第15話 【紗奈side】自己ベスト

 ゴールラインを越えたところで時計を止めた。久しぶりのハーフマラソンは、心拍数も息も上がっていた。膝に手を置き呼吸を落ち着けようとするが、なかなかおさまらない。ゆっくり歩いて芝生の方へ行き座り込んだ。そのまま寝転がり、目を閉じた。


「わかったわよ、だったら好きにすればいい」


 昨日の美穂さんの言葉が頭の中でリフレインしている。

 めったに怒ることはないから、怒らせると怖いってこと忘れていた。

 帰ったら謝らなきゃ。



「撃沈だったの?」

 意識が薄れかけウトウトしそうになっていたら、聞き慣れた声が降ってきた。

「なんで……」

 慌てて上半身を起こせば、そこに美穂さんがいた。

「仕事は?」

 あれだけ言ったのに、すっぽかして来ちゃったの?

「可及的速やかに済ませてきたわよ」

 どこか誇らしげに言う。

「それでもレースには間に合わなかったな、走ってる姿見たかったのに。あぁでも、紗奈は撃沈レースは見られたくなかった?」

 私はどんな紗奈も見たいんだけど、なんて言う。

「自己ベストだった」

「そっか、自己ベ……えっ、そうなの? 落ち込んで泣いてるんだと思ってた」

「泣いてないし……落ち込んではいるけど」

「どうして? 目標はもっと速いの?」

「違うよ、美穂さんと喧嘩しちゃったからだよ」

 レースの出来なんて、それに比べたらどうでもいいし。

「反省してるの?」

「してる」

「間違ったこと、言ってないのに?」

「それでも、美穂さんが嫌な気持ちになるような事言ったから」

 それはもう、私が悪いんだ。

「紗奈ってホント……優しすぎるよ」

 言葉の割に、責められている雰囲気だったから、つい「ごめんなさい」と言ってしまう。

 美穂さんは更に困ったような顔をした。


 美穂さんは少し考えた後に何か言いかけたーーその前に私が身震いをしたため、それが何かわからなかったけど。

「冷えてきたんじゃない? まずは着替えに行こ」



 更衣室で着替えながら、昨日の喧嘩のことを考える。美穂さんも言っていたけど、今回は私が悪いわけではない。ただ、正論を言っただけだ。

 だってそうだよね、私のマラソン大会の付き添いより仕事の方が大事に決まってる。たとえ仕事のオファーの方が後で決まったとしてもだ。社会人として当然だよね。


「美穂さんを必要としてくれる人がいるんだよ?」

「私は仕事よりも紗奈の方が大事なのに」美穂さんはまるで子供のようにむくれていた。

「子供じゃないんだから、私は一人で大丈夫」

「わかったわよ、だったら好きにすればいい、一人で伊勢でもどこでも行けばいい」そう言った美穂さんの悲しげな目が忘れられない。


 スタートの号砲が鳴っても、つい思い出してしまうので、考えないようにがむしゃらに走ったら自己ベストを更新してしまったというね、苦笑しかないわ。

 そういえば、私は昔からそういう事が多かったな。空気を読まずに、ど正論をぶちかまして引かれたり敬遠されたりする。柔軟な対応が出来ない人間なのかもな。美穂さんはこんな私のどこが好きなのか、本当に好きなの?

 ダメだ、気持ちがどんどんネガティブになっていくーー


「うわっ、痛ったぁ」

 突然、足に激痛が走る。

「大丈夫?」

 隣で着替えていた人が声をかけてくれる。

「あ、足が攣ってーー」

「あぁ、私もよくやります! タイツ脱ぐ時とか。痛いですよねぇ」

「ほんと、それなんです」

 しばらく悶絶した後、そろりそろりと着替えを再開した。


「お待たせしました」

「ん……足、大丈夫? 痛そう」

 さすが美穂さん。歩き方でバレるよね。

「さっき、攣っちゃった」

「右足? ちゃんと伸ばした?」

「はい」

「そ、じゃ、帰ったらケアするね」


「どうした?」

 荷物を持ってくれて少し前を歩いていた美穂さんが、黙ったまま歩いていた私を不審に思ったのか、振り向いた。

「美穂さん、車で来たの?」

「そうだよ」

 わざわざ?

 喧嘩してたのに?

 私を迎えに来てくれたの?

 それだけのために?


「美穂さん、これからデートしよ」

「え?」

「せっかくここまで来たんだから」

 近くには超有名な「神宮」と呼ばれる神社がある。

「いいね、少し歩いた方が足の筋肉もほぐれるし。行こうか」

 美穂さんは、今日一番の笑顔で手を伸ばしてくれた。


「何食べたい?」

「あのお店のぜんざい」

「いいねぇ、私も好き。身体が甘いものを欲してるんだね」





「美穂さん、昨日はごめんなさい」

 帰宅後、マッサージを受けながらようやく謝る事が出来た。うつ伏せになっているから、言いやすかったのもある。

「紗奈は悪くないでしょ、私が拗ねただけなんだから」

「拗ね……た?」

 美穂さんの顔を見るために振り向こうとしたら、押さえつけられた。

「恥ずかしいから見ないで」

 そんな声も可愛らしいから、おとなしくマッサージを受け続けた。

「だってほら、休みの日じゃないとなかなか会えないでしょ? せっかく会えると思ったのに私に仕事が入っちゃって……だからーーあぁやっぱり、歳上なのに情けないなぁ」

 段々と声も小さくなっている。

「ふ、ふふっ」

 堪えきれずに身体が震えたのを感じたのか、美穂さんの手が止まった。

「今、笑った?」

「嬉しくて」

 そう言いながら、身体を起こし美穂さんと向き合った。


「何が?」

「全部、美穂さんの全てが私は嬉しいよ。今日迎えに来てくれたことも」

「私が会いたかったから行っただけだし」

「突然のデートのお誘いも笑顔で受けてくれたよ?」

「あれは、私のために誘ってくれたんでしょ?」

「美穂さんがしたいと思ってる事、私も同じように思ってるんだよ」

 知らなかったの? 挑発するように言ったなら「紗奈の方が全然大人だ」と、口を尖らせる。

 こんな美穂さんは貴重だ。


「あ、また笑う」

「だって美穂さんーーね、こっち来て」

 えぇ? と言いながらも寄って来てくれたので、私の膝の上に座らせる。

 近いよ、とかなんとか言ってるけれどスルーして。

「拗ねてる美穂さん、可愛い」

「もうっ」

 一瞬で顔を赤らめ、それを見せないように私の肩に埋める。

 そんな仕草も可愛くてしょうがない。


「紗奈のこと、好きになりすぎちゃったみたい」

「それはまぁ、なんとなくわかってます」

「ふぇ?」

 驚いて顔をあげた美穂さん。


 自分でも驚いている。

 どうせ私なんてとか、自己否定をするクセがついていて、いつもネガティヴ思考になってしまう私の発言とは思えない。それでも美穂さんと一緒にいると、こうやって触れていると、不思議と自分に自信が持てるのだから。

 これがきっとーー


「私も同じ思いだから」


 分かり合えるということ。

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