にんげんだもの

「なるほどねえ」


 ホットのカフェモカが入ったカップに口をつけ、片桐がしみじみと呟く。休日の喫茶店は人も雑音も多いのに、張りのある声ははっきりと佑馬の耳に届いた。実直な性格がこの声質を生んだのか。あるいは、この声質だから実直な性格になったのか。置かれている状況から逃げるように、そんな他愛もないことを考える。


「昔から、どうでもいいことは慎重なのに、大切なことは大胆だよね」


 そうかもしれない。家族にも、友人にも、恋人にも、似たようなことを言われた経験がある。臆病なのだ。壊してしまうのが怖くて、宝物には触れない。


「それで」また一口、片桐がカフェモカを飲む。「、はこれでおしまい?」


 LINEで送った言葉を口頭で再現され、佑馬の身体に緊張が走った。終わりではない。布越しに自分の腿を手でつかみ、額をテーブルにつける勢いで深々と頭を下げる。


「すいませんでした」


 別に、会う必要はなかったのかもしれない。


 それでも会って、話して、謝りたいと思った。だから『どうしても話したいことがある』と片桐を呼び出して喫茶店に入り、今日に至るまでの全てを話した。それは紛れもなく、エゴだ。自分にとって気持ちの良い形で謝罪を済ませたいというエゴ。そんな自分勝手を優しさや誠実さと勘違いするほど、若くも幼くもない。


 謝りたいから謝った。誰のためでもない、自分のための謝罪。だからどんな反応が返ってきても構わない。構わないはずなのに――怖い。


「今さら、謝られてもねえ」


 億劫そうな声が、佑馬の耳に届く。顔を上げると、片桐は左手でテーブルに頬杖をついて佑馬を眺めていた。そして魔法使いが呪文を使うように、ピッとひとさし指を立てて先端を佑馬に向ける。


「佑馬くんは『どうして私が怒ってるか分かる?』って聞いてくる人間のこと、どう思う?」

「……いきなりどうしたんですか?」

「そういう質問しようと思ったから、先に印象を聞いておこうと思って」


 片桐の右手が下がった。そして問いかけへの返答を待つことなく、狼狽する佑馬を置いて語り続ける。


「私はそういうの、めんどくさいって思っちゃうタイプなんだよね。分からないけど言えば対応するから言えや、みたいな。だからそういうことは聞かないようにしようと思ってたんだけど、今日は封印を解除するわ」

「……怒ってるんですか?」

「うん。どうして私が怒ってるか分かる?」


 予告済みの質問。だけど、まだ準備はできていなかった。佑馬は声をひそめ、探り探り答える。


「嘘ついてドキュメンタリーを受けたから」

「ハズレ」

「最後まで嘘をつき通さなかったから」

「ハズレ」

「……応援してるのに別れたから?」

「そんなわけないでしょ。他人が別れて怒るって、どんだけ自己中なの」


 でも片桐さん、そういうとこあるじゃないですか。そんなフランクな言葉を飲み込む。片桐が頬杖を外し、丸まっていた背中を伸ばした。


「二週間前には、謝れたよね」


 固いトーンの声が、佑馬の鼓膜を貫いて脳を揺らす。


「少なくとも、樹くんと別れ話をした後ならいつでもできた。なのに、これから最後の撮影をしようってところでようやく。その理由、何となく分かるよ」


 片桐がカフェラテのカップに右手を伸ばした。カップの持ち手に指を絡め、だけど持ち上げずに止まる。


「引き返したくなかったんでしょ。だから引き返しづらくなってから謝ることにした。もう少しで完成するトランプタワーを見せられて、こいつを崩してやろうって気はなかなか起きないもの。でも完成後だと逆に崩しやすくなっちゃうから、あと一段乗せればタワーが完成する最後の最後、今日が謝るにはベストだった」


 当たりだ。そして、そんなことを気にするということは――


「つまり、佑馬くんは私がタワーを崩すかもしれないと思った。こんなものは認めない。作り直せって。それがね、ムカつくの。私は自分のこと性格いいと思ってないけど、そこまで根性曲がってもいないから。あんまり馬鹿にしないで」


 怒りの正体を話し、片桐がカップを持ち上げた。そんなつもりはない。馬鹿になんてしていない。片桐がカップを再びテーブルに置くまでの間、佑馬はいくつもの言い訳を脳内に浮かべては消し、最後に残った一つを真っ直ぐ口にした。


