第20話 スタート前。
深夜2時に着信があった。眠っていたけどすぐに目が覚めて表示を見れば紗奈からで、何事かと思って通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
「美穂さん……会いたい」
とても小さな声だったけど、聞き逃すことはなかった。
「わかった、すぐ行く」
考える間もなくそう言って、通話を切った。取る物もとりあえず紗奈の部屋へと向かった。
「美穂さん、嘘、なんで?」
なんでって。
「会いたいなんて言われたら、飛んでくるでしょ」
紗奈は普段そんなこと言わないし、ここしばらくはお泊りもしていない。
フルマラソン後に酔って泊まったのは1ヶ月程前だったか。
私はもっと一緒にいたいのだけど、紗奈は距離を置きたがる。
紗奈が距離を置く理由ーーおそらくだけれど、幼い頃に出て行った母親や前の恋人との別れで味わった喪失感ではないかなと思う。私がその傷を癒せれば良いのだけれど。もっと甘えて欲しい、わがままを言って欲しい。
そんな紗奈が真夜中に会いたいなんて、余程の事だろう。
「ごめんなさい」
「何かあった? 体調悪い?」
「違うの、体はーー足が攣ったのはあるけど、そうじゃなくて」
「足? ふくらはぎ?」
「あ、うん。でも今は大丈夫」
「ちょっと触るよ」
少し張ってるけど、肉離れではなさそう。
「うん、大丈夫そうだね。それでーー悪い夢でも見た? 眠れない?」
「怖い夢を……ごめんね、そんなことで呼ぶなんて」
「そっか、電話くれて良かったよ」
「えっ」
「一人で不安だったでしょ、朝まで一緒にいるからね」
「美穂さん?」
私は紗奈のベッドに潜り込み腕枕をする。肩を抱き寄せ身体を密着させる。少しでも怖さを和らげられたらいいな。
紗奈の手が背中に回されて力が入った。
「ごめんね」
「なんで謝るの?」
「だって、迷惑……はっ、美穂さん明日お仕事は?」
「大丈夫だから」
「ほんとに?」
やっぱりそうだよね。
私の都合を考える余裕もなかったんだよね、紗奈。
普段だったら、私の明日の予定も聞かずに会いたいなんて言うはずないもの。
たぶん、それは。
来週に迫ったウルトラマラソンの影響だと思う。それほど緊張しているのかプレッシャーを感じているのか。
「どう、眠れそう?」
「うん、こうしてると安心する」
紗奈の寝息が聞こえるまで、頭を撫で続けた。
「姫、お迎えに参りました」
少し気取って紗奈の部屋のドアを開けた。
「えっ」
怪訝そうな顔をした紗奈は、それでも苦笑いをしながら「なに、大河ドラマにはまってるの?」と返してくれた。
「まぁね、主役の子可愛くない?」
「人気はあるよね」
話しながら荷物を車へ運び、さぁ出発だ。
あの日ーー紗奈が怖い夢を見た日のーー次の朝、改まって「美穂さん」と声をかけられた。
謝られるのは嫌だなと思っていたら、ありがとうと言われたので嬉しくなって。
「今夜も添い寝しようか?」
なんなら大会の日まで一緒に寝ても良いよ、なんて調子に乗ってしまう。
「それは遠慮しとく。でも、その代わりというか、一緒に行って欲しいの、前泊するから土曜日からなんだけどいい?」
「もちろんいいよ」
「実はもう宿は取ってあって、本当はもっと早く伝えなきゃいけなかったんだけど、迷ってて」
「私が行ってもいいの?」
「美穂さんに来て欲しい」
嬉しくて仕方がない。
「やっと素直に甘えられるようになったか」なんて、えらそうな口をききながら、たぶん顔はニヤけているんだろう。
「お願いします」
律儀にお辞儀をする紗奈の髪をクシャクシャにしながら笑い合ったのだった。
時間に余裕があるので旅行気分を味わいながらのドライブだ。サービスエリアに寄って運転を交代する。
助手席から眺めるレアな紗奈は。
「やば」
「え、なに?」
「なんでもないよ」
しまった、声に出てしまった。
眩しいのかサングラスをかけて運転してるもんだから、ほんと、やばいくらいカッコいい。
見惚れてるって言ったら、どんな表情を見せるだろうか。なんて思いながらも、運転中に動揺させるのもどうかと思ってやめておいた。
「紗奈、案外落ち着いてるね」
一週間前はどうなるかと思ったけど、いつもの冷静な紗奈に戻っていた。
「ん? まぁ、今更ジタバタしてもって思ったら開き直れた感じ。それにーー」「ーー?」
「美穂さんもそばにいてくれるから、安心出来る」
もう、紗奈ったら危ない事を言うんだから。
「紗奈、運転中で良かったね」
「へ?」
「してなかったら、抱きついてキスしまくってた」
「もう、美穂さんってば」
良かった、笑ってくれる余裕もある。
そしてやっぱり、笑顔も可愛いと、また見惚れてしまった。
※※※
アラームをかけた時間の10分ほど前に目が覚めて、上半身を起こした。
隣の布団で眠っている美穂さんの頬にキスをした。
今回は、大会会場に程近い民宿を予約した。並べられたお布団はお日様の匂いがして、短い睡眠時間でも熟睡感がある。
美穂さんの寝顔に魅入る。
この人はいつも私を甘やかす。会いたいと言えば駆けつけてくれるなんて、どれだけ優しいの。あの時は、私もどうかしてた。怖い夢を見ただけなのに、とんでもなく不安になってしまって、ただ声を聞きたかっただけなんだ。それでも、真夜中に電話するのだって、非常識だと思うのに、つい『会いたい』なんて溢してしまって。
そんな私を美穂さんは許してくれて、電話した事もなぜか喜んでくれて、一緒にいてくれた。私の不安や孤独感をわかってくれている。美穂さんに溺れないように、好きになりすぎないようにって予防線を張ってきた。のめり込んだら捨てられた時に立ち直れないから。でも、そんなこと無理だったんだ、ずっと前からーーたぶん出会った時から私はもうーー
「口にはしてくれないの?」
寝ているとばかり思っていたら、起きていたらしい。見つめていたのもバレたかな。
「起こしちゃった? 寝てていいよ」
まだ夜明け前だ。昨夜早めに寝たといっても、眠いはず。
「ううん、スタートを見送りたいから、私も起きる。だから、ね」
目を閉じて、唇を突き出す。
おはようのキスの要求だ。
今日は絶対に良い日になる。
そう信じて、口付けを交わした。
いよいよ、スタートだ。
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