第7話 募る思い
「明日は3時出発でいい?」
「ふぁ〜い」
なんとも気の抜けた返事が聞こえてきて、私は顔を上げた。
トロンとして眠そうな目をした紗奈が、微笑みながらこちらを見ていた。
明日、フルマラソンを走るというのに、緊張のカケラもないんじゃないか?
付き添いの私の方が、駐車場の場所を調べたり、シャトルバスの時間を調べて逆算して出発時間を計算したりとピリピリしているというのに。
マラソン大会へ参加する紗奈は、昨日から泊まりに来ていた。
「準備は出来てるの? 体調は?」
「大丈夫だよ、なんとかなるから」
いつもこんな調子だ。自分の事となると、おおらかと言うか、大雑把と言うか、無頓着と言うか。
「お腹の調子は? 明日は冷えるみたいだよ」
「あっ……」
紗奈の弱いところだ。私たちの出会いも、それに纏わっている。
「何か忘れた?」
「カイロ。お腹に貼ろうと思ってたのに」
はぁ、もう。
「カイロなら、あるわよ。私も使うから」
「さすが美穂さん、準備いい」
「当たり前じゃない、紗奈が走ってる間、待ってなきゃいけないんだもん」
「あぁ、そっか。ごめんなさい。やっぱり私一人で……」
「もう、それ以上言わないで。私が一緒に行きたくて行くんだからね」
付き合ってしばらく経つというのに、未だに私に気を使う彼女の言いそうなことは分かってしまうから。
「紗奈の走ってる姿を見たいんだから」と、付け加えた。
「美穂さん……」
相変わらず眠そうな目だけれど、さっきよりも輝きを携えて近寄ってきた。
「ん?」
「好き……」
ドキッとしたけれど、さりげなく距離を置いて。
「今日はしないよ」
紗奈のために、そう宣言した。
「だよねー。終わってからなら?」
「そんな余裕あると思う?」
「んー、たぶん、ない。」
「でしょ? 諦めて寝なさい」
「はぁい」
紗奈がベッドに潜りこんだのを見届けて、私も明日の準備をした。
カイロもしっかり鞄に詰めた。
しばらくして寝室へ行くと、すでに紗奈は眠りに落ちていた。
私もそっと隣に滑り込んで、寝顔を眺めた。
「可愛いな」
寝入ったら、なかなか起きないのは分かっているから。
吸い寄せられるように、唇を重ねた。
「紗奈、起きてー」
夜中の2時半に紗奈を起こす。
「んあ"」
「お腹空いてる? 何か食べる?」
「う、コーヒーを」
「わかった」
寝ぼけている紗奈を着替えさせ、洗面をさせる。
「ふふ、美穂さんお母さんみたい」
にやける紗奈は、まだ半分寝ているみたいだ。
すでに荷物は車に積んであるので、紗奈を乗せてコーヒーを持たせれば出発だ。
「寝ててもいいからね」
「やだ、もったいない。運転する美穂さん見てるの好きなんだ」
「そんな事言われたら運転に集中出来ないから、寝てて! あ、トイレ行きたくなったら言ってね!」
「やっぱりお母さんみたいだ」
「へえ、紗奈のお母さんも、いろいろ口うるさいの?」
そういえば、お母さんの話は初めてかも。
「ん~、よくわからない。小さいころに別れたっきりだから」
「そうだったの……ごめん」
それきり静かになったので、ちらりと横を見たら、紗奈は目を閉じていた。寝ているのかどうかは分からないけれど。
一度サービスエリアに寄ってトイレを済ませた。
「うわっ、寒いねぇ。でも、星が綺麗」
夜空を見上げる表情には翳りもなく。晴れそうだね、と期待に満ちていた。
駐車場に到着したのは、家を出てから3時間半後で、少し明るくなり始めていた。
車内で、おにぎりやサンドウィッチを食べた後「ちょっとトイレへ行ってくる」と出て行ったと思ったら、すぐに戻ってきた。
「美穂さん凄いよ、来て!」
無理やり連れてこられて見たもの。
