第11話 特別な日

 約束の土曜日は、紗奈が休日出勤となったため会社帰りに私の家に寄ってもらい、二人で紗奈の部屋へ行くことになった。

 別の日でもいいよと言ったら、この日がいいんですと返された。

 遅くなっちゃうかもよ? と聞いてみたら、お泊まりセット持ってきてくださいと言う。

 紗奈がこんなにはっきり自己主張をするのは珍しい。

 そして、嬉しい。


 私の家から地下鉄で2駅。この距離を紗奈はサラッと走ってしまうけど、今日は二人で最寄り駅から歩く。

「スーツ姿初めて見たけど、似合ってるね」

「いつもジャージだもんね、堅苦しいから早く脱ぎたい」

「私が脱がせてあげる」

「は、何言ってるんですかぁ?」

 紗奈は辺りをキョロキョロ見回した。

「誰も聞いてないよ?」

 家路に着く人もまばらだ。

 暗くて分かり辛いけど顔を赤くしながらも、そっと手を繋いでくれた。


 紗奈の部屋が近づいてきた。

 ここに来たのは二度目だ。

 階段を上がると、玄関の前に誰かが佇んでいた。

「えっ、なんで?」

 繋いでいた手が離れた。

 紗奈の驚いた声で、その誰かも私たちに気付いた。

「あっ、さーちゃん!」

「しーちゃん、なんでここにいるの?」

「だってさーちゃん、誕生日でしょ? ケーキも買ってきたよ」

 手に持っている箱を掲げて見せた。

「いやだからって、なんでーー」

「ねぇ、鍵変えちゃったの? 入れなくて寒かったんだよぉ」


 なんなの?

 誕生日? 知らないよ、私。

 離された指先から冷たくなって身体が震えた。

「ごめん、紗奈。私、帰るね」

 それだけ言って踵を返した。

「えっ、待って。美穂さん!」

 声は聞こえたけれど、振り向かなかった。振り向けなかった。




 二人で歩いた道を、逆方向へ小走りで駆け抜ける。

 全力で追いかけて来られたらすぐに追いつかれる速さだと思うけど、紗奈は来なかった。

 何も考えられなかった。地下鉄の窓からは何も見えない。ただぼんやりとした自分の顔が映るだけ。

 どこかへ寄る気力もなく、真っすぐに家へと帰った。

 自分のためだけに紅茶を入れた。

 飲んでいるうちに、ようやくいろいろ考えられるようになった。


 紗奈が「しーちゃん」と呼んだ彼女のこと。

 ずっと好きだった幼馴染で一時期一緒に暮らしてたって子だよね。

 私も、この窓から見かけたことがある。

 私がまだ紗奈と知り合う前に、二人で歩いてた。

 もう別れたはずーー違う、勝手に出て行ったって言ってたっけ?

 ずっと会っていなかったのは、紗奈の反応から分かったけれど、まだ好きなのかな? また言い寄られたら?

 ずっと好きだったんだもんね、想ってた年月が違いすぎるよね、私なんて……誕生日も知らなかったのに。

 だけど……でも……。

 いつの間にか紅茶は冷え、テーブルに水たまり? あぁ、これ涙か?

「寒い」

 一人だと、こんなにも寒いんだね。



「美穂さん?」

 うとうとしてたら紗奈の声が聞こえた。

 あれ幻聴?

