第2話 100年後の未来から
榊 公平は、消灯時刻の過ぎた病院の個室で目を覚ました。
廊下の非常灯のせいで室内はぼんやりと緑がかっている。
上半身を起こすと、それがいけなかったかのように右頬がジンジンと脈打つように痛み出してくる。そっと触れてみると目尻のあたりが熱をもって腫れあがっているではないか。
「くそっ、なんだよこれ、痛えなぁ」
まさかいきなり殴られるとは思ってもみなかった。その一撃で病院送りにされたらしい。
そばの棚には、自分の財布やスマホといった私物が並べてあった。その中からボディが歪み液晶がひび割れた銀色のデジタルカメラを手に取り、メモリカードを引き抜いた。
「あの野郎、覚えとけよ」
その、メモリーカードをジーンズのポケットに忍ばせると、ステンレスベルトの腕時計をはめる。時刻は午前3時を回ったところだ。このままここで朝を迎えるわけにはいかない、朝には警察官が事情聴取にやってくからだ、立場は被害者でも叩かれれば埃はいくらでも出る身だ、何がやぶ蛇になるか分かったものじゃない。殴られたのは午前1時前。顔面に治療の後は無い、湿布すら貼られていない。ただ2時間ほどここで寝ていただけということになる。この個室使用料がいくらになるのか知らないが払うつもりは毛頭ない。仕事中に身分のわかるものを携帯しないようにする習慣が幸いした。
俺は早々に立ち去るつもりで、ベッドから足を下して靴を履いた。廊下に人の気配はないが、そのうち看護師が巡回してくることだろう。
「だけど、ここはどこの病院だ」
殴られたのは新宿歌舞伎町だ。しかも深夜で被害者の身元が分からないとなると行くとこは大体決まっている。
〈大久保の春川外科病院さ〉
その声は、さも当たり前のように答えた。
「ああ、やっぱりな、今どきこの古臭い感じのは春川しかって…」
だっ誰だ。
榊は息を殺して動きを止めた。薄暗い病室内に視線だけを巡らせてみる。他人の気配は全くない。気のせいか。いやそんな訳がない。ここが春川外科だと今、確かに教えられた。
「誰か、いるのか」
次は、どこから聞こえようと逃さないつもりで言った。
しかし、返事はない。
「…バカ臭え」
榊はため息をつくとベッドから降りて、財布やスマホをポッケに突っ込だ。依然として人の気配はない。その足で窓辺に寄ってクレセント錠を解除して窓を開けた。
生ぬるい風が腫れた頬をなでる。この病室が2階だったことがわかる。見上げると狭い空は、なぜか汚れたように見える新宿のものだ。正面の通りがすぐ先で車道に合流している。よく知っている小滝橋通りだ。ここは春川外科病院に間違いなかった。
西新宿にある自分の自宅は、ここから直線距離で一キロも離れていない。位置情報が確認できたことは、旅先から戻ってきたような安堵感を覚えもするが、ここが春川外科だと告げた先刻の声が余計に気になりだす。
〈来たぞっ、ここから飛んでしまえ〉
まただ。やっぱり誰かいる。
しかし、今はこの声に構っている場合ではなかった。振り返ると、懐中電灯の光が廊下を照らしている。間もなく巡回がくる。
榊は窓の桟に片足をかけて身を乗り出した。2階とはいえその高さにゴクリと生唾を呑み込む。それでも病室の扉が開く気配が、榊の背中を押した。
膝をクッションさせて着地しても両足の甲に割れるような痛みが走る。その場で背を丸めて両足を抱え込んだ。
「チキショー、いてぇ」
「大丈夫ですか」
たった今、飛び降りた2階の窓から白衣の看護師が叫んでいる。
目が合った。
「だ、大丈夫です。ちょっと痛いけどたいしたことはありません」
榊はフラフラと立ち上がり軽く足踏みをして「どうもお世話になりました」と言い残すと、全力でその場から逃亡した。
俺には、窓から飛び降りる直前に忘れ物はないかベッド周りを一瞥する余裕があった。看護師と目が合った瞬間、その顔を見るや、もしやこんなに綺麗な看護師と知り合いになれるチャンスを棒に振ったのではあるまいかと、後悔の念が渦巻いた。それと同時に、あの場から自宅まで、警察に通報されることも考慮した安全なルートを検索し、瞬時に走り出す方向まで決めた。
要するに俺は、頭部に打撃を受けて顔面を腫らしているが、思考するにあたっては男としても極めて健全であり正常で冷静な判断力を維持しているはずだ。とても頭がおかしくなったとは思えないが、2度目に聞こえた声で、はっきりした。あの声は外部からのものではない。それが証拠に2度目の声は、俺が口に出した言葉に反応したものではなく、病院を抜け出そうと目論んでいる俺の行動を読んでアシストするものだった。
あの声の主は、俺の頭の中にいる。
頭がおかしくなるというのは、こういうことなのかもしれない。
榊は、静まり返る北新宿の住宅街に入ると走るのを止めて歩き出した。
「てめぇのせいで、心の準備もなしに飛び降りる羽目になったじゃねぇか」
〈それは心外だな〉
あの声が返ってきた。背筋がゾクリとして足が止まる。まるでツチノコか何か発見したような心境だ。できるなら、尻尾でも掴んでお前は何者だと問いただしたいところだが実体がないからそうもいかない。
榊は黙って耳を傾けるしかなかった。
〈あの時、看護師の巡回がくるという知らせは、病院を抜け出そうとしていた君にとって極めて有益な情報だったはずだ。あの状況では、ベッドに戻って寝たふりをする余裕もなかったと思うが、それともあの看護師が思わず綺麗だったことに対する、後悔からの八つ当たりか〉
明らかに自分の思考が読まれている。それが八つ当たりだと指摘されて、こちらが初めて気が付く始末だ。こいつにキレイ事や建前など通用しない。今さっきとは別の意味で背筋がゾクリとした。
しかし、いきなり人の頭に入り込んできて挨拶もなしに上から目線で語られると腹が立ってくる。
〈すまない、自己紹介が遅れた〉
やはり完全に思考を読まれている。それにしても俺の頭は一体どんな壊れ方をしたんだ。
〈私の名前は、カミオカ。今から100年後の未来からやってきた〉
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