「ほんとだ、綺麗だね」
朝日に照らされた大きな富士山が鎮座していた。
今日も素敵な日になりそうだ。
シャトルバスに乗って、さらに歩いて、会場へ着く。受付をして参加賞を受け取って準備をする。
随分前に、私もこんな感じで大会に参加していたことがある。
プレッシャーが強すぎて、ドキドキやワクワクを今の紗奈のように楽しめてはいなかったけれど。それでも強く心に残っている。
「どうしたの? ボーっとして」
「え、昔を懐かしんでたんだけど」
そんなにボーっとしてたかな。紗奈にじっと見られて少し恥ずかしい。
「昔って、美穂さんまだ若いのに」
若くはないよ、いろんなことを諦めて、諦める事にも慣れてきたアラサーだもの。
「美穂さん、待ってる間退屈じゃない?」
「んー、適当に観光してるよ」
「ふぅん、大人ですねぇ」
一人で時間を潰すのにも慣れたものだ。
「立派な大人だもの」
「では、行ってきます」
「無理だけはしないでね、行ってらっしゃい」
午前9時、号砲が鳴った。
5000人がそれぞれのゴールを目指しスタートしていく。
笑顔の紗奈に手を振って、最終のランナーが通り過ぎるまで見送って。
「さてと、どこへ行こうかな」
それにしても良い天気だ。気温は低いけれど風はないから過ごしやすい。
湖の周りを散策する。釣りをする人、ボートに乗っている人、佇んでいる人。それぞれの視線の先には、日本一の山。
普段は見ることのない、その存在感に圧倒される。
富士山を見ながら歩いていると、遊覧船乗り場があった。家族連れがちらほらと集まりかけていた。出発時間が近いのかな。
紗奈は遊覧船好きかな? まさか船酔いするとか? いや湖だから、しないか。
道路の向かい側を見ると、ロープウェイ乗り場があった。登って行くと展望台があるらしい。
「これは」
いくしかないでしょ。
天気の良さと、お手軽に絶景を楽しめるということで、賑わっていた。
ロープウェイに乗ると、外国人の団体様が半数を占めていた。観光地なんだなぁと改めて思う。
あっという間に山頂に着いて、ロープウェイを降りる。
うわぁー!
朝から見えていた富士山が、ここでは裾野までクッキリと綺麗な姿を見せてくれていた。
しっかりと写真を撮って保存する。
後で紗奈に見せてあげよう。
反対側を見下ろすと、河口湖の全容が見えた。真ん中には大橋か。
今ごろ紗奈はどの辺りを走っているんだろう。コースは河口湖と西湖をぐるりと廻るはずだ。
「そうだ!」
確か、選手の大体の位置が分かるアプリがあった筈。大会のホームページを検索する。
「これだ」
『応援ナビ』というアプリで、名前を入力したら、紗奈のアイコンが出た。
今は、ちょうど河口湖と西湖の間?
例の坂道辺りか。
「頑張れ〜」
ここからじゃ届かないけど、声援を送った。
「あっ」
気付いてしまった。
何処にいても何をしてても紗奈の事を考えてしまってるという事を。
いつの間にか、こんなにも好きになっていたのかと。
「あぁ、早く会いたいな」
絶景を堪能した後、下りのロープウェイに乗って麓へ降りた。
さすがに、まだ戻って来ない時間だったので、お土産屋さんを覗いたりして時間を潰した。
ぶらぶらしながら会場へ向かっていると、もう速い人達は続々とゴールしていた。
少しでも早く会いたくて、ゆっくりとゴール地点から逆に歩いていく。
次々と走ってくる人たちに声をかけながら。
「ナイスラン!」
「おかえりなさい」
みんな笑顔で「ありがとう」と答えてくれる。
40キロ以上走ってきて、辛いだろうし痛いところもあるだろうに。何故かみんな楽しそうなのだ。
そろそろかなぁ。
きた!
