第8話 いきなり
昨日は少しイライラしたので今朝はパウンドケーキで取り戻そう。
僕は封を切る前に商品情報やパッケージをよく見る。職業柄そうなのかもしれない。
手にとりたくなるパッケージはどんなものかを無意識に探している。
そうしていつも通り原材料をチェックする。フルーツの名前がたくさん書いてある、神宮司先生の言う通りこれは愉しみだ。
そのまま視線を右に流していくと「洋酒」の文字を見つけた。そうか、洋酒漬けのフルーツが入っているんだ。車で通勤しているので、今食べるのはやめておこう。
代わりにハイカカオのチョコレートを一口つまんだ。
出社すると、隣の席に河内がいなかった。他の部署へ応援に行っているらしい。昨日の今日なので少しホッとする。
「あの……」
控えめに声をかけてきたのは月岡さんだった。
「河内さんて嫌われているんですよ! コピーとか雑用ばかり押しつけてきて偉そうにしてて。昨日のセクハラだって許せません」
月岡さんが感情的に発言をする。普段は明るく社交的な人なので少し驚いたが昨日のセクハラは僕も見逃せなかった。月岡さんの怒りは当然だ。
湊さんが心配そうに見守っている。湊さんは優しくて気遣いが上手な人だ。
昨日もし湊さんがいたとしたら河内のセクハラ発言をすぐに止めただろう、柔らかい空気で。いや先輩がいるところではセクハラ発言はしないだろうか、河内は調子のいい奴だ。月岡さんは室長に河内のセクハラを報告したと言っている。
室長は今日、出勤している。
この事務所では二人が向かい合わせで三列、計六つの机が並んでいる。その先頭、というか上座というのか、王座に室長の机がある。
室長は女性でかなりのキレ者だ。どうして管理職にならないのかと不思議なほど仕事ができる。あと化粧がとても上手らしい。僕はよく分からないけれども女子社員の間では有名らしい。
確かに室長は美人だと思う。よく「新色よ」と言って女子社員同士で盛り上がっている。なんの新色かは分からないけれども。
僕がプレゼンの資料を考えている時に「ストローやカップに口紅がつくのを女性は気にするのよ」とヒントをくれたこともある。
「あと昨日聞こえちゃったんですけれど、河内さんって漫画が流行っているの知らないんですかね? オシャレな子ほど漫画やアニメに詳しいのに」
月岡さんの表情が緩んでくる。嬉しかった。やっぱり漫画は愉しいものなんだ。
事務所の扉が開く、河内が戻ってきた。忘れ物でもしたのかと思ったが室長に連れられてそのまま出て行った。河内は青ざめた顔をしている。
月岡さんは「ふふん!」と勝ち誇った顔をしている。
聞くと昨日のセクハラ事件で課長に呼び出されたらしい。河内の自業自得だ、昇級はきっとないだろう。
昼休みもあと五分という時、月岡さんが話しかけてきた。「最近映画見ましたか?」とか「新しくできたスタバに行った」とか他愛ない話題だった。
月岡さんは社交的な人だけれど、僕にこんな風に話しかけるのは珍しい。
適度にフレンドリーに反応しておいた。昼休み終了の鐘が鳴る。月岡さんからそっとメモ用紙を渡される。
―今日の帰り、相談したいことがあります。会社近くの公園に来てもらえますか―
会社近くの公園で、月岡さんに告白された。
相談だというのでてっきり河内に関することかと思っていた僕は驚いた。
「あの時セクハラから助けてくれたのも嬉しいし普段から黙々と仕事をこなすのもいいなって思ってました」
月岡さんは時折上目遣いで僕を見上げて、時折視線を外して恥ずかしそうに言った。ま、まじか。月岡さんってこんなに可愛かったっけ? と失礼なことが浮かんだ。
「返事は今すぐじゃなくていいです」
そう言って月岡さんは行ってしまった。
気づいたら自分の部屋にいた。多分いつも通り運転をしていつも通りの道を通って帰宅したのだろう。
月岡さんの返事を考えなくては。けれども考えがまとまらない。今は興奮している時期なのだ。ちょっと寝かせよう、一旦離れよう。とりあえず次の話を考える。
ノートに思いついた単語を書き並べる。キャラクターの特徴も浮かんだら次々と書いていく。順番などは決めずに思いついた単語を並べる。漫画を描く時の僕の最初の作業だった。
高校生、男女、男女交際、デート……。恋愛ものに片寄っている……。
自分には恋なんて無縁だと思っていた。漫画に登場するキャラクターで可愛いな魅力的だなと思う女の子はいるけれども創作物だと分かっている。自分が漫画を描くために漫画の世界に入り込んでいるのも分かっている。
公務員や有名企業に勤めている友人がいるので時々合コンに誘われる。漫画のネタになると思って参加している。高校生の時に別れた彼女以来、恋人はいない。いつも漫画が優先だった。
その夜はなかなか寝つけなかった。
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