第17話 メタモルフォーゼ

 テールランプの光が僅かな隙間から入り込み、トランク内はぼんやりと明るい。両手足を拘束されている榊の体勢は俯せで、自分の体重の半分近くを顔面で支えているという状態に、このまま仮死状態を解かれたらどんな痛みに耐えなければならなくなってくるのか、些か心配になってくる。

「カミオカの話で、ちょっと思ったことを言っていいか」

〈構わない。なんでもきいてくれ〉

「会社に戻って研究を再開したってことだけど、国の厳重な管理下よりは、中国側の監視に晒されるリスクがあったんじゃないのか」

〈その点については理化学研究所からの指導に則って、対策は十全だったはずだ」

「そうか、俺は全くの素人だから漠然と考えちまうんだけど、もっと先の未来じゃ、カミオカの発明した技術はとっくに中国に盗まれててよ、もう何人もタイムスリプしてきてるんじゃねぇかと思うんだよな、でも大概は頭がおかしくなったり、おかしくなったと思われたりしてよ、結構な確率で精神病院とかにぶち込まれてるとか」

〈なかには歴史に名を遺す偉人になる者もいるかもしれないぞ。その可能性は否定はできない〉

「案外、ナポレオンとか織田信長とかって、そうだったりしてな」

〈私の存在を受け入れた時点で、君も偉人になれる資格があると思わないか〉

「俺はそんな柄じゃねぇだろ、それにいくらカミオカがいるからって、今更何にが出来るってんだ」

〈そうだな、格闘技でもやってみるのはどうだ。およそ人間の繰り出す攻撃なら全てかわせるはずなのは、君も理解しているだろ〉

 その話は魅力的だ。身体が自由なら、思わず身を起こして反応していたはずだ。

「そりゃあ名案だな。なら組み合わなくてもいいボクシングあたりがいいな、誰にも一発も殴られないまま世界チャンピオンになってそのまま引退したら、それこそ伝説になるぞ」

 冗談のついでに半分本気になりかけるが、現実を思いだすと暗い気分になる。

「でも、それってカミオカが元の世界に戻らないのが前提の話だろ。世界チャンピオンになる前に突然、未来に帰られたら、その日から一発もかわせなくなるぞ。そうなったらそれはそれで伝説になるかもしれないけどな」

 無責任なタラれば話は、さておき話題を心配の核心にもどす。

「ところで、いつ元の世界に戻るんだよ。あれだけ研究の経緯を覚えてんなら少しは予想が付くんじゃねぇのか」

 その予想によっては、朝倉に命乞いでも何でもしてやるつもりだった。

〈物理的なことから言うと、会社の研究室で作動している生命維持装置は10年は持つように出来ている。しかし国が管理している訳じゃない。研究室に勤務している職員がそこまで責任をもって管理してくれるのかといえば、彼らだって民間企業の社員だからそこまで期待できないことは、もとより承知の上だ。このことだけでもタイムスリップをした目的が何であれ、1カ月以上ということはない気がする〉

「気がするだけか、俺が引っ張れるとしたら今日1日がいいところなんだけど」

〈何もかも設定し、私自ら実験に挑んだはずなのに、その辺りの記憶が全く欠如しているから何とも言えない〉

「予兆みたいなものもないのか」

〈今のところ、そんな感じは全くない〉

 もうすぐ殺されるかもしれないというのに、榊は内心で胸を撫でおろしていた。


 ベンツが速度を落としているのがわかった。更に車体が旋回し遠心力が発生する。その後、榊の身体が前方に向かって半回転した。そのまましばらく前につんのめるような体勢を余儀なくされる。榊はこの挙動が意味するところを理解していた。

「新宿に着いたようだなな。もうすぐ中央公園の前に差し掛かる」

 ベンツは榊を跳ね飛ばした時のような獰猛な運転ではなく、早朝の都会の風景に溶け込むような滑らかな運転で、ストップ&ゴーと幾度か右左折をし、間もなく停止した。

「嘘だろ、なんで俺ん家なんだよ」

 車のトランクの中であっても、車の挙動だけで十分過ぎるほどだった。新宿は榊の地元なのだ。間違いようがない。

 トランクのロックが解除されると、僅かに開いた隙間から外の明かりが差し込んでくる。ここで俺のことを下すつもりらしい。考えてみると死体を遺棄するには丁度いい場所かもしれない。

