第3話 カミオカ

「はぁ、100年後だって」

 思わず上げた声が、寝静まった住宅街に響く。

〈落ち着くんだ。今は自宅に戻ることが先決じゃないのか。足を動かすんだ〉

 いちいち命令口調なのが癪にさわる。

「そんなことわかってんだよ」

 榊は再び走り出した。


 100年後の未来から来ただと。

 榊の思考は、そこから先に進まなくなった。半ば放心状態のまま力なく走り続ける榊に、その都度、道を曲がる指示をだして自宅マンションに向かわせたのは、カミオカと名乗った男の声だ。カミオカは、この辺りが地元じゃないと知らないはずの道に行けという。最短というよりも人目を避ける最適なコース。それは、つい今しがた自分が思い描いていたのと同じ道程。ガキだった頃にはなかったマンションの敷地を抜けるために、フェンスに足をかける。首をかしげるよりも先に、顔がにやけだした。最早考える気にもならなかった。


 他人の指示に身体を任せるのは、意外と楽だということに気づいた時はもう、自宅マンションのソファーに腰を下ろしていた。テーブルの上で湯気をたてているマグカップのコーヒーは、まるで人に淹れてもらったかのようだ。

〈少しは落ち着いたか〉

「あぁ」 

 どうやら、こいつはこっちの精神状態まで把握できるらしい。


「さてと、俺の頭がいかれてるのかどうか証明してくれよ」

 榊は、目の前に交渉相手が座っているかのように前を見据えながら言った。

〈まず最初に、君の頭がいかれているかどうかは、知り合ったばかりの私にはわかることではない。知りたいのなら病院に行くがいい。それと私は君の脳の中にいるのではなくて、君の心臓と繋がっている〉

 思わづ左胸に手がいく。

〈説明はしにくいが、私は君の心臓を流れる血液の量や速度、あるいは身体の神経に走る微細な電気信号をキャッチして君の思考を推測しているに過ぎない。要するに君の思考が読めるということじゃない〉

「ちょっと待てよ、病院からこのマンションまでの道程のことは、どう説明する」

〈あれは、君の思考を読みっとわけじゃない、脳の記憶媒体から引き出された情報がのった電気信号をキャッチしたんだ〉

「はぁ、意味が分からねぇ、、、あいててて」

 顔をしかめると、顔面に鈍痛が落ちる。自分が怪我人だったことを、まざまざと思い出した。

〈何の料理を作るかわからないが、買い物袋の中身は覗けるということだ〉

「お、お前、元の世界で友達いなかっただろう。まぁいいやカレーになるか、肉じゃがになるか、わかんねぇっことだろ。それでも大概あたってるけどな。さてはお前、料理人だろ」

〈そう言ってもらえると、私も嬉しいよ〉

「別に褒めてるわけじゃねぇよ。何もんだお前」

カミオカは、榊の質問を無視して続ける。

〈それから私は、君が無意識でも脳に入ってくる情報なら共有できる。病院で看護師の巡回に、君より早く気付くことができたのは、そういうことだ〉

「あくまで、俺の身体を利用してるってことか」

 顔面の怪我が、僅かな感情の起伏に反応して結構痛い。榊はゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。

「それから、脳の記憶媒体がどうのって言ってたけど、俺の事はどこまで理解している」

〈経歴はだいたい把握できている。東京出身、年齢は今年で25歳、職業は探偵業だが協会に加盟しているわけでも、どこかで特殊な訓練を受けたわけでもないから、モグリの探偵といったところか。それでも裏稼業の人脈は広く、というよりも友人、知人が多く立場上の都合のよさから仕事に困ることは殆んどない。主な仕事は、身辺調査や人探し等、と至って普通の探偵業のようだが、そうして得られた成果は何らかの犯罪へと繋がってゆく。そのことは、十分理解しているがそれ以上は考えないことにしている。そして昨晩は、ある暴力団組織の幹部から依頼された愛人の浮気調査をしているところ、その愛人と浮気相手の男が歌舞伎町のラブホテルから出てきた瞬間を撮影することに成功したまではよかったが、浮気相手の男にそれがバレてしまい、殴りかかられて気絶。その後、通行人により119番通報され……〉

「そこまででいい、究極のプライバシーの侵害だな」

 ここまで客観的に語られると、自分の事とは思えなくなってくるから不思議だ。探偵業は、自分の中では必要悪だと解釈していたが、これじゃあ社会のゴミ屑以下だと卑下したくもなる。

「次はお前さんの番だ。一体なにがどうなって100年後の未来からやって来た。まさか旅行でやって来たとは言わねえよな」

〈私は、100年後の世界では、大手化粧品会社の開発研究部門で働いていた。専門はヘルスケアでアンチエイジングの研究をしていた〉

「ちょっと待てよ、お前男のくせに化粧品会社かよ」

カミオカは榊のくだらない偏見を無視して続ける。

〈あと数年もすれば、自分の細胞から体の好きな部位を作り出して、移植ができるようになる〉

「それなら俺だって知ってるよ。何とか細胞ってやつだろ」

〈……、その通りだ。100年後には、短時間のうちに予め設定した年齢で、自分の身体を丸ごと作りだせるようになる〉

「自分がもう一人作れるようになるのかよ、すげぇな」

 ということは、映画の話のように自分同士で話をしたりする事ができるようになるのだろうか。しかしその疑問は、すぐに答えが提供される。

〈だが作り出せるのは、あくまで人体のみに限られる。身体を丸ごと作り出してもそこに意識が宿るということはないんだ〉

 カミオカは、榊の顔を実際に見ることはできないが、身体反応から榊が少しがっかりしているのを感じとっていた。

〈しかし、そこで考え出されたのが、作り出した意識のない身体に自分の意識を移し替えるということだ。これがどういう事かわかるか〉

 カミオカが榊に尋ねた。

「若返りってやつか」

〈そうだ若返りだ、しかも作り出した時点で基礎疾患は取り除いてある。これこそ究極のアンチエイジングというものだ〉

「100年後の未来は不老不死が実現してるってことか」

〈その通りだと言いたいが、100年後の未来もそれは実現していない。動物実験でさえ成功はしていない。だが話はここからだ。我々は、実験に使っていたチンパンジーの意識に不思議な現象が起きている事に気がついた〉

 榊は、大きなあくびをかみ殺していた。

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