第6話 指名手配

 あとから連れが来ることを告げると、ウエイトレスは青梅街道に面した4人掛けのテーブルに榊を案内した。

〈ところで、これから会おうとしている那智という男には何か用があるのか〉

 カミオカは、マンションを出る前に榊が打ったメールの内容で、これから那智という人物に会うことを知ると、榊の脳の記憶原野から那智の人物データを読み込んでいた。

 氏名、那智海翔(なちかいと)年齢24歳、榊の中学時代の一つ下の後輩、歌舞伎町に事務所を構える暴力団組織に所属しているが、それがどこの組織かは榊自身に興味がないため、わからない。榊にとっては可愛い後輩にすぎないようだ。

「何しに来るっていうか、別にこれといった用がある訳じゃねぇよ。ただの後輩だ。一緒に飯食って、世間話して、銭になりそうな話があれば、首を突っ込むこともあるけどな」

〈来たぞ、あれじゃないのか〉

 見ると通りの向こうから、中央分離帯の柵を乗り越えようとしている那智が、店内の榊に向かって手を振っている。小柄でやせっぽちにみえるが、はだけたオープンシャツの胸元のに覗いている胸筋の膨らみは、試合前のボクサーのようだ。

 那智は行きかう車の流れを殺さずに通りを渡りきると、ダメージジーンズのポケットに片手を突っ込んだままガードレールを跨いだ。だらしなくずれたサングラスから、おどけた表情と瞳が覗いている。

 不意に脳の処理速度が上がった。青梅街道を走る車の動きがスローになり、那智はひどく緩慢な動作でファミレスの入り口をくぐろうとしている。

「カミオカ、何やってんだよ今は必要ないって言っただろ。ただでさえ半端なく疲れんだからよ」

〈話しておきたいことがある。那智という男の表情は、おどけ顔じゃないぞ〉

「あのなあ、那智は敵じゃねえんだよ。こいつは自分の組のことより俺たちの繋がりを大事にする男なんだ。表情なんて気にしなくていいよ」

〈通りの向こうを見てみろ、彼は見張られている。しかも彼はそれを承知している節が見受けられる。せいぜい気を付けるんだな〉

 そこで世界は通常の流れを取り戻した。

 那智は、あっという間に榊が座るテーブルにたどり着いて無言のままサングラスを外した。いつもの元気な挨拶を省略している。どうやらカミオカの言ったことは的外れではなさそうだ。通りの向こうに視線を向ける。

「兄貴、外を見ないでください」

 喧嘩で潰れた拳を握りしめた那智が、目を見開いて訴えた。血の気の引いた青い顔で、無理に笑顔を作っている。こんなに怯えたような那智を見るのは、初めてのことだ。

 ウエイトレスが水の入ったグラスとおしぼりを置いていった。

「お前、何かやらかしたのか」

 榊は店のメニューを那智に渡して、自分もメニューを開いた。

 那智は、メニューの上から上目遣いで、榊をのぞき込む。

「やらかしたのは、兄貴の方ですよ。一体何をしたんですか。通りの向こうに黒のレクサスが止まっているんですけど」

 榊は店のメニューを開いたまま視界の隅で通りの向こう側の黒い車を捕らえる。

「奴ら、竜神会の朝倉の若い衆ですよ」

「ちょっと待て、俺は奴らに何の関わりもねえぞ」

 あまりの縁遠さから、いまいちピンとこない。

「朝倉が兄貴を指名手配しているのは、確かです。奴ら今日の朝方から俺たちに張り付いてます」

「俺たちって、鬼瀬と亀山にもか」

 鬼瀬と亀山は同級生で、那智と同じく歌舞伎町で活動する暴力団員だが、所属する組は、それぞれ違っている。

「はい。俺も最初は鬼瀬の兄貴から聞いたんです。竜神会が公平を探してるって」

 那智は、注文を取りに来たウエイトレスに、アイスコーヒーを二つ注文した。正直言って、今はその竜神会の事よりも飯を食うほうが大事だったが、ここでハンバーグランチの大盛なんか頼んだりしたら、那智に本気で怒られそうだからやめておくことにした。それにしても、行き過ぎた空腹は睡魔さえ運んでくるということを俺は今、身をもって体験している。寝落ち寸前の状態を那智に悟られないようにするのは、拷問以外の何ものでもない。

「やつら俺たちと兄貴の関係を嗅ぎ付けたみたいで、ああやって俺が兄貴と接触するのを待ってるんですよ」

「お前、俺を売るつもりでここに来たんじゃねぇだろうな」

 自分の美学に泥を塗られるのが人一倍嫌いな那智は、目を大きくして反論する。

「違いますよ。鬼瀬の兄貴に、今日兄貴に会う約束をしているって話したら、行って逃がしてこいって、頼まれたですよ。奴らも店の中までは、乗り込んできませんから、兄貴はこの店の裏から出てください。裏には鬼瀬の兄貴の舎弟が車で待っています。そいつが亀山の兄貴が用意した隠れ家まで連れていく手はずになっているんで。兄貴は今からトイレに行くふりをして、そこの厨房から出てください。それとこれを渡しておきます」

 那智は懐に忍ばせていた紙袋を、テーブルの下から榊に差し出した。

 受け取った榊は、那智に促されてテーブルから立ち上がる。

「それ、金と飛ばしの携帯端末が入ってます。逐一連絡を入れますんで。さぁ早く行ってください」

 早く行けという那智には申し訳ないが、厨房に足を踏み入れたら、つまみ食いをしてしまうかもしれない。

「那智、ありがとな。鬼瀬と亀山にも礼を言っといてくれ」

榊は、二人分のコーヒー代をテーブルに置いて奥の厨房に向かった。


〈竜神会の朝倉という人物のデータが見付からない。本当に面識はなさそうだな〉

「一ミリもねぇよ。竜神会っていったら今、新宿で一番イケイケの組織でよ、朝倉は若いけど会長だ。俺みたいなモグリの探偵がおいそれと会える玉じゃねぇ」

 厨房に入ろうとする榊の前に、ウエイトレスが立ちはだかった。

「ちょっとごめんよ」 

「お客様こちらには立ち入りできま、、せ、、ん」

 ウエイトレスは、そのセリフを言ってるそばから殆んど動かなくなった。というより視界の動くものが全てがスーパースロー再生のようになった。しかも今度は榊自身のことを残してだ。

〈さっきの注文通り、君の身体能力を同時に引き上げている。今のうちに早く出口を探し出して、ここから脱出するんだ〉

「こりゃ有難い」

 榊はマネキンのようになったウエイトレスをかわして厨房に侵入した。

「意外と広いんだな」

 しかし出口は一目瞭然だった。榊はいくつかの調理台と、何人かの白衣のコックの脇を悠然とすり抜けて裏口から外に出た。

 ウエイトレスには、目の前にいた榊が消えたようにしか見えた。厨房にいたコックにいたっては、誰一人として榊が横切って行ったのに気付かなかった。

 裏通りに出ると、少し離れた場所から紺色のボルボがパッシングをして、するりと動きだすと榊の前で停止して運転手が中から助手席のドアをあける。

「榊さんですね。乗ってください」

 榊は乗り込むや否や、ドアを閉めると極度の披露に襲われて、たちまち昏倒してしまった。ボルボは西に進路を向けて走り出した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る