第21話 スタート後。

 100kmを走るウルトラマラソン、スタートは午前5時で、制限時間は14時間。

 初めて聞いた時には目が点になったものだが、実際に目の前でスタートを待つ大勢のランナーを見ると圧巻だ。

 みんな、好きなんだねぇ。

 列の後ろの方でピョンピョンと飛び跳ねている可愛い子がいる。もちろん紗奈だ。体を温めてるんだろう。目が合うと照れくさそうに笑う。もう、ここまで来たら全力で楽しんで、そして無事に帰ってきて欲しい。ただ、それだけだ。


 『バーン』と、ピストルの音が鳴って、歓声と拍手が巻き起こる。応援の人からも「いってらっしゃい」の声があがり手を振る。

 紗奈が通り過ぎる時、何か言った気がする。

「美穂さんーー」

 最後が聞こえなかった、もしかしたらわざとかな。口の動きは『すき』と言ってた気がする。

 背中を見つめながら『私も』と囁いた。


 最後のランナーを見送って、応援の人たちもそれぞれ動き始めた。私は一旦宿へ帰る。

 宿の人も、毎年のことなので慣れているようだ。深夜から、ランナー用に軽食を作ってくれたり、スタート会場まで送迎してくれたり、おもてなしが凄い。

「おつかれさま、あと4時間くらいは帰って来ないから一服してね」

 コースも熟知していて、宿の近くを通る時には外へ出て応援すると言うので、私もご一緒することにした。



「はぁぁ、みなさん凄いですね」

 紗奈と出会ってから私も、こうやって沿道で応援する機会が増えているが、毎度毎度感心する。今回は特に、距離も時間も長いわけで。

「みんな良い顔してるわよねぇ」

 およそ40キロを走っているのに、まだまだ余裕で、笑顔で手を振ってくれる。

 それぞれ、この日のために努力してきたのだろう。そう思うと目頭が熱くなる。

 紗奈も笑顔で無事に通り過ぎて行った。




 ゴールの予定は夕方以降なので、自転車を借りて観光地までサイクリングをした。この辺りは今が桜の見頃で、日本一の山と桜のコラボが楽しめる。湖畔からの景色は絶品だ。

 散歩をしたり、食べ歩きをしたり、お土産を買ったりして時間を潰す。


 宿に戻ったのは、午後3時ごろだった。部屋でお茶を飲んでいるとスマホに通知が入った。

「あれ」

 紗奈からだった。

 関門時間に間に合わなかったためリタイアしたこと、バスで会場まで戻ることが書いてあった。

「そっか」

 完走出来なかったか。

 出迎えるために、私も会場へ向かった。

 紗奈が今、どんな気持ちでいるか想像すると胸が痛むけれど、今まで頑張ってきたのを見てきているから、一番に労ってあげたい。


 バスから最後に降りてきたのが紗奈だった。近づいて見ると、鼻の頭が少し赤い。それでも今は涙は出ていなくて、我慢しているのが窺える。

「紗奈、おつかれさま」

「美穂さん……来てくれたんだ」

 なんともいえない顔をしていた。もしかしたら、そっとしておいて欲しいと思っているのかもしれない。


 私だったらどうだろう。

 期待されて、でも怪我で思うような成績をあげられなかった時、しばらくは誰の顔もみたくなかったな。友人の慰めの言葉も白々しく聞こえたりして。


 不用意な言葉で、紗奈の傷をえぐることはしたくない。けれど、傷ついているのが分かっていて何もしないなんて出来るわけない。

 かける言葉が見つからなかったため、抱きしめてしまった。なんだか朝よりも一回り小さくなったような錯覚に陥る。ギュッと力を込めた。

「うっ、美穂さ……」

 一瞬の後、紗奈の体に力が入って押し返される。

「ごめん、嫌だった?」

「ここでは……ちょっと」

「そか」

 周りに人はまばらだけど、バスが鎮座していて。

「邪魔になるから」と、広場の方へやってきた。

「美穂さんごめん、ダメだった。ゴール出来なかった」

「謝ることじゃないよ、精一杯頑張ったんでしょ」

「そう……かな」

 仕方がないことだけど、元気がない紗奈を見るのは辛いなぁ。

「私に何が出来る?」

「後で、着替えてからギュッてして」

「もちろん、喜んで」

 大きな声で答えたら、良かった、少し笑顔が出た。




「あれ、もしかして間に合わなかった?」

 女の人が、紗奈に話しかけてきた。

 歳の頃は30代か、大会のスタッフっぽい出立ちだけど、雰囲気はランナーみたいだ。

「あっ、あの時の」

「ごめんね、もっと早く解放してあげられたら良かったね」

「いえ、これが私の実力です」

「あの、もし良かったらーー」

『しょうちゃん、係の人が呼んでる』

 テントの方から、もう一人女の人が出てきて声をかけてきた。

「あ、わかった。それじゃ、また」

 ペコリと会釈をして去って行った。


「知り合い?」

 紗奈に聞くと。

「うん、一緒に走ってた人。ドクターって言ってたかなぁ。あ、じゃ、着替えてくるね。少し待ってて」

「ん、わかった」


 紗奈の背中を見送って、ベンチに腰掛けた。あぁ、ここからも富士山が見えるんだ。「撮っとこ」今日、何度も見上げた山をカメラに収めた。


「あのーー」

「はい?」

 さっきの人だ。確か、しょうちゃんって呼ばれてたっけ、紗奈に用事かな。

「あ、先ほどの。紗奈なら、今、着替えに行ってて」

「あぁ、そうですよね。残念でしたね」

 紗奈が完走出来なかった事を言っているんだろう。ランナーさんなら、その気持ちがわかるだろうし。

 あれ、ここにいるということは、この人も完走出来なかったんじゃ?

 その人は、チラッと腕時計を確認していた。

「あの、何かあったんですか?」

「え? あぁ、戻ってきたばかりだから、まだ聞いてないですよね。私の口からは何とも……本人に聞いてもらえれば。それでもーーごめんなさい、私そろそろ行かなきゃいけないんで、もし何かあったらこちらまで連絡ください。それとーー」



 戻ってきた紗奈と一旦宿へ戻る。

「どうする、少し休む? すぐ帰る?」

「ん、早く帰りたいかな」

「わかった。安全運転で行くから、寝てていいからね」

 荷物を積み込み、宿の人に挨拶をして車に乗り込んだ。


「ねぇ、紗奈。体調は大丈夫なの?」

「うん、特に酷いダメージはないよ、いつも通りの疲労感だけ」

「そっか、ドクターと何かあったみたいだから、ちょっと心配しちゃった」

「え?」

「紗奈が着替えに行ってる間に、少しだけ話したの。でも守秘義務なのか、何があったかは話してくれなくて」

「あぁ、私の体調の問題じゃなくてねーー」

「そっか、それならいいの。話したくなければ無理には聞かないから」

 紗奈が1番辛いはずだから、体調不良でなければリタイアの理由なんて無理に聞く必要はない。

「美穂さん、後で落ち着いたら話すから。それより……」

 私の服の裾を握って、少しひっぱった。

「ん?」

「忘れてるの?」

「そんなわけないでしょ」


「よく頑張ったね」

 そう言いながら、約束のハグをした。

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