「紗奈ー! おかえり! 頑張ったねー」
「あ、美穂さぁん」
手を振って、最高の笑顔で走って行った。
ゴールへ向かって。
やだっ、感動でちょっと泣きそうだ。
「紗奈、カッコよかったよ」
更衣室兼休憩室となっているお土産屋さんで合流し、労いの言葉をかけた。
「へへ、美穂さん見えたからあそこだけ飛ばしたの。最後だったし」とネタばらしをしていた。
「どこか痛いところない? お腹は空いてる?」
「足は痛いけど、しょうがないよね。お腹はまだ大丈夫」
「じゃ、帰る?」
「うん、早く車へ行きたい」
一刻も早く体を休めたいんだろう。
それまでには、15分ほど歩いてシャトルバスに乗るというミッションがあるのだけれど。
「荷物持つよ」
「いいよ、自分のだから」
「いいから、こういう時は甘えなさい」
紗奈は足を引き摺りながら、私は荷物を背負って、一緒に坂道を歩いた。
周りに人がいたから手は繋がなかったけれど、私にとってはこれも貴重な思い出になる。
シャトルバスを乗り継いで駐車場へ戻った。
「美穂さん」
車内へ入ったらすぐに紗奈が顔を近づけてきた。
「今日はありがとうございました」
「どういたしまして」
「美穂さん、もしかして泣きました?」
「え、なんで……」
わかるの? と続けようとして口をつぐむ。
「美穂さんのことだから……」
わかるよ。と言いながら近づく唇に、目を閉じた。
「あぁ、やっとキス出来た」
目を開けると、ガッツポーズでもしそうな勢いで、嬉しそうにしている。
「もしかして、それで早く車に戻りたいって?」
「早く二人きりになりたかったもん」
可愛すぎるよ、紗奈。
サービスエリアで食事をすることにした。名物の海鮮丼を注文した。
「レース的にはどうだったの?」
「うん、楽しかったけど、課題もいろいろ見つかったかなぁ」
「ふぅん」
「あぁすれば良かった、こうすれば良かったってのが、いっぱいあって」
「そっか、有意義だったんだね」
「そうとも言う?」
「私は紗奈が笑顔なら、それでいい」
照れるなぁ、と言いながら、でも苦笑いのような笑顔が気になった。
紗奈は美味しいね、と言いながら嬉しそうに食べ始めた。
車を走らせてしばらくした時、ねぇ美穂さん、と小さく呼ばれた。
「どうした?」
「腸を強くするにはどうすればいいと思う?」
「今回もレース中にトイレへ行ったの?」
「うん、2回も」
「それは、大変だったね。ふだんから腸活した方がいいかな」
「ですよね」
「食事のことなら協力できるけど。普段どんなもの食べてるの?」
「えっと・・・」
待っても返事がなくなったので、言いたくないのかな。
「適当に食べてるの?」
「時間なかったりで」
「うちに食べに来ていいよ、なんなら一緒に暮らす?」
「えっ?」
しまった、と思った。
決して軽い気持ちじゃないけれど、つい口にしてしまった。
今日一日で、また思いが募ってしまったから、暴走してしまったのだ。
反応が怖い、でも気になる。
紗奈は、何も言わなかった。
「ごめん、気にしないでね」
しばらくの沈黙に耐えられず、口にしたら
「ごめんなさい、少し寝ますね」
と 紗奈は囁いた。
「うん、おやすみ」
「悪いけど、今日だけは譲れない」
強い口調で言い切った。
1時間程、紗奈は車の中で仮眠を取り、とりあえず私のマンションまで戻ってきた。
そして、家まで送って行きたい私と、遠慮する紗奈とで口論になったのだ。
「こんな状態の紗奈を一人で返すわけにはいかないから」と言っても、ため息を吐くだけで、うんと言わない紗奈。
「なに、私を連れて行けない理由でもあるの? 誰かいるとか?」
挑発っぽくなったけれど、その成果はあったらしく。
「わかりました、お願いします」と言った。
こうして私は、初めて彼女の家へ行くこととなった。
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