なんて多様な

 リビングを出て、廊下を歩き玄関に向かう。


 距離にして数メートル、時間にして数秒の道のりを、佑馬はやけに長く感じた。玄関のドアも鋼鉄で出来ているのではと思えるほどに重たい。成すべきことは全て終わったのに、もうどうしようもないのに、まだ恐れている。そんな自身の小ささに、呆れを通り越して愛おしさを覚える。


 外に出ると、部屋の真正面の壁によりかかっていた樹と山田が、同時に顔を上げて佑馬の方を見た。佑馬は二人に歩み寄り、樹に声をかける。


「お前の番だぞ」

「りょーかい」


 樹が歩き出し、佑馬とすれ違って部屋に入った。佑馬は樹に代わって山田の隣に立つ。山田が顎を引き、探るように佑馬に話しかけてきた。


「どうでした?」

「どうって言われても……後で映像を確認して貰えれば分かるよ」

「そうっすか」


 山田が口を閉じ、スマホを取り出して弄り始めた。佑馬も同じように山田から目を離してスマホと向き合う。気まずい。素直にそう思いながら、ただ時間をやり過ごすため、右手の親指をディスプレイに走らせる。


 ガチャ。


 ドアの開く音。樹かと思って顔を上げると、玄関のドアが開いたのは佑馬の部屋ではなくその隣であり、現れたのは樹ではなくパンプスを履いた若い女性だった。壁を背にして並ぶ男二人を前に、女性が怪訝そうに眉をひそめる。そして逃げるようにエレベーターの方に向かい、ヒールがコンクリートを叩く音が人気のない廊下にカツカツと響いた。


「お隣さん、めっちゃ怪しんでましたね」


 スマホを弄る手を止め、山田が呟きをこぼした。佑馬は呟きに応える。


「怪しいからね」

「隣の部屋の住人だって、分かってないんすかね」

「分かってないんじゃないかな。僕も顔を見たのは二回目ぐらいだから」

「挨拶とかしなかったんすか?」

「今時そんなことしないよ」

「オレはやりましたよ。アパートの部屋全部回ったっす。大家に回れって言われたからっすけど」


 話を聞きながら、一度だけ訪れた山田のアパートを思い返す。あの昔ながらのアパートなら、そういうこともあるかもしれない。


「安いんで、住んでるやつのバリエーションも豊かなんすよね。聞いたことない国の外国人とかもいて、ザ・多様性って感じ」

「多様性ねえ」

「つっても、全員と仲良くするのは無理っすけどね。やっぱ合う合わないはあるじゃないっすか」

「そうだね」

「オレ、春日さんのこと、ぶっちゃけ苦手でした」


 山田の視線が、大きく下がった。

 灰色の床を見つめ、山田が黙りこくる。そういうことになるならわざわざ言うなと思いつつ、佑馬も黙って山田の動向を見守ることにした。やがて山田が自分の首筋を掻き、俯いたまま語り出す。


「住む世界が違うと思ってたんすよね。育ち良さそー、いけ好かねー、みたいな。まあ別に何されたってわけじゃないんで、単にオレが性格悪いだけなんすけど……なんか、すいません」


 山田が頭を下げた。とはいえ、元から下を向いているのであまり真摯に謝られた感じはしない。謝って欲しいとも思っていないので、別に構わないが。


「いいよ。俺も山田くんのこと、合わないと思ってたから」


 やり返す。山田が「そうっすよね」と乾いた笑みを浮かべた。そしてデニムのポケットに手を入れ、壁に背をつけて中空を見上げる。


「こんだけ一緒にいて、オレら、まともに話したことほとんどないっすもんね」

「茅野さんと樹もほとんど話してないけどね」

「そうっすね。オレと長谷川さん、志穂さんと春日さんって感じでした」


 山田が遠い目をして、自分自身に問うように呟きをこぼした。


「多様性を認めるって、どういうことなんすかね」


 放たれた声が、マンションの狭い廊下に薄く広がる。


「色んな人間がいて、話しやすいやつと話しにくいやつがいて、それってもうどうしようもないじゃないっすか。そういうの我慢して、話しにくいやつとも話す。そうしろってことなんすかね」


 山田の眉間にはしわが寄っていた。不愉快なのではない。考えているのだ。おそらくその手の話題には鈍感なタイプの若者で、佑馬は山田のそういうところが苦手だったのだが、それがこのドキュメンタリーの撮影を通してわずかながら変わろうとしている。


 ――世界を変えるような番組を、一緒に作り上げましょう。


 茅野たちとの顔合わせで口にした台詞が、佑馬の脳裏に蘇った。佑馬はなるたけ優しい声を作り、山田と同じように虚空に向かって語りかける。


「世界が多様なのは、単なる事実だよ」


 山田が振り向いた。佑馬は横目で山田を見て、また斜め上に視線を戻す。


「地球が回っているのと同じで、ただそうなってるってだけの話。それで、現代では地動説が正しいってことになってるけど、昔は違っただろ。天動説の方が正しい扱いされていて、教科書とか物語とか色々なものがその前提で作られていた。だけど地動説の正しさが認められて、社会の常識も変わっていった」


 誰が認めなくても世界は多様なのだ。それは何をしたって変えられない。変えられるものがあるとしたら、そういう世界をどう認識するかだけ。


「そういうことだと思うよ。地球が回っているのを認めるように、世界が多様なのを認める。当たり前のことを当たり前として受け入れる。仲良くするとか、優しくするとか、そういうのはその先の話だ」


 分かったかな。そういう視線を山田に送る。山田が腕を組み、首を傾げながら口を開いた。


「上手く言えないっすけど」正直な前置き。「いけ好かないやつもちゃんと生きてることは、忘れないようにしようと思いました」


 素朴すぎるまとめに、佑馬はつい吹き出しそうになった。だけど堪えて「それでいいよ」と答える。いきなり求めすぎるのは良くない。それに、中学生が道徳のビデオを観た時の感想のような言葉だからと言って、それが芯を捉えていないとは限らない。シンプルな言葉にこそ、大切なものが潜んでいたりする。


 ガチャと、ドアの開く音が佑馬の耳に届いた。


 さっき同じ音が聞こえた時のように、佑馬と山田が一斉に正面を向く。今度は開いたのは佑馬の部屋のドアで、中から出てきたのは樹だった。樹が左手でドアを抑えたまま、右手の親指で室内を指さす。


「終わったぞ」


 そうか。か。佑馬は壁から背を離し、右足を前に踏み出しながら、短くはっきりと答えた。


「今行く」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る