第4話 部分喪失

 もし、カミオカと名乗る人間が目の前にいるとしたら、とっくに家から追い出しているに違いない。荒唐無稽な与太話をここまで真剣に話すのは、新宿ではシャブ中くらいのものだ。だけど俺はシャブなんか食ったこともないから、この与太話が俺の頭からひねり出されているとは思いたくねぇ。まぁどうでもいいが、耳をふさいでいたって聞こえてくるんだ。取り敢えずは相手をしてやる。


〈実験が失敗するたびに、チンパンジーの意識は、元の身体に戻すことになる。それでもチンパンジーの意識が宙に浮かされているのは、ほんの僅かな時間だし、一度実験に使ったチンパンジーの個体は意識が定着するのに時間がかかるため連続では使用できないといった事象が重なり、気づくのに長い時間を要することになってしまったが……〉

「チンパンジーがタイムスリップしているとこに気が付いたってか」

 もし、カミオカが目の前にいたら、最後にとっておいたショートケーキの苺を奪われたような顔をしているに違いない。こいつはほっといたら長くなるタイプだ。実に面倒くさい。

〈……そ、そういうことだ。しかし、我々の研究はあくまでアンチエイジングだったんだ。そこに時空間の歪みが発生しているなんて、思うわけがないだろう〉

「別に時間が掛かったからって言って、馬鹿にいちゃいねえよ。それよりお前の話、もっと短くしてくれねえか」

〈必要な話しかしていないつもりだが、なるべく簡潔にすませるようにしよう。とにかく我々は、チンパンジーの意識が、肉体から遊離している間に過去の世界を見て来ていることに気が付いた。その時点から研究は違う方向へシフトしていった〉

「タイムスリップにか」

〈そうだ、その後の研究で遡る時間の割合をコントロールする理論が確立された。それと同時にこの技術が確立した時の運用法も議論された〉

「おいおい、また長くなりそうだな、取り敢えずお前が俺の身体の中にタイムスリップしてきた目的から話してくれよ。その調子だと旅行じゃなさそうだな」

〈個人的にも歴史には興味があったが旅行ではないはずだ〉

「はずだって、他人事みたいに言うんじゃねぇよ、ってまさかお前」

〈少し、時間をくれ〉

「お前、わざわざ100年後の未来からやってきといて、目的をど忘れしたっていうんじゃねえんだろうな」

 心臓のあたりが急に重く感じだした。その重さに引かれて顔面から血の気が失われて行く。

〈そんな大事なこと、ど忘れなどするものか、事態は深刻を極めている。恐らくタイムスリップの影響だろう。私は部分的な記憶を完全に喪失してしまっている〉

「それが、ど忘れとどう違うんだよ。目的を忘れたんならとっとと出直してこればいいじゃねぇか。そんでもって次に来るときは、俺のところに来るんじゃねえぞ」

 実体があれば間違いなく胸倉を掴んでいるところだ。

〈時期に思い出すとは思う。この件については君に協力をお願いしたい〉

「冗談じゃない断る。何が時期に思い出すだ。事態は深刻を極めてるんじゃなかったのか。帰ってくれよ、俺は忙しいんだ」

〈帰りたいのは山々だが、戻る時期はタイムスリップする時に予め設定されている。ちなみにその設定時間も記憶の喪失に含まれている。それから、チンパンジーのくだりで説明したが、一度肉体から遊離させた意識が元の肉体に定着するのに時間が掛かること、私自身がタイムスリップ第1号だということを考慮すると、直ぐに元の世界に戻るように時間設定されているとは思えない。ということを付け加えておく〉

「ふざけんなよ、手前ぇ。迷子の子犬みてぇな立場でその態度かよ、頭丸めて土下座してお願いしろってんだ。あっチキショッ」

 思わず立ち上がった拍子に、膝がテーブルに当たってマグカップがひっくり返った。

〈申し訳ないが、頭を丸めるのも、土下座をするのも想像してもらうしかない。しかし、私は決して君の邪魔にはならないはずだ。先ほどの病院の時のように、それがどんなに不法行為でも君の目論見には、協力を惜しまない〉

「なんか、人聞きの悪い言い方だな、邪魔にならなきゃいいけどよ」

 つい本気で相手をしてしまう自分に嫌気がさしてくる。

 榊は、づきづきと痛む顔面を気づかいながら、口元に笑みを浮かべていた。

 榊のこの笑みが作り物のでないことくらは、カミオカにも理解できた。殆んど無意識によるものだ。しかしその微妙な人間の機微が隠されている広大で極めて複雑な脳空間のいたるところで同時多発的に一瞬で明滅を繰り返す神経パルスを捉え、この笑みがいつ以来のものか理解できるほどに、カミオカはまだ、他人の心臓にへばりついている状態に慣れてはいなかった。初めて手にした電子機器を興味本位だけで弄りまわしているのと大差がなかった。

 榊がひとつ大きな欠伸をした。


 西新宿の高層ビルに反射した朝の光から逃げるように榊は立ち上がった。

「取り敢えず、寝る。お前その間どうしてんだよ……」

〈……〉

「暇っだら夢にでも出てきて顔見せてみろよ。なんだったら俺の身体使ってもいいし」と冗談とも本気ともつかない言葉を残して、榊は着替えもしないでベッドにひっくり返ると1分もしないうちに眠りに落ちてしまった。


 一方でカミオカは、ひとかけらの眠気も感じていなかった。

そもそもが睡眠を必要とする肉体を持っていないのだ。眠くならないのは道理だ。この状態が続く限り今後も睡眠を必要とすることはないだろう。あるいは、榊が今貪っている眠りの半分は、自分のせいかもしれないとも思う。

「なんだったら、俺の身体使ってもいいし」

覚醒を失った榊の体内に残されたカミオカにとって、それは願ってもない提示だったが、肉体が休眠状態になっている間は、おいそれと動かすことが出来ないのはわかっていた。俗に言う金縛りの状態なのだ。それでも何とかならないかとカミオカの試みは、次に榊が目を覚ます昼すぎまで続けられた。

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