 車を降りた朝倉がトランクの蓋をあけた。榊は横になって朝倉からは背を向けている体勢だった。カミオカのお陰で仮死状態になっているためピクリとも身体を動かすことが出来ない。肩を掴まれて体勢を変えられると、分厚い灰色雲に覆われている空が視界に入る。今日の都心の空模様はあまりよくないらしい。こんな日にはおあつらえ向きの天気だ。朝倉は目蓋が少し開いている俺の目をのぞき込んだ。そしておもむろに、信じられない力を発揮して軽々と榊の身体を担ぎ上げて、榊の自宅マンションの階段を登って行った。

 マンションの8階部分の廊下は、消火活動の跡がまだそのままで、辺りは水浸しになっている。廊下に面する窓ガラスは全部割れていて、焼け焦げた玄関扉は半開きのままだ。警察が張ったと思われる立ち入り禁止の表示が付いた黄色いテープを跨いで、朝倉は中に入った。

 中のあり様も酷い。壁紙や天井は焼けただれ、墨汁をぶちまけたよう黒焦げのリビングは放水のせいで床上浸水状態だ。

 榊はかろうじて原型をとどめているソファーの上に下ろされた。

〈どうする、このまま様子を見るか〉カミオカが言った。

 朝倉はそこらを眺めまわしダイニングにあった折り畳みの丸椅子を見つけ、それを持って榊が横たわるソファーの前で丸椅子を置いて腰かけると、羽織っているジャケットの内側から煙草を出して火を点ける。

 バルコニーから入ってきた風が、たばこの煙をさらって玄関側に抜けていく。

「こいつ俺が目を覚ますのを待ってるみたいだ。いいから解除してくれ」

〈わかった。ちょっと痛いかもしれないが我慢してくれよ〉

 痛みは、ちょっとどころの話ではなかった。目の覚めるような激痛が瞬く間に全身に及ぶ。榊は唸り声を上げながら、身をよじらせた。

 一段落するまでたっぷりと時間が掛かったが、それが痛みが和らいだからか、それとも慣れただけなのか、よくわからない。痛みはとにかく続いていて片時も肩の力を抜くことが出来ない状態だ。目の前にいるのが朝倉以外の人間だったら、誰であろうと、病院に連れて行ってくれと懇願しているはずだ。

 そんな榊のことを朝倉は、眉ひとつ動かさず、ただ黙って煙草をふかしながら見守っている。感情の読めないその眼差しは、榊の姿態を見ているというよりも目の奥に潜んでいる榊の感情の変化を観察しているかのように見える。

 ゼイゼイと肩で呼吸をしながら、榊は朝倉を睨みつけた。

「随分と、さ、探してくれたみてぇだな。こ、この俺に、何か用か」

 朝倉の吐いた紫煙が、風に煽られて逆流し朝倉自身の顔を覆う。それでも朝倉は微動だにしない。ありがちな微笑も浮かべない。もしかしたら言葉が聞き取れなかったのかと心配になる。しかしそれは杞憂だった。

「それはこっちのセリフだ。お前こそ何の用がある」

 榊は目を見開いた。そして痛みのせいではなく眉間に縦皺を刻んだのは、朝倉のオウム返しのような返答にではない。目の前の男は、確かに朝倉だった。歌舞伎町のラブホテルの前で、自分を殴り倒してくれた男に間違いはない。しかし初めて聞いたこの男の声音を榊は知っていた。長い間慣れ親しんできた聞き間違えるはずのない声。目前で起きている不可思議な事象に、榊の思考は妥当な解釈を見出せないまま止まってしまう。

 驚愕したまま静止する榊の表情に、朝倉の口角が吊り上がる。そして口から外した短い煙草を器用に弾き飛ばす。縦にクルクルと回転しながら放物線を描いたそれは床の水たまりに落ちて消化された。変わり果ててしまったがここは自分の自宅だ。ポイ捨てにされた煙草に視線が飛ぶ。榊が朝倉の顔から視線を外したのはほんの一瞬に過ぎなかったが、視線を戻すと朝倉の顔が歪んで見える。それはここまでの疲労の蓄積や身体の負傷のせいで焦点機能がうまく働いていないせいだと思い、榊は必死になって目を凝らしてみる。そしてそこに見えていた歪みは榊の目の疲れや異常などではなかったことに気付くのだが、その受け入れがたい現象に榊の思考回路はまたも停止に追い込まれる。ただこの光景を凝視しているしかなかった。

