第16話 神岡一郎
100年後の世界のパワーバランスの中心にあるのは中国だった。
その人口は20億人に到達し、GDPがアメリカでさえも遠く及ばないほど膨れ上がったのは、50年も前のことになる。他国の追随を許さない超経済大国になった中国はその勢いに任せて、あらゆる分野で世界を席巻する。世界のどの国の名だたる企業にも中国の資本が入り込み、世界中に拡散していた中国人は、100年後にはその国の要人、政治家、企業家、果ては芸能人、スポーツ選手にまで浸透し、アフリカでは30か国以上の国の大統領が中国系で占められるようになる。
しかしここまでなら超経済大国の振る舞いとして相応しいかは別として、あくまでも合法であり世界はそれを受け入れるしかなかった。かつての覇権国がそうであったように。
2020年代に起こったパンデミックを乗り越えた世界の次の敵は、いや中国の敵は、中央アジア全域を支配圏に治めるまでに膨張したイスラム国家だった。いかなる国とも国交をもたない事実上の独立国家に成長したイスラム国は世界の主要都市で無差別テロ攻撃を繰り返した。そして世界大戦さえも辞さない彼らは遂に世界をパニックに陥れるサイバーテロ攻撃を仕掛けたのだ。
このサイバーテロにより、全ての生活基盤をネットに依存している国々は修復不能の大混乱におちいる。犠牲者は1億人に達したともいわれている。ところがこの世界の危機をたった1日で救ったのも中国だったのだ。
中国は極秘で開発を進めていた全く新しいシステムの衛星ネット網を起動させた。世界に向けて無償で提供された衛星ネット網は、それまでのアメリカ発のインターネット網に取って代わり、世界は一夜にしてネットに依存する元の生活を取り戻した。その上で中国は世界最強の武力をもってしてイスラム国を壊滅に追い込むことに成功する。サイバーテロ攻撃から3年後のことだ。
2100年を目前にして世界は真の平和を取り戻した。と世界に発信された中国の国家主席の宣言を、世界の多くの人々は冷めた気持ちで聞いていた。
両親をサイバーテロで失った神岡一郎は、この時まだ3歳だった。
この頃から中国はますます栄華を極めて行く。とりわけ科学分野の躍進は目を見張るものがあった。経済力を背景にどの分野のあらゆる開発や研究にも係って行き、技術の最先端は中国で生まれるのがスタンダードなり、月や火星も中国主導の開発が進められて行く。それもこれも中国が敷いた、衛星ネット上で起動しているAI監視網が、各国の技術を発想段階から盗み取ってしまうからだ。それに対抗する各国の研究機関の抵抗も全てが筒抜けの状態だった。
世界は、中国の監視のもと中国共産党により創造された中国にとって都合のいい平和を押し付けられ、面従腹背をもって中国の功績を称えることが自国の利益に繋がることだと解釈するのを余儀なくされる中国人以外の人々と、中国人でなければ人にあらずという思想化した、自分たち以外の外国人を卑下し近い将来全人類が中国人化すると本気で信じている中国人とに二極化してしまっていた。
そんな時代の日本で生まれ育ち社会人になった神岡が化粧品会社の研究開発部門で行っていた、新しい人体に意識を移し替えるという究極のアンチエイジングは、それが成功すれば事実上の不老不死が実現するということに、日本の経済産業省は早くから着目していた。この技術が中国のものになれば、全人類の中国人化という馬鹿げた幻想が一層真実味を帯びてくる。中国は目の色を変えてこの技術を奪いにくることだろう。
それ故に、この研究は同盟国のアメリカと共同で厳重に管理されながら進められることになった。
遅かれ早かれ、この動きは中国の知るところになるだろう。そのため研究は会社の施設から国が管理する理化学研究所へと移行され、データはもちろんのこと人の出入りも厳しく制限されることになった。
純粋な日本人とアメリカ人の10名だけで構成されたプロジェクトチームは、この研究が存続する限り施設から出ることを許されなかった。それはこの研究が成功を収めるか、研究自体が不能と判断されるまで、生きて研究施設から出られないことを意味している。この研究がそれだけ期待され大詰めを迎えていると判断されている証左でもあった。
