第12話 ブレインサーチ
黒崎明美は、ミルクティーの代金を支払うと、熱心にレジ周りの総菜を勧めてくる店員に、感謝しつつも丁重にお断りをしてコンビニをでた。職場以外で異性と会話をするのは緊張する。手にはミルクティーのペットボトルと、なぜかメルアドが書かれた紙片がある。今の店員がさりげなく渡してきたものだ。これで3度目になる。接点のない人に一体どんなメールを打てばいいのか私にはわからないし、申し訳ないけどプライベートで異性との接触に興味はない。
小走りでマンションに戻る。
玄関からここまで、立ち止まったのはレジの前だけで、こうしてマンションの前に戻るまで5分もかかっていない。にも拘わらずエントランスの前に立っている男の人は何時間も前からそこにいたかのような趣きがあった。
互いの視線が交錯した。
小走りのまま、階段を登るつもりの足が、恐れをなした一歩ずつに変わる。
最近、店に掛かってく自分あての不審な電話のことが頭をよぎる。このまま回れ右をして、コンビニの店員に助けを求めようかと考えたその時だった。
「黒崎明美さんですね」
突然の
「こんな夜分遅くに、お尋ねして申し訳ありませんね」
「なんですか」
黒崎明美はエントランスの明かりを背にしている男の表情を覗き込んだ。
つや消しのヘアワックスでまとめてあるラウンドスクウェアの髪と細い眉毛は自然な感じで整っていて清潔感はあるが、少し頬骨が目立ちやつれているように見える。しかしそれは、普段からの姿ではなくて、ここ数日の不摂生が原因のように感じる。それでいてこの人は見た目ほどにはもう疲れていない。堀の深い眼窩の奥に湛えている眼の光がそれを証明している。店に来る客のように汚れや、いやらしさのない何か強い意志のようなものを感じさせる目の光だった。
しかし男に対する警戒心は失われてはいない。それでも黒崎明美は不思議と、この男の視線から目を逸らすことが出来なくなっていた。魅了されたのではない。男の視線に網膜の束を掴まれて逸らすことが出来ないのだ。それだけではない、呼吸のリズムに何かが割り込んできて、一瞬ノッキングを起こしたかと思うと、それ以降は男の意志の力で呼吸させられている気分に陥っていた。気が付くと耳も遠くなっている気がする。
〈聞きたいことがある〉
目の前の男の声ではなかった。男は口を開いていない。不思議だがそれがあまりおかしい現象だとは思わなかった。それどころか心地良ささえ感じる。
黒崎明美は自発的に頷いた。
〈君は先週の月曜日の夜、仕事が終わった後、歌舞伎町のラブホテルに行ったね。誰と会ったのか教えてほしい〉
声の意志が脳裡に入り込んできて頭の中を駆け回り、勝手に答えを探し当てると、それを声にだして喋らされる。
「私は誰にも会っていない。あれはしつこく言い寄ってくる客に対して、店の計らいで男がいるように装っただけ」
〈そうだったんですか。では今あなたとお付き合いしている男性のことを教えて下さい〉
突然、訪ねてきた見知らぬ男と話す話題ではない。それを自覚しつつも一切の私情を挟む余地もなく、黒崎明美はまたしても頭の中から真実を引き出される。
「私、誰とも付き合ってないわ」
男は初めて動揺の色をみせた。まるで3人で会話しているようだわ。
〈そうですか。こちらが何か勘違いをしていたようです。どうか今ここで私に会ったことは忘れてください〉
それだけ言い残して男は一礼すると黒崎明美の脇をすり抜けて立ち去って行った。
一泊遅れてフワリと男の残り香が頬を掠めて行く。それと同時に、黒崎明美の脳裡から、男の姿も今の会話も全て跡形もなく消え去った。
榊は目黒川沿いを歩いて国道1号線にでる。タクシーを拾うつもりだった。
「カミオカ、確認するがあの女、嘘は吐いてねぇよな」
〈間違いない。彼女の頭の中から真実を引き出したからな〉
「あれは、催眠術か何かか」
カミオカは、しばらく間をおいてから応じる。
〈そう思ってもらって構わない〉
精神と人体、その仕組みと関係についてを、他人の身体の内側から検証できる立場にいるカミオカは、人類が長い年月をかけて解き明かしてきたそれを既に凌駕していると言えた。黒崎明美にたいしてしたことは、催眠術というよりマインドコントロールに近い。しかもそれは、カミオカが榊の身体に憑依している特殊な状況下でしかなしえるものではなく仕組みを正しく理解していれば誰にでも出来ることでもあり、100年後の未来でさえも解明されていない多くの能力のうちの一つに過ぎなかった。
「黒崎明美がラブホテルに出かけたのは、俺が店に掛けた電話のせいだった事は納得がいった。やっぱりあの男は黒崎明美とは無関係だった。それどころか愛人さえもいねぇ」
〈彼女はLGBTだ。男には全く興味がない〉
「俺に彼女の調査を依頼したのは、一体どこの誰で、何の目的があったってんだ。この俺をストーカーにでも仕立て上げようとしたのか」
調べて行けばいくほど、謎だけが増えていく。
黒崎明美の浮気の証拠映像を撮った、というメールを依頼人に打ってみる。
「今日のところは、八王子にいくか」
時刻は午前2時を回っている。榊は空車表示のタクシーに手を上げた。
タクシーの後部座席に乗り込んで、運転手に荒川から聞いた八王子の住所を告げると、スマホを耳にあてがい通話をしているように見せかける。
タクシーは戸越料金所から首都高目黒線に上がった。そこから中央自動車道の八王子インターに向かう。
「これで、朝倉の所が動いている理由が全く見えなくなったな」
〈元々、奴らの目的が浮気の証拠映像の回収だとは思っていなかっただろ〉
「そうだけどよ、まったくだぞ。わかるか俺の気持ち。スゲー気持ちわりぃの」
メールの着信音が鳴った。依頼人からの返信に違いない。半ばホッとして画面を確認すると、not found の表示が目に入る。
「おいおい、依頼人までどっかに行っちまたぜ」
大きなため息を吐いた榊は、規則的な走行音と都会のネオンが顔の上を流れていくうちに目蓋が重くなり、やがて眠りに落ちた。
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