第2話 ファーストキスなんだよ

 九月。

 京都に戻り、新学期を待つ。

 銭湯で体を洗っていると、ふいに、


 Nは、ずるい


 と思ってしまった。


 その頃、バージンが重かった。早く捨ててしまいたかった。

 Nに頼めば、もらってくれるだろう。

「俺のこと、好きなの?」

 と問われて、イエスと言えるだろうか。かなり無理がある。

 単に処女がじゃまくさいだけ、と言ったら怒られるか。抱いてほしいと私が言うのだから、黙ってしてくれるか。

 私に望まれたから、抱く。処女を奪ってくれる。

 そんなNを想像して「ずるい」と言うのも変なのだけど、その時は、そう思ってしまったのだ。他に、私のバージンをもらってくれそうな男性は皆無だった。


 Nとは結局、また会ってしまった。ランチを済ませ、ベンチに腰かけていると、Nがまじめな声で、

「キスしたら、怒る?」

「えっ」

「殴りそうな声出すね」

 Nがどんな顔で言ったのか、記憶がない。

 私は立ち上がり、どんどん歩き出した。追いかけてくる気配はなかった。

 確かに、ドスがきいた「えっ」だった。「え」には濁音点がついていただろう。


 私が頭に来たのは、キスそのものではなく、いや、もちろん嫌なんだけど、Nのデリカシーのなさだ。私たちは、お昼にカレーを食べた、その直後にキスの話をもちだされたから。

 ファーストキスなんだよ。

 それがカレー臭い、なんて最悪ではないか。

 おまけに相手はN、有り得ない。


 キスの前には前段階がある。手を握る、というやつ。

 それをすっとばしたのは、何故だろう、と今になって考える。

 Nが手をつなごうとしたら、その時点で、私はNと絶交したはずだ。それが怖くて、いきなりキスの話を持ち出した?

 勝算はあったのだろうか、私がキスに応じるという。いつまでたっても自分に好意を抱いてくれないことに気づき、最後に確認したかったのか、と思ったりもする。


 キスしたら怒るか、と口にしたのも気に食わなかった。いきなり迫られたほうがマシだ、突き飛ばして逃げただろうけど。

 要するに、Nとは何もしたくない。もう、嫌だなあと思いながら会うこともなくなる。

 縁が切れて、すっきりした。



 三年生のゴールデンウィーク。

 短大を卒業し、横浜で働き始めた詩織を私は訪ねた。

 古いアパートの一室。詩織が、珍しく腹を立てている。

 なんと、同じクラスだったR君が、付き合っていた彼女を妊娠させ、中絶させて別れたという。

「男は加害者、女は被害者」の記事を思い出してしまった。

「Rのやつ、『これからも彼女を見守っていきたい』

 だって。バカ、って言ってやった」

 詩織はそう吐き捨て、

「ほんと、バカだね」

 私も呆れた。


 妊娠、中絶、別れ。心身ともに深く傷ついた彼女を、原因をつくった張本人が、どう「見守る」のか。

 こういう場合、ひと昔前なら「責任をとって結婚する」ものなのだが。彼に勇気がなかったのか、彼女が望まなかったのかは不明。別れる、という結論があるだけだ。

 だったら、きっぱりと終わらせ、彼女の幸せを祈るしかないだろう。

「これからも見守っていきたい」とは、なんだ。ストーカー行為でもするつもりか。


 男って、わからない。

 ヘンなセンチメンタリズムだと思う、R君の場合は。

 では、Nの場合は。

 この時、Nのことは忘れ果てていた。完全に過去の存在だったのだ。

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