私にも大いに協力できることがあるから、2人で日本の未来のために全力を尽くそうじゃないか〉
「うん、わかった。僕頑張るよ」
思わず声に出してしまった格は、慌てて布団をかぶって目を閉じた。そしてそのまま興奮の熱も冷めて、しばらくすると深い眠りに落ちて行った。
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