 朝倉の顔面は歪み続けている。自分の意志で顔の筋肉を動かしてストレッチしているのとは違う。皮膚の下にムカデのような生き物が這いまわっているような凹凸が、やがては顔面全体に及ぶと、それをピークに歪みは収まっていった。

 そこに現れた新たな顔貌を前にした榊は、目の当たりにした光景が信じられなかった。その作業には相当なエネルギーを費やすためか、完全に別人の顔になった朝倉は息を切らせている。榊が記憶している人間の声音と、その人相が一致する。

「亀山、お前がなんでここにいるんだ」

「驚いたか」

 榊の動揺に喜悦した表情を浮かべる朝倉は、いや亀山は、立ち上がり、その眼光に禍々しさを湛え、これから言うことにもっと衝撃を受けろと言わんばかりの気迫で何かを言いかけるが、次の瞬間、亀山が口にしたのは呻き声だった。そのまま脇腹を抑え膝をつく。それが銃撃によるものだと、すぐにわかったのは、それと同じように消音された拳銃の射出音を数時間前に嫌というほど聞いていたからだ。暴力的に玄関の扉が破られる激しい音と衝撃が響いた。亀山と榊は同時に振り向く。

 中に飛び込んできたのは、意外にも女だった。


 黒のライダースに身を包んだ黒髪の女は、尚も銃撃を続けながらリビングにずかずかと踏み込んでくる。全ての弾丸を防弾チョッキの上から受けたとはいえ、倒れないでいる亀山に向かって女は突進し、銃をホルスターに収めると、前蹴りを浴びせた。

 まともに前蹴りを食らった亀山は勢いで、外されているサッシの境界を越え外のバルコニーまでたたらを踏んだように後退する。

「てめぇ、何者だ」

 こめかみに青筋を浮かせた亀山が、上着と防弾チョッキを脱ぎ捨て臨戦態勢をとるが、先の前蹴りの後にすぐさま距離をとった女は、既に十分な助走をつけた飛び蹴りを放っていた。

 胸の中心に女の飛び蹴りを食らった亀山は、バルコニーの柵に背中を叩きつけられたが、それでも勢いは収まらず、その体躯はスローモーションのように柵を乗り越えて榊たちの視界から消えて行った。

 女が腰まで届くほどのロングヘアを振り乱して柵に駆け寄り下を覗き見るのと同時に、ガラスの割れる音と、肉塊がその重量で金属を押しつぶす音が聞こえてきた。瞬く間にベンツのセキュリティー音がまだ静かな早朝の街中に、波紋が広がって行くように響きだした。

 アッと言う間の出来事に放心している榊の両手足の拘束を解くと女は言った。

「大丈夫、しっかりして」

 衝撃的な身体の痛み、朝倉から変化した亀山、そして8階から亀山を蹴り落した女。次々と巻き起こる信じ難い事実の連続に追い付けづ、途切れがちに宙に放心している思考が新たなファクターの出現に突如、息を吹き返す。

 両肩を揺さぶる女の掛け声に励まされたわけじゃない。またしても女の声音が記憶の琴線に触れたのだ。

「どうして君が」

「後で、話すわ。今はここから逃げるのが先決よ」

 春川外科病院の窓から飛び降りた時、その窓から自分を呼び止めた看護師の記憶が甦る。肩を貸してくる女の顔と記憶の中の看護師が重なる。

「ジロジロ見てないで、前を向いてなさい」

「あぁ、悪い」

 榊の中で茫漠としている思考が、新たにまとまりつつあった。

 エレベーターで1階に降り立つと、マンションの前に停めてあるGSX1100Rに向かう。彼女はミラーに無造作にかけてあるヘルメットをかぶると、単車に乗りエンジンをかける。

