第7話 嫌な同僚

「なに? まだなにかあるの?」


 お湯を注いでいる最中に話しかけられても困るので、僕はお湯を注ぐ前に自分から声をかけた。


「ダイエット終わったら食べるからそれ、ちょーだい」


 姉ちゃんは明らかにパウンドケーキを指さしている。嘘でしょ。しかしパウンドケーキが二個あるのは見られている。仕方ない。


 このあとの姉ちゃんの台詞も想像がつく。ああ、神宮司先生と同じ感想を共有できるチャンスがまた遠のいた。


「はい、どうぞ」


 僕は無表情でパウンドケーキを渡した。どのみち渡すのだ、ここで渋ったらさらに文句を言われるのは分かりきっている。


「ありがとう。あと、あんたも今食べちゃだめだよ」


 やっぱりそう言う。ダイエット中の姉ちゃんの食べ物への執念は少し異常だ。

 恐らく僕がコーヒーだけを持って部屋に行くのを確認するまで見張っているだろう。

 自分だけがお菓子を食べられないイラ立ちが理不尽だと勘違いして僕にぶつけている。ぶつけられた僕はもっと理不尽ですが。


 僕は無言で一番高いコーヒー豆にお湯を注いだ。最初に少し蒸らす時間は自分の感覚で秒数を数える。砂時計が欲しいなぁ。

 蒸らしたあとは円を描くようにお湯を注いでいく。高貴な香りが満ちて、少しだけ落ち着く。


「じゃ、熱いうちに飲むから僕は部屋に行くね」


 一応断りを入れてから姉ちゃんから離れた。姉ちゃんは空腹のイラ立ちとパウンドケーキをもらった嬉しさ、両方の感情が入り混じったなんともいえない表情をしていた。少し不気味だ。



 僕は部屋に常備してあるチョコマシュマロをつまんだ。

 ダイエット中の姉ちゃんは少し怖いけれど、姉ちゃんは僕が漫画を描くことに協力してくれる。

 姉ちゃんからファッション誌を借りて女子キャラクターの髪型や服装の参考にしている。あと姉ちゃんは流行りものが好きなので、女子の流行も随時知ることができる。

 彼女も女友達もいない僕にとって、かなり恵まれた環境だと思っている。感謝している。だからパウンドケーキも感謝の一部だった。


  〇〇〇


 四月になった。朝晩の気温差が激しい日々が続く。週末は雨の予報も出ていた。

 朝、出勤する時の景色だけを見ると暖かそうだけれどもまだ風は冷たい。車で通勤していてもアウターはまだ必要だった。


 空調が整っている会社内に入ると少し暑い。更衣室でアウターを脱ぐとちょうどいい。細長い個人ロッカーの中に自分で持ち込んだハンガーにアウターをかける。制服に着替えて事務所へ向かう。


 廊下ですれ違う社員とあいさつを交わす。大体同じ時間に同じ人とすれ違うけれども、たまに知らない顔とすれ違うことがある。五年間同じ会社に勤めていてもそんなことがある。


 今日の朝礼の一分間スピーチ担当は河内だった。先日新発売されたコンビニの新商品について語っていた。

 本当は酒について語りたかったろうに、それでは印象が悪いと思ったのだろう。途中笑いを含めて、規定の一分間を少し超えて河内のスピーチは終わった。



 今日は午後から会議があるので資料作りをする。プレゼンの資料もそろそろ作りたいがこちらが先だった。先月のプレゼン企画は室長の承認すら得られずボツになってしまった。今月こそは通さねば。


 隣では河内が向かいの席の月岡さんに下ネタを含むトークをしていた。さすがの月岡さんも引き気味の表情だったが河内は気づかず一人ノリノリで立ち上がる。


「俺のお尻に赤いのついてない?」


 月岡さんにお尻を向けてそんなことを言っていた。

 この会社の制服は男女共通、ベージュの作業服。上はブルゾン、下はズボンになっている。河内の発言はさすがに度が過ぎる。それだけではなく、まだなにか言っている。


「河内、お前気持ち悪いよ。んでそれセクハラ」


 僕は無表情で河内に言った。そして僕は月岡さんに視線を向ける。


「そうだ月岡さん、課長が呼んでたよ。会議室の椅子を戻しておいてだって」


 月岡さんはすぐに事務所を出て行った。普段なら室長がいるのだが、今日は休みだった。だからといって女子社員にセクハラトークをするのはどうかしている。


 僕の向かいの席の先輩は不在で、隣の席の先輩は違う部署に行っている。もう一人の先輩は事務所の隅で資料を探していた。

 今、事務所のデスクには僕と河内だけがいた。気まずい空気が流れたが僕は無視をする。


「いや~榎本えのもとって漫画好きなんでしょ? 二十三にもなってさ、何か残るの? グッズにお金かけてさ」


 河内が絡んできた。明らかに僕に悪意を込めて。

 日本の漫画やアニメは文化の域に達している。それを知らないわけでもあるまい。

 とりあえずいちゃもんをつけたいのだろう。この状態で無視していても絡み続けてくるだろう。それに漫画が好きなことに年齢は関係ない。黙ってはいられなかった。


「河内は何にお金をかけているの?」


 僕はパソコンの画面を見たまま質問をした。


「酒とか女の子とか愉しいことにだよ」


「それって何か残るの?」


 文句を言う人間には同じ言葉を返してみる。祖父ちゃんに教わったことだ。


「酒のつまみはうまいし飲み会は愉しいし、女の子に出会ってもしかして結婚するかもしれない。そしたら子どもが産まれるし、孫だってできるかもしれない。賑やかな家族に囲まれる幸せな未来があるんだぞ。漫画ばっかり読んでいて女の子に出会うチャンスなんて来ないだろ。漫画が好きで何が残るんだ?」


 河内は得意気だった。そしてまた同じことを言ってきた。そもそも残すことが前提ではない。漫画が好きで読みたい、面白いから読んでいるだけだ。


「漫画だって愉しいよ。台詞一つが人生を変えることだってある。好きな作品に出会えたら一生ものだ。それに河内の未来の子どもだって漫画を読むと思うよ」


 河内は何か言いたそうな顔をしていたがそれ以上つっこんではこなかった。僕もそれ以上は黙って耐えた。もうすぐ昇級査定がある。お互いこんなことで評価を下げられたくないと思っているだろう。


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