第11話 キャバ嬢

 黒崎明美 23歳、北海道札幌市出身、両親、姉妹はともに札幌在住。

 源氏名は、西城那美。彼女は札幌の短大を卒業後、就職はせず学生時代からバイトで働いていたキャバクラ店で知り合った客の男に誘われて上京する。男には東京に妻子がおり明美は愛人だった。両親には上京の理由を東京で服飾関係の就職口があると説明しているが実際は、新宿の歌舞伎町でキャバクラに勤めている。週4日出勤でかれこれ1年ほどになるが、半年前からナンバーワンの座を譲っていない。

 これは黒崎明美の愛人の男から提示された情報だ。調査の依頼もこの男からだ。つまり、この男が大手暴力団組織のドメインの持ち主ということになる。


 西五反田の目黒川沿いにあるマンションを、そばの通りから見上げた榊は、ここ数週間の黒崎明美の足取りを反芻していた。

 依頼人から得た情報と、榊が調査の過程で得た黒崎明美の実態に大差はなく、結論から言えばあの日、俺が顔面を殴られるまでは黒崎明美に男の影は皆無だった。

 時刻は午後11時を回っているが黒崎明美が帰宅するにはまだ時間がある。周辺に怪しい人影はない。首都高の高架下でジルコニアの輝きに似た目黒川の黒い川面が音もなく流れている。その川面を眺めながら、カミオカに説明するつもりで榊は反芻をつづける。

 基本的に調査の精度は依頼人の金払いで決まる。その点について今回の依頼人のそれは群を抜いていた。この調査一本に絞っても楽に三か月は遊んでいられるほどの前金を振り込んできている。それが組織の組長と信じる一因でもあった。

 それだけに調査には力を入れた。専門の業者に依頼して自宅に盗聴器を仕掛け、彼女のスマホにウイルスを感染させて通信の全てをモニタリングすることもした。

 本来、浮気調査というものは、怪しいと思うから依頼するのであって、その時点で依頼者の勘は十中八九当たっている。そして浮気を自覚している本人がいくら警戒をしていようとも本人の生活圏の外からやってくる探偵の存在には驚くほど無防備で、こちらからしてみると隙だらけの対象者が無頓着に晒す証拠の数々を集めるのは、正直言って金魚すくいよりも容易いことだ。

 黒崎明美に男がいないという結論に達するのは榊にとっては殆んど初めてのことでありのままを報告することは、やぶさかではないが依頼者に対して何もしていないのではないかという後ろめたさが付きまとう。

 依頼者はとにかく証拠が欲しいのだ。黒だったという証拠は実は探偵の評判にも拘わってくる。つまるところこの手の調査は証拠ありきで、出てこなければ捏造をしてでも結果を出すのが探偵の腕の見せ所だと、俺は理解している。

 それだけに黒崎明美がラブホテルに入って行ったときは内心で小躍りしたものだ。

 今となっては下請けにだした盗聴やモニタリングをもっとちゃんと確認しておけば、と後悔するばかりだが。

 加えて今更だが、黒崎明美はあの日まで男の影は一切なかった。ただの一人もだ。調査に費やした2カ月の間、愛人である依頼人さえも会いにきていないはずだ。俺はこうしてほぼ毎日、この目黒川を挟んで黒崎明美が一人でマンションのエントランスに入っていくのを確認している。俺は依頼人の顔を今だに知らない。


 不意に榊の視界にワゴン車が一台現れた。国道1号線から川沿いの一方通行に折れてきたそのワゴン車は黒崎明美の自宅マンション前で停止する。時刻を確認すると0時40分になっている。

 ワゴン車は黒崎明美を降ろすと川沿いを走り抜けて首都高目黒線の高架下を左に曲がって行った。

 黒崎明美がマンションのエントランスに続く階段を登り、オートロックを解除して中に入り、奥のエレベーターホールに姿が見えなくなるのを、榊は目黒川の対岸から眺めていた。

〈これからどうやって彼女に接触するんだ。こんな夜更けに見知らぬ男が訪ねて行っても、警戒して出てこないんじゃないか、若しくは通報されるぞ〉

「まぁ見てろって。だてに毎日ここで張ってたわけじゃない」

 ゆっくりと国道1号線に向かって川沿いを歩きはじめた榊は、国道から橋を渡って回り込んだすぐのところにあるコンビニに入った。迷わず雑誌コーナーに立つと週刊誌を手に取ってパラパラとめくる。

「黒崎明美は仕事帰りに必ずこのコンビニによって帰る。帰りが送迎ワゴンの場合は気を使っているのかプライバシーを晒したくないのか、一旦自宅に戻るが必ずこのコンビニにやってくる。彼女の目当てはミルクティーだ」

〈彼女が今日いつものように帰ってこなかったらどうするつもりだったんだ〉

「今日は月曜だろ、俺は先週の月曜まで毎週、店に電話をかけて、彼女が出勤しているか、出勤しているなら何時に上がるのかしつこく聞いてやったんだ。そんなことをすれば店は当然警戒して彼女を送迎するようになるだろ、俺としては彼女に男がいれば相談するなり、男をマンションに呼ぶと思ったんだがな。今日は電話はしてねぇが月曜日は要警戒のままだったな」

〈それでも男は現れなかったんだな〉

「そう言うことだ」

 ほどなくして黒崎明美がスウェット姿にサンダル履きでコンビニの自動ドアを潜り抜けてきた。

 榊が入ってきた時は、無視を決め込んでいた男の店員が、いらっしゃいませ、と弾んだ声で迎える。顔には不特定多数の客に向けるのとは違う、個人的な感情がありありと見て取れる。なぜか胸倉を掴んでやりたい衝動に駆られる。

 おそらく黒崎明美は、どこに行ってもその容姿から、周囲はいつもこんな調子になるに違いない。しかも彼女はそのことに一向に気が付いてはいない。

 黒崎明美は自分の容姿に反応する世の男に気づいていて、それを病的なまでに持て余すタイプでもなければ、それを逆手にとって自分の利益に転化できる傲慢なタイプともちがう。彼女は、その内面から溢れ出る、幼女のような純粋さをもって世の全てに好奇心しか持っていないような雰囲気を感じさせるのだ。突然抱きしめても嫌な顔をされないのじゃないかと思わせるのだから不思議だ。世の男は初対面から、きっと彼女には男がいるだろうと高嶺の花的な卑屈な感情とは一切無縁になり、私財の全ては彼女名義という無茶な設定に違和感なくさせられて、無償の愛を彼女に捧げる朴念仁になってしまうのだ。ある意味キャバ嬢としては最も恐ろしいタイプ。まったくその自覚のない彼女は、世の男は全員、優しいものだと思っているに違いない。


 榊は黒崎明美がいつものようにミルクティーを持ってレジの前に立つのを確認すると一足先にコンビニを出た。目黒川の流れは相変わらず無音だった。時おり首都高目黒線を走る車がコンクリートの継ぎ目でバウンドする音が響き、雑居ビルやマンションの暗い吹き溜まりに吸い込まれて行く。深夜の人の息遣いを感じさせない都心特有の冷たい静けさの中で、榊は黒崎明美が戻ってくるのを待った。

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