第7話 炎上
不意に角を曲がってきたクリーム色のセダンが、まだ幼い榊に襲いかかってきた。視線の高さにあったヘッドライトの光は複雑に屈折して広がり、榊の全身を包み込む。光の温もりを感じた。跳ねられてもいいと、思い切って諦めたのは、その温もりに心が満たされていたからだ。瞬きをすると場面は一転して、一人の女性がそばに立っていた。その女性がさっきのヘッドライトの温もりと何か関係しているに違いと感じる。やわらかくて優しい手がふわりと榊の髪の毛を触る。母親のはずだった。母親ではない理由などどこにもなかった。榊は母親の顔を確かめようとするのだが、どうしても見ることができない。母親の顔を確認しないことには、お母さんと呼んではいけない世界の中で、榊は知るはずのない母親の顔を探し続けた。
目が覚めても思うように目蓋が開かないという経験は今までになかった。全身が鉛の布団を被ったように重い。
無理やり目蓋を開けていると、ぼやけていた視界の焦点が戻ってくる。全く馴染みのない部屋だった。手を伸ばせば届く位置に栄養ドリンクが置いてある。確か1本3千円くらいするやつだ。その脇にあるコンビニ袋の中には弁当やサンドイッチが入っている。
ゴクリと喉を鳴らすのも億劫だった。
「カミオカ、いたら返事をしてくれ」
〈やっと起きたな〉
普通に返事が戻ってきたことに、思いのほかホッとする。
「ここはどこだ」
室内を見渡す元気はまだないが、人の気配がないのはわかる。
〈私にもわからない。車に乗った現場から1時間ほど西に来た場所だ。あれから丸一日以上経過している〉
「車を運転していた奴はどうした」
〈あの運転手は、ついさっき、昨日ここに置いていった弁当を新しいものと交換して出ていった〉
榊は重い上半身を起こすと胡坐をかいた。その動作だけで胸が苦しくなる。
ややもすると、再び昏倒の闇に落ちてしまいそうだ。
栄養ドリンクを手に取ったはいいが、ドリンク瓶のキャップを開けるのにも悪戦苦闘する。勢い余って中身を半分ほどこぼしてしまった惨めな気持ちを、残り半分と一緒に飲みくだす。高価な栄養ドリンクは半分でも消耗しきった心身に染みわたり、更なる潤いを渇望する力に変化した。それからもたっぷりと時間をかけて、食べれるもの全てが胃袋に収まると、榊は再び昏倒する。傍らに置いてあった朝刊には目もくれなかった。
次に目が覚めると、枕元にはまた新しい食料が用意されている。食べ終わるとまた眠りに落ちる。そして何度目かの食事中に書き置きが残してあるのを見付けた。
”体調が良くなったらTELください 0*0-****-****”
そばに置いてある朝刊が3部になっている。
「カミオカ、あれをやると毎回こうなるのか」
〈そんなことはない、今回は特別だ。普通ならきちんと栄養を取っていれば大丈夫だが、妙な事態に巻き込まれている以上、携帯電話のように、隙あらば充電しておくことを勧める〉
人の体力をリチウムイオン電池に例えるのはどうかと思うが、確かに電池残量ゼロパーセントからの充電は時間がかかる。二度とこんなことになるのはご免だ。
「それを聞いて安心した」
〈私も君の長い休眠には辟易している。今後は常にカロリー摂取することを忘れないでもらいたい〉
榊は那智から渡されている携帯電話の電源を入れると、那智の番号の不在着信を選択して発信ボタンを押す。呼び出し音が殆んど鳴らずに那智が反応した。
「兄貴、大丈夫ですか」
驚きと安堵の入り混じった那智の声量が鼓膜を叩いた。
「心配かけて悪かったな。ちょっと疲れてたんだ。それより竜神会の方はどうなっている」
きっと何かの間違いで、疑いはもう晴れている。という言葉を期待していたが、那智の反応は最初から少々期待外れな感が漂っていて、実際に事態は予想外の方向に進んでいた。
