101日目

 目覚めてすぐ、部屋が広いと感じた。


 背中を起こす。一人で眠るには大きすぎるベッドに、一人で眠っていた自分を改めて認識し、佑馬は額に手をやって静かに息を吐いた。いつも隣で寝ている人間がいないだけで、こんなにも違和感があるとは。いつか慣れる日が来るのだろうか。いつの間にか、二人で眠ることに慣れていたように。


 ベッドから降り、洗面所に向かう。歯磨きと髭剃りと洗顔を済ませた後は、リビングでアクアリウムの魚たちに餌をやり、自分の餌としてコンビニで買っておいたサンドイッチを食卓で頬張る。「今日一番ラッキーなのは水瓶座のあなたです」。朝の情報番組からそう告げられ、続けて「大きな決断をすると良い結果が出ます」と言われ、思わず笑みがこぼれた。良い結果ってなんだよ。誰も聞いてやしないのに、声には出さず心の中で呟く。


 しばらくソファで休み、時間が来たら寝室へ。スーツに着替え、ビジネスバッグを手に寝室を出る。リビングのドアを開けようとした時、ほとんど無意識に口が開いた。声は無意識には出なかったが、勢いで吐き出す。


「行ってきます」


 外に出る。マンションから徒歩で駅へ。駅から電車で別の駅へ。いつもの出社ルートをいつものように進みながら、いつもとはまるで違うことを考える。「大きな決断をすると良い結果が出ます」。笑い飛ばしたはずの星占いを脳内で繰り返し、おびえる心の支えにして、両足を支える力に変える。


 会社の最寄り駅に着いた。駅を離れるにつれてスーツ姿の集団がまばらになり、一人きり戦場に放り出されたような気分になる。歩くたびに鼓動が早まり、やがて会社のビルに着く頃には、入社試験の時の方がマシだったと言い切れるほど心臓が早鐘を打っていた。バッグからストラップのついた社員証を取り出し、首にかけてビルに足を踏み入れる。


 エレベーターの前で、若い女性から「おはようございます」と声をかけられた。経理の社員。「おはようございます」と返事をして、ちょうど到着したエレベーターに一緒に乗り込んで雑談を交わす。


「ドキュメンタリーを撮ってるって聞いたんですけど、本当ですか?」

「本当ですよ。撮影はもう終わりましたけど」

「うちにも来て、撮影したんですよね」

「はい」

「いつ放送されるんですか?」

「分かりません。あとたぶん、会社は映りませんよ」


 チーン。


 エレベーターが停まった。女性より先に廊下に出て、彼女の少し前を歩く。自分は話したくないけれど、気になるなら話しかけてくればいい。そういうメッセージを背中で放ち、何も聞かれないままオフィスに着く。


 受付を抜けて自分のデスクへ。バッグを提げている右手に力がこもる。一歩一歩デスクに近寄りながら、朝の星占いを呪文のように暗唱する。


 大きな決断をすると良い結果が出ます。

 大きな決断をすると良い結果が出ます。

 大きな決断をすると良い結果が出ます。


「おはようございます」


 バッグをデスクに置き、挨拶を口にする。まず隣の同僚が「おはよー」と挨拶を返して来た。それから間を置かず、はす向かいのデスクから低い声が届く。


「おはよう」


 いい声だな。素直にそう思う。一時は恋愛感情を覚えていた相手だからか、声や顔のような生得的要素については、どうしても評価が甘くなってしまう。


「久保田さん」


 呼びかけると、久保田が「どうした?」と座ったまま用件を尋ねてきた。しかし佑馬はそれに応えず、自分のデスクを離れて久保田の前に立つ。唇を引き絞って自分を見下ろす佑馬を見上げながら、久保田が困惑したようについさっきと同じ言葉をもう一度放った。


「どうした?」


 どうもしていない。やるべきことをやる。それだけだ。


「――色々、考えました」


 考えた。平日も休日も、会社にいる時もいない時も、顔を合わせている時も合わせていない時もずっと考え続けていた。どうするべきなのか、どうしたいのか、何度も繰り返し自分に問いかけていた。


「きっと、そんな大げさな悪意があったわけじゃないんだと思います。昔の友人の前で悪ぶって、必要以上に酷い言い方をしてしまった。そういう面が少なからずあるんだと思います。そうじゃなきゃ、今日まで僕と一緒に仕事をできるわけがない。久保田さんから大切なことを学んだと、僕が思えているはずがない」


 久保田の目が大きく泳いだ。察しがいい。そういうところが、好きだった。


「でも」右の拳を固める。「あなたのせいで、僕たちはめちゃくちゃになった」


 分かっている。それは言いがかりだ。すれ違いは原因ではなく答え。春日佑馬と長谷川樹の関係が壊れたのは双方の性質から来る当然の帰結であって、万事上手く行っていたものをたった一つのいざこざが破壊したという、簡単で分かりやすくて都合のいい話ではない。


 だけど――それがどうした。


「許せないなら、許さなくていい」


 久保田から伝えられた言葉を、久保田に向かって伝え返す。あの言葉をこの人から聞いていて良かった。そうでなければ、きっとこの拳は握れなかった。


「僕は――許しません」


 腕を振り上げる。久保田の顔が驚愕の色に染まる。やっちまえ。愉快そうに囃し立てる樹の声が、鼓膜の内側でじんと響いた。

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