「すいません」


 ついさっきと同じく、頭を下げてから上げる。薄紅色のルージュを引いた片桐の唇が、柔らかくほころんだ。


「いいよ。それに、そこまでして自分を通そうとするのは、嬉しくもある」

「嬉しい?」

「佑馬くん、相手が求めているものを考えて、先回りして動くところあるでしょ。それ、相手してる方は楽なんだけど、自分のために動くのも大事だと思うから。人生は一回きりなんだから、やりたいことはやった方がいいよ」


 片桐が視線を横に流した。言葉に似つかわしくない儚げな素振りに、佑馬は意味を感じ取って黙る。やがて座席の横を若者の集団が通り、沈黙が雑談に上書きされたタイミングで片桐が口を開いた。


「私たち」らしくない、頼りない声。「子ども、作ることにした」


 私たち。それが誰を意味するかは、言われなくても理解できた。片桐が佑馬と目を合わせないまま、つらつらと語り出す。


「もう別れてもいいぐらいの勢いで真希とぶつかって、お互い泣きながら喧嘩してたら、隣の人からうるさいって突撃されたのね。それは私が出て行って謝ったんだけど、その後に落ち着いてから真希を見たら、泣きまくったせいで顔がつぶれてて、信じられないぐらいブサイクでさ。笑っちゃって、そのままセックスして一緒に寝たの。そんで次の日に起きて、隣で寝てる真希を見てたら、なんか子ども作ってもいいかなって思った」


 片桐が力なく笑った。行き場のない感情を誤魔化すように、耳のフープピアスを撫でる。


「意味わかんないよね。私も意味わかんないもん。なんでそうなるんだかって感じ」

「人間だからですよ」


 片桐が、佑馬の方を向いた。


 見つめられている自分を意識しながら、佑馬は出来得る限りの真剣な顔を作って片桐と向き合う。言葉遊びにも捉えられかねない台詞だ。本気を、態度で伝えなくてはならない。


 子どもを作るか作らないかで揉めるなんて、男女の恋人にだって普通にある。自分たちは人間だ。他の人間と同じように人間。それ以上でも、それ以下でもない。


「僕たちが、人間だからです」


 繰り返す。片桐が細い息を吐き、小さく呟いた。


「かもね」


 声に、張りが戻っていた。それからしばらく他愛もない会話を交わし、撮影の時間が近づいてきて解散する。電車に乗り、マンションに向かいながら、これからカメラの前で語るべきことを頭の中で繰り返し反芻する。


 マンションの最寄り駅に着いてすぐ、樹からメッセージが届いた。『来てるぞ』。佑馬は雑なメッセージに苦笑いを浮かべ、『もう駅まで来てるから、少し待ってもらって』と返信を打つ。四文字に二十文字も返したことに敗北感を覚えたが、不思議と気分は悪くなかった。


 マンションに着き、部屋に入る。リビングに足を踏み入れるや否や、樹と茅野と山田の視線に一斉に射抜かれ、佑馬は軽くたじろいでしまった。すぐに立て直し、三人の中から茅野を選んで声をかける。


「すいません。遅くなりました」

「いえ。我々も今来たところですので」

「なら良かった。じゃあグダグダしていても仕方ないし、始めましょうか」

「んじゃ、俺ら外出てるんで」


 ソファに座っていた樹が立ち上がり、リビングから廊下に出るドアに向かって歩き出した。さらに山田もカメラを床に置いて樹の後について行く。不意をつかれた佑馬は戸惑い、今まさにリビングから出て行く樹に慌てて声をかけた。


「どこ行くんだよ」

「外。インタビュー聞きたくねえから」

「はあ?」

「長谷川さん、さすがにそれは伝わらないっすよ」


 山田が割って入ってきた。そして樹と佑馬を交互に見やり、説明を始める。


「長谷川さんの希望で、春日さんと長谷川さん、片方がインタビューされてる時もう片方は外に出ることになったんすよ。まあ長谷川さんが自分のインタビュー聞かれたくないって話なんで、今はいてもいい気がしますけど……」