 あれからお風呂に入る気にもならず、そのままベッドに潜り込み泣き疲れて寝ちゃってた。


「美穂さん、不用心だよ。鍵かかってなかったよ」

「紗奈?」

「美穂さん、ごめん」

「いやっ、見ないで」

 今の私、酷い顔してる。

「ごめんなさい、こんなに傷つけて。私、恋人失格だね」

「やだーーやだよ」

 枯れ果てたと思っていた涙が、また溢れてきた。

「美穂さん?」

「別れたくないよ」

「えっ、なんで! 別れないよ」

「別れ話、しに来たんじゃないの?」

「しないよ、絶対に別れないから」

 力強い言葉に、ようやく目を合わせることが出来た。

「遅くなってごめん。ちゃんとケジメつけてきたから」

 優しい目をして、紗奈が言う。

「あの子と?」

「というより、自分の気持ちにかな。ずっと引きずってたのは確かだから。でも、もう。彼女に会っても、何を言われても心揺れたりしないから」

「紗奈が、そう言うなら信じる」

 嘘をついたり、誤魔化したりできる子じゃないから。


「美穂さん」

 近づいてくる顔に、ハッとした。

「待って、せめて顔洗わせて」

「待てません」

 仲直りのキスは、塩っぱい味がした。



「安心したらお腹空いたなぁ」

 紗奈の呟きに、再びハッとした。

「そうだ、誕生日!」

「ん? あぁ、そうだった」

「なんで言ってくれなかったの?」

「言ったら、いろいろ考えたり気を使わせちゃうと思って」

「そりゃ、するでしょ。プレゼントだってしたいし。ご飯だって。特別な日なんだから」

「うん、だから特別な事しようと思ったんだよ。いつも美穂さんがご飯作ってくれるから、今日は私が作ろうと思って準備してたんだ。美穂さんと過ごせるのが、私にとってのプレゼントだから」

 時計をみたら、あと2時間で日付けが変わる。

「じゃぁ、一緒に作ろうよ。あぁでも。どうしよう、今、あまり買い置きないかも。何か作れるかな」

「非常食とかは?」

「ラーメンとかなら」

「いいねぇ」


 もしもの、災害時に役立つ防災グッズも一緒に置いてある。

「カセットボンベもある! これ使っていい?」

「うん、いいけど」

 紗奈はガサゴソと何があるかを確認していた。

「美穂さん、今夜は特別な夜にしましょう」

 そう言うとドアまで歩き、部屋の電気を消して真っ暗にした。

「わっ、なに?」

「突然、停電になっちゃった設定でいきましょう」

「はぁ?」

 まだ目が慣れてなくて、何も見えない暗闇の中、紗奈の声だけが聞こえる。


「美穂さん、何があっても私が美穂さんを守ります」


 その言葉と声で、不安が安心に変わる。



 その後、懐中電灯の明かりを頼りに、次々とロウソクに火を灯していく。

「凄い」

 揺らめく灯りがロマンティックさを醸し出すーー災害時にはそんな事言ってられないだろうけど。


 お水使っていい?

 冷蔵庫、開けるね?

 紗奈は手際よく準備していく。

 カセットコンロに土鍋をセットしてお湯を沸かし、袋麺と冷蔵庫に入っていた残り物野菜を投入。

 私は椅子に座ってボーっと眺めている間に、あっという間に出来上がっていた。

「はい、温かいうちに食べましょう」

 ラーメンの入ったお椀を渡された。

「あ、ありがとう」

「うん美味し、あっ辛い、でも美味しい」

 紗奈の反応を見ながら私も食べ始める。確かに辛い。そういえば、いろんな味のラーメンをストックしていたはず。

「わざと辛いのを選んだの?」

「うん、体も温まるでしょ?」

 そういえばそうだ。

「エアコンも切ってある?」

「もちろん、そういう設定だもん」

「紗奈って、そういうの割とこだわる性格だよねぇ」

「嫌ですか?」

「好き」

 即答したらむせていた。


 ラーメンを食べ終わった後は、残った汁に冷凍ご飯を入れて煮込み、卵でとじて雑炊にしてくれた。

「うーん、これも美味しい」

「美穂さん、いっぱい食べてね」

「あ、紗奈の誕生日なのにーー」

「美穂さんの笑顔が私のご馳走です」

 そんなことを言うから。


「まだ、ちゃんと言ってなかったね。紗奈、誕生日おめでとう! 愛してるよ」

「ありがとうございます。絶対忘れられない、特別な日になりました」


 『おめでとう』のキスはピリッと辛い味だった。



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