第5話 治癒

「それで、お前は俺の身体が動かせたらどうするつもりだったんだ」

 不具合は、再起動すればだいたい解決する。しかし俺の脳みその不具合は、まだ解決されてはいないようだ。これはひょっとしたら重症なのか。病院を抜け出してきたのは間違いだったのかもしれない。

〈どうもこうもない、自分の肉体を持たない今の私は睡眠を必要としないのだ。肉体の動作機能が停止している君の肉体の中で、ただじっとしているのが我慢ならなかっただけだ〉

「暇でしょうがなかったってことだろ、なら今はどうなんだよ。俺の身体を乗っ取って顔でも洗ってみろよ」

〈本当にいいのか、もし君の身体を乗っ取ってそのまま街に出て無差別殺人でも始めたらどうするんだ〉

 僅かな沈黙のあとに榊は答えた。

「別に構わねぇよ。面白そうじゃねぇか」

 冗談のような口調だが、脳内の感情を表すパルスをモニターできるカミオカには、それが少なくとも嘘ではないとわかる。

 まるでこの男はいつ死んでもいいと思っているかのようだ。

〈なるほど、タイムスリップしたのが君の身体で良かったと、今初めて思えたよ〉

「なんだ急にかしこまって」

〈普通なら、こんな非現実的な状況をすんなりと受け入れる人間なんて、そうそういるもんじゃない。精神が破綻してもおかしくないだろう。君にかけた一言目をどれだけ躊躇したことか、しかし君はあっさりとそれを受け入れてくれた。改めて礼を言わせてもらう〉

 どうやら再起動の効果は、少しはあったようだ。しかし、この期に及んで俺の精神が破綻していないと思っているところがまだ甘い。

「つまんねぇ日常に退屈していただけだ。それよりどうだ俺の身体、動かしてみろよ」

 榊はベッドの上で両手足を投げ出して目蓋を閉じる。

 なんと協力的な男なのだ。カミオカは榊の身体機能を司る神経中枢群に触手を伸ばした。しかし寸でのところで、それを思いとどまったのは、それが正しい方法ではないと気付いたからではなかった。むしろこの方法しかないと、榊の眠った肉体の中で、あらゆる方法を試みた結果、確信していた。この方法こそが、新しい肉体に意識を移し替える研究を成功させるひとつの道筋でもあるはずだ。この収穫だけで、私のタイムスリップは意味があったと言えるだろう。だからこそカミオカは、思いとどまったのだ。

 榊の意識に成り代わって、榊の身体を動かすことは、さほど難しいことではない。まるで車の運転を変わるのと同じようなノリだが、もう二度と戻れなくなる可能性もある。それは同時に100年後の未来に帰れなくなることはもちろんのこと、何よりも宿主である榊の意識の行方がどうなるか想像もつかないのだ。

〈駄目だ、方法が見付からない〉

 カミオカは、嘘をついた。

「なんだ期待していたのによ。じゃあしょうがねえ、自分で顔を洗うとするか」

 カミオカの試みが上手く行けば、俺の頭のいかれ具合は、一段ステージが上がるはずだった。ところが、俺のいかれた部分は言い逃れをしやがった。

 榊は洗面所で顔を洗ってタオルで拭いた。鏡に向かって髭の具合を確認する。濃い方ではないから、毎日そる必要はない。手のひらにスキンクリームを付けて、頬をマッサージする。それを終えてリビングに戻りかけるが、違和感を覚えてもう一度鏡に自分の顔を映した。

「嘘だろおい……、腫れが引いてる……、」

〈君が寝ている間に、私が治しておいたんだ〉

 カミオカは、壊れたテレビを直しておいた、というようなノリで応じる。

「マジかよ、何もできなかったんじゃねえのかよ」

〈できなかったのは、休眠状態の身体を動かせなかっただけだ。眠っていても身体の治癒力は機能している。その機能を促進させた〉

「す、すげえよ。本当にすげえよ。ってかお前って本当に実在してんのかよ」

 榊は、跡形もなく治癒している自分の顔を撫でまわしながら、うわ言のように「すげえよ」を繰り返し、いつまでも鏡の前から離れようとしなかった。

 俺の頭は異常無しなのか。それとも、いかれ具合が突き抜けて超能力でも発現したか。

〈ところで、腹が減ってるだろう〉

「腹なら尋常じゃないくらい減ってるけどよ。それより怪我したのが嘘みたいだぜ」

 やがて榊の興味は抗いがたい空腹に侵食されて行く。これまた異常な空腹だった。空腹に支配された榊は、キッチンの戸棚にしまってあった食パンを出して、生のままかぶりつくと、あっという間に平らげてしまった。