研究所内はもちろんネット環境からは隔離されていた。そんなアナログな環境の中で、研究を共にした1人のアメリカ人女性に神岡は心を惹かれた。名前はジェシカと言った。ジェシカもサイバーテロで両親を失っていた。
中国による監視や盗聴の恐れのない施設内は、自由でざっくばらんなディスカッションできる場でもあった。神岡やジェシカに限らず日本人やアメリカ人の誰もが抱いている中国への不信をよく口にした。
イスラム国家の脅威は2020年代の早いうちにアメリカの手によって既に排除されていたが、2030年ごろから再び息を吹き返し、その後何十年にも渡って世界の脅威であり続けたのは中国が秘密裏にイスラム国家を支援あるいはコントロールしていたからであり、それはイスラム国家をサイバーテロのスケープゴートに仕立て上げ、世界の実権を握る機会を待つ計画だったのだ。それが証拠に世界のあらゆる国と地域が自爆テロの標的になったが中国ではただの一度もテロが起きていない。しかし真実を追及する術を失った世界にとって。これは最早たんなる陰謀論でしかなかった。
そして研究は暗礁に乗り上げる。
派生したタイムスリップ理論は今後もプロジェクトを存続させる理由とはならず、期せずしてプロジェクトは解散となり、研究に使用されたコンピュータや資料の全ては何もかも焼却処分されたが、こうして閉鎖されたプロジェクトはその後も理化学研究所の帰属になり、発案者の神岡であろうと個人的に研究を続けることは許されなかった。加えて、所在まで一定期間にわたって政府から指定された区域から離れることも許されなかった。元から都内在住の神岡にとってはこの制約はさほど苦になることはなく、元の化粧品会社に復帰し、理化学研究所の帰属にはならなかったタイムスリップ理論の研究を再開できる環境まで用意された。
神岡は、その後ほどなくしてタイムスリプを成功させることになるが、プロジェクト解散後も日本に留まり神岡と生活を共にしたジェシカの存在なしに、それは実現しなかっただろう。なぜなら理化学研究所で焼却処分された膨大なデータの全てを、一度でも見た光景を細部に至るまで忘れることが出来ないという超記憶症候群に加えIQ300を超える彼女の頭脳が必要不可欠だったからだ。
ジェシカの研究に対する情熱と信念は、神岡のそれを超えるものがあった。
タイムスリップが実現すれば陰謀論に留まっているサイバーテロの真実を詳らかにすることが出来るとジェシカは信じていた。
理想を語れば、過去に遡りテロそのものを阻止し失われた多くの命を救いたいと思っているが、恐らくそれは叶わないことだと承知していた。あの時の私たちが考えていたタイムスリップとは、神岡が榊の身体に憑依するような状態でひとつの肉体を共有するものではなく、いわゆる夢でも見ているかのような、その時代の空間を幽体離脱でもしているかのように彷徨うだけで、その時代の人たちと意志の疎通ができるとは思ってもみなかったのだ。とにかく過去を覗くことしかできない。タイムスリップとはそういうものでなければ、現実的な合理性を導き出せなかったのだ。
陰謀の域に収まっているサイバーテロの真実を見極めることが、中国という共産主義国家が世界の覇権を握り、実際に行き過ぎた社会主義に傾いて行こうとしている今の世界に歯止めをかける一助になればいいと考えていた。その点で言えば神岡もジェシカも、さほど高慢でも傲慢でもなかった。政府の力無しに2人に出来ることは限られていると理解していた。
一度タイムスリップして身体から離脱した意識が元の肉体に完全に定着するまで人間の肉体ならおよそ1年は掛かることが理化学研究所での動物実験の段階で判明していた。加えてタイムスリップをしている間、意識のない抜け殻になった肉体の維持に掛かるコストという現実的な問題もあった。他にも様々な可能性や問題についてジェシカと話し合った。
そして実際のタイムスリップが、その時代の人間とこうして会話すことが出来ると、身をもって証明したというのに、私はその目的を喪失してしまったのだ。
しかしそれでも収穫はあったと言える。私のこの経験は今後の研究への大きな一歩となるはずだし、とん挫したプロジェクトの復活にも繋がることだろう。
ただしそれは、元の世界に戻れたらの話だが。
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