「乗って」

 振り返って榊にそう告げた彼女は目を瞠った。

 8階からベンツの上に落ちて絶命していると思っていた亀山の姿が消えているだ。

 たった今、マンションから出てきた時は、まだそこにあった。

 2人で周囲を見渡すが、亀山の姿がどこにもない。

「とにかく、早く乗って」

 青ざめる榊を促して、前に向き直った途端、彼女の身体が浮き上る。フルフェイスの顎の部分を鷲掴みにされ前に引っ張られたのだ。単車の正面に立ちはだかる亀山はそのまま彼女を後ろに投げ捨てる。女の身体とは言え片手でそれをするのは、とても人間業とは思えない。アスファルトに投げ出された彼女の首があらぬ方向に曲がっている。呆然とする榊に亀山が掴みかかる。

 亀山の伸びてくる手が、スローモーションにかわる。

 それが瞬時にカミオカの力によるものと理解した榊は、亀山のその手を取って背負い投げを慣行する。そして立ち位置が入れ替わったところで、倒れている彼女の所まで行って、彼女のホルスターから拳銃を借りるつもりだった。

 しかし、榊は亀山の手を取ることが出来なかった。掴もうとした刹那、亀山の手が突然本来の速度を取り戻し、そのまま榊の首をとって締め上げる。物凄い握力で喉元を圧迫され、たまらず亀山の腕を掻きむしるが、鋼のように隆起した腕の筋肉には傷ひとつ付けられない。

 最早、今の亀山に榊と質疑をするつもりはないらしい。このまま窒息するか、あるいは頭の血管が爆ぜる。そのイメージも薄くなって行く。遂にこと切れる。その覚悟が定まる直前に両足が地に落ちた。首の拘束から解放された榊はそのまま尻もちを着いた。

 その場で酸素を貪る榊は、両膝の裏を拳銃で撃ち抜かれたのにも関わらづ、それでも尚、地面を這いつくばって、自分を銃撃した女に向かって這って行くおぞましいほどの亀山の姿をみた。

「くそ女がっ」

 亀山が手をついて身体を起そうとする。しかし膝から下はもうビクともしない。

 女がGSX1100Rに駆け寄る。榊もそれに呼応する。

「今度こそ行くわよ」

「首の骨が折れたのかと思ったぜ。亀山といい、あんたといいどうなってんだよ」

「ヘルメットがズレただけよ」

 彼女はそれだけ言うと、エンジンを吹かしクラッチを繋いだ。

 フロントを浮かせて急発進したGSX1100Rのタンデムシートで、榊は殺気に反応する。振り返ると、地べたで半身しか利かないはずの亀山が立ち上がっていた。

「あいつ、不死身かよ」

 仁王立ちになった亀山は、大きく息を吸い込んでその分厚い胸板を膨らませる。最早、口から火を噴いても驚きはしない。しかしそれは叫びだった。

 その叫びは唸りを上げるGSX1100Rのエキゾーストに掻き消され、その直後に車体が道を曲がっていくと亀山の姿は、建物の陰に呑み込まれて見えなくなった。

 亀山の叫びは、聞き取ることはできなかったが、榊は亀山の口の動きだけで、それを読み取っていた。それはここ数日の間、何度も口にしただった。

 そしてこの決定的な一言が、うっすらとまとまりつつあったが、それがどうしても非現実的なものとして思考の対象にすることを拒絶していた箍をあっさりと外してしまう。榊の中でそれぞれあらぬ方向を向いていた思考の断片が、ひとつの事象として結びついて行く。そしてそこから一足飛びに、GSX1100Rを駆る女の正体さえも導き出した。不可解だったこの数日の出来事は、上昇するバイクの速度とリンクしたかのように頭の中を駆け巡って行く。

 榊が中心ではなかったのだ。全く持って迷惑な話だが、ことは自分を抜きにしては進まない。現実は実体を持つ俺に向いてくるのだから。

〈申し訳なかった。全ては私が原因だったようだ〉

カミオカももう気が付いているようだ。

「気にするな、最初に言っただろ。退屈な毎日に暇してたって。それに亀山があぁなっちまった以上、ほっとく訳には行かねえしな。亀山がカミオカの名を叫ぶとはぶったまげたぜ。それからこの女は〉


榊とカミオカは同時にGSX1100Rの女の名前を呼んだ。






 


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