「食パン一斤くらいじゃ、腹の足しにもなんねな」

〈当然だ。全治二週間以上の怪我が、ひと眠りで完治したんだ。食パンなんていくら食べても、この飢えは凌げないはずだ〉

「そりゃあ、もっともだ。飯でも食いに出るか。ちょうど人と会う約束もあるしな」

 榊は待ち合わせを近所のファミレスに指定するメールを打って、支度をすませると自宅マンションを出た。

「それにしても、助かったぜ」

 腫れが引いた感動はまだ収まっていない。

〈そんなに嬉しいのか〉

「当たり前だろ、あんなに顔が腫れてたら、しばらく外も歩けなくなるからな」

〈実は私も、人間の身体を、内部から観察できることに、些かの感動を覚えている。元の世界に戻れる日が、君のお陰で楽しみになった。それから、身体機能の促進は治癒能力だけではないぞ〉

「マジかっ」

 思わず飛び出した感嘆声に、すれ違った通行人が怪訝な表情を向けながら遠ざかって行く。いつもなら睨み返すことろだが、榊は首を竦めた。

「俺たちアホだと思われてんだろうな」

〈いやアホだと思われているのは、君だけだ。外ではいちいち声に出さなくてもいいぞ〉

「お前、それを早く言えよ」

 それでも榊は、声に出して話を続ける。

「だけど黙ったまま、お前と会話してる絵ずらは、気持ち悪いからやめとくわ。それよりも他にどんなことが出来んだよ」

 次の瞬間、気圧の変化で耳が遠くなるのと同じ感覚に陥った。世界の全てが分厚い防音ガラスの向こうに行ってしまったかのようだ。青梅街道を走る車の列がノロノロと進んでいる、通りはいつも慢性的な渋滞だが、いつもと様子が違う気がする。不意に鳴り出した、やけに間延びする電子音に反応して、後ろに振り返ろうとするが自分の身体も思うように動かせない。世界のあらゆる動きが緩慢になっていた。

 ようやく振り返ると、間延びした電子音の正体がコンビニの自動ドアだったとわかる。たっぷりと時間をかけて、開いたガラス扉の奥からサラリーマンが、スローモーションで出てきた。空を仰ぐと灰色のうろこ雲を背にした一羽のカラスが、これまたスローモーションで飛んでいる。

 体がやけに重い。カミオカ、お前一体なにをしたんだ。


 世界が元通りの動きを取り戻した。街の喧騒が榊の両耳に押し寄せる。

「なんなんだ今の、説明しろよ」

 コンビニから出てきたサラリーマンが榊に振り返った。例によって怪訝な顔をしている。

〈確実にアホだと思われているな〉

「ぶっ殺すぞっ」

 サラリーマンはスマホを片手に走り去って行った。


〈今のは君の脳の処理速度を上げたんだ〉

「俺には時間の何もかもが遅くなったようにしか感じなかったぞ」

 空を見上げると、さっきのカラスはもうどこにもいない。

〈極度に緊張が増した時に引き起こされる現象があるだろう、例えば大事故に遭遇した時、その瞬間が遅く感じたりするだろう。あれこそ脳の処理速度が上がった時に起こる現象だ〉

 確かに、ガキの頃にあった交通事故で、自分に迫ってくる車のヘッドライトの形状や、運転手の驚愕した顔を今でもよく覚えている。

 こいつは、人間が極限状態の時にしか発揮できない能力を操れるというのか。「さっきの現象の中で、俺の身体は早く動けるようにならないのか」

〈やろうと思えばできるが、肉体にどんな負担が掛かるか分からないぞ。やってみるか〉

「いや、今はいい」

 話しているうちに目的のファミレスの前に着いていた。

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