「兄貴……、どうもこうもないっす、兄貴のヤサが放火されました」
時に場違いな場面で頭の回転が早くなる時がある。そんな時に限って切迫した問題があるというのにだ。俺は、自分のヤサが放火されたというのに、この古ぼけた畳くさい部屋が一時的なものではなくしばらく住むことになるのかもしれない、ならば畳から張り替えようか、などということを考え始めていた。
「兄貴、聞いてますか。放火はあの日の夜です」
ならば新聞にも出ているはずだ。携帯を握ったまま積んである新聞を漁ってみる。あった。二日前の朝刊だ。
”新宿区で二件の不審火”という見出しを発見した。
「悪いな那智、また後で電話する」
【本日未明、新宿区内でほぼ同じ時間帯に二件の不審火の通報があった。一件目は、新宿区大久保にある春川外科病院。二件目は新宿区西新宿6丁目のマンション8階部分からのもので、いずれも付近を通りかかた通行人からの通報だった。春川外科病院の出火は、消防が駆けつけるまえに病院職員の手によって消火され被害は軽微なもので収まったが、西新宿6丁目のマンションは、出火元の8階部分が全焼した。このマンションは一世帯ワンフロアタイプで、出火時8階の住人は不在だったことが確認されているが、どちらの出火原因もまだハッキリとしていない。
警視庁は、どちらの不審火も同じ時刻に発生していることから、何らかの関連があるとみて、放火の疑いを視野に入れた捜査を開始している】
自宅が燃やされた。
今時の暴力団の所業とは信じ難い遣り口だ。俺が一体なにをしたというのか。言いがかりにもほどがある。これだけでも驚愕ものだ。いち早く動いてくれた鬼瀬と亀山、那智には感謝しかない。取り敢えず彼らもホッとしているだろう。命拾いした俺も話の通じない暴力団は、相手にしないでこのまま雲隠れしたいところだが、春川外科病院が放火されたのはどう説明する。
二件の不審火はどう考えても偶然じゃない。加えて奴らはどうやって俺の足取りを掴んだんだ。なぜ二件同時に火を放つ必要があるのか。脅しか。だとしたら充分に効果のある方法だか、脅す理由を俺に示さないと意味がないだろう。最初から殺しにかかっているのか。なら二件同時に火を放つのはあまりにも雑じゃないか。いや待てよ放火は、俺がファミレスから逃げた後だ。春川外科病院にも自宅にも俺がいないとわかっていて放火しているとしかおもえねぇ。どうして俺はここまで狙われなきゃならねぇんだ。
榊はもう一度、那智に電話をかける。
「新聞の記事は読んだ。状況からして竜神会の仕業なのは間違いないようだな」
榊は春川外科病院のことには、触れずに話を進める。
「でもここまでされる心当たりが、全くねぇ。そっちで何かわかったか」
「ただ連れてこいの一点張りだそうで、俺に付いてる朝倉の下の者も愚痴をこぼしているくらいです」
「なんだ竜神会に友達でもいんのか」
今でも数百の組事務所がある歌舞伎町では、友達でも違う組なのは榊たちだけとは限らない。むしろその方が多いくらいだが。
「竜神会って何年か前まで、ここらの半ぐれでしたから、知った顔が多いんですよ」
「ところでお前、俺を逃がしたことで奴らに何かされなかったのか」
「兄貴、それがですね。あの時のファミレスの現場、やつらも眺めていたらしいんですけど……、奴ら兄貴の顔知らないみたいなんすよ」
「違う、奴らが追っているは俺の顔じゃないんだろ。やっぱり俺は無実だ。誰かが俺の名前を語っているはずだ」
それにしても、俺の名前を語った奴は一体どんな地雷をふんだんだ。
間違いの可能性が高い以上、このまま雲隠れするつもりはない。
俺がそいつを探しだしてやる。
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