お猪口

ハクセキレイ

第1話

まずは物を捨てましょう。本にはそう書かれていた。だからとにかく捨てることにした。「財産目録」や「公正証書」なんかと違って分かりやすくていい。

45リットルのゴミ袋を片手に手当たり次第に捨てていく。退職してから着ていないスーツや、ネクタイ。度の合わなくなったメガネ。埃をかぶった古いデジカメ。

2LDKの部屋には元々大して物はない。作業はどんどん進んでいく。洋子がいればもったいないと騒いだだろうが。

次は台所だ。台所は洋子の領地だったから、何があるのか見当もつかない。特に食器棚。天井まである大きな棚だ。両開きの戸を開けると、中には見たこともない小鉢や小皿が詰まっている。

洋子はこの手の物が好きだった。小鼠みたいに溜め込んで、結局ほとんど使わなかった。

「いいじゃない、かわいいんだから。いつか使うわよ」

花の形をした小皿に、フクロウを模した箸置き。これを使う「いつか」の機会はもう来ない。一つ一つゴミ袋へと入れていく。

あの日、昼前になっても洋子は起きて来なかった。ベッドに横になったまま、声をかけても反応はない。体に触れると冷たくなっていた。脳溢血だった。苦しむことはなかったでしょう、と医師は言った。

袋はすぐに一杯になった。洋子が溜めた「いつか」は積み重なって、ずしりと重い。

人生なんてつまらないものだ。こんな些細な希望や願いを積み上げてみても、突然、跡形もなく崩れ去る。だから、積み上げるのはやめにして、崩れ去る準備をするのだ。

気がつくと、食器棚は空になっていた。

空になった洋子の「いつか」。

なんだか身体が軽くなった気がした。フワッとどこかへ飛んでいけそうな、そんな感覚。このまま高く舞い上がって、洋子に会いにいくのもいいかもしれない。

その時、地面が崩れ去るような、大きな音が響いた。床に置いた袋一杯の「いつか」が倒れていた。こぼれた小物が床に散らばる。目の前に小さな焼き物が二つ、転がってくる。

「いつか二人で晩酌するのもいいじゃない。何かほら、特別な日に」

そう言って、洋子が買ってきたお猪口。

そのお猪口は鮮やかな緑の釉薬がかかってとても綺麗だった。小さな見た目の割に、確かな重みがある。いかにも洋子が好きそうだ。

そのお猪口はなんとなく、ゴミ袋に戻す気になれなくて、食器棚の真ん中にそっと戻した。

いつかまた、洋子と一緒に晩酌をする時に使おう。そう、いつかまた。

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お猪口 ハクセキレイ @MalbaLinnaeus

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