「やだよ。俺だけ聞くの、なんかしっくり来ねえし。どうしても聞いて欲しいって言うなら聞いてやってもいいけど」


 樹がぶっきらぼうに言い放つ。挑発的な物言いに、佑馬の語気も粗くなった。


「要らねえよ。さっさと出て行け」

「おう。じゃあな。終わったら連絡くれや」


 ドアを開け、樹がリビングから出て行った。山田もちらちらと佑馬を伺いつつ、樹を追って行っていなくなる。茅野が山田の置いていったカメラを肩に担ぎ、背後から佑馬に話しかけてきた。


「では、始めましょう。そこのソファに座ってもらえますか?」

「いいですけど……茅野さんがカメラマンやるんですか?」

「はい。これは私の要望です。話しやすい環境を作りたいので、インタビューは一人で行わせていただくことになりました」


 茅野がソファの前に屈んだ。どうやら、自分がいない間に色々と話が進んでしまったらしい。腑に落ちないものを感じるが、まずは言われた通りソファに座る。


「よし、動いた」

「重そうですけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。これでも新人の頃はカメラマンもやっていましたから」


 そう答えるや否や、茅野がぐらりとバランスを崩した。そのまま転びそうになるがどうにか持ち直し、何事もなかったかのようにレンズとマイクを向けてくる。何事もないわけないだろう。


「僕は別に二人いてもいいですよ」

「でも一人の方が圧は少ないでしょう?」

「それはそうですけど、そのせいでいい画が撮れなかったら本末転倒では?」

「そんなことはないですよ。一番大事なのは、言葉です。表情や仕草も重要といえば重要ですが、それを綺麗に撮ろうとすることが言葉をほんの少しでも邪魔するならば、私は切り捨てていいと思っています。それに――」


 茅野が黙った。そしてしばらく待ってから、続きを語り出す。


「私は一対一で春日さんと話がしたいんです。一人の人間として、一人の人間と真正面から向き合いたい。本当にやりたいのは撮影ではなく対話なんです」


 一人の人間として向き合いたい。茅野の言葉が、佑馬の脳裏からおよそ一か月前の記憶を引っ張り出した。このリビングで茅野と向き合い、お前は長谷川樹という人間と向き合っていないと説教された、あの夜の出来事を。


「なら、いっそカメラ抜きでもいいのでは?」

「撮影しなくていいわけでもありませんから。タレントさんならともかく、春日さんは一回語ったことをもう一回カメラの前で語ってくれと言われても、力のある言葉は放てないでしょう?」

「確かに」


 佑馬は頷いた。語るだけなら可能だ。むしろ一回目より二回目の方が流暢に語れるかもしれない。だけど耳触りが良くなった分、一回目に込められていたパワーは間違いなく失われる。


 撮影ならばそれで良いのだろう。綺麗な映像を残すことが目的ならば、リハーサルを重ねて語りが流暢になるのはむしろ美徳だ。だけど今日の茅野は違う。対話がメインで撮影がおまけ。そんな、お前の仕事は一体何なんだと怒られてもおかしくなさそうなことを、平然と言ってのけている。


「茅野さん、変わりましたね」


 素直な感想がこぼれた。茅野が目を丸くする。


「そうですか?」

「映像より言葉が大事というのはともかく、やりたいのは撮影ではなく対話だというのは、出会った頃の茅野さんだったら言わなかった気がします。見当違いなら申し訳ないですが」

「いえ。それは私もそうだと思います。仕事に私情を挟んでいるようなものですから、昔の私なら後ろめたくて隠したでしょう」


 後ろめたさを感じていないわけではない。そう伝えるように、茅野の声がわずかに陰りを帯びた。だけどすぐ、そんなものを感じている暇はないと伝えるように明るく跳ねる。


「ただ、気づいたんです。人のやることに感情を乗せないのは不可能だって。どう足掻いたって仕事に私情は挟まれる。だったら、私情を挟んでもいいですかと許可を取ってやればいい。そう思いました」


 言い分を聞き、佑馬の顔に笑みがこぼれた。感情を乗せないのは無理。ならば許可を取って乗せればいい。無茶苦茶だ。だけど――嫌いではない。


「僕は、今の茅野さんの方が好きですね」

「ありがとうございます。ところで、そろそろいいですか?」

「はい。準備は出来ています」

「分かりました。では、よろしくお願いします」


 茅野がカメラを構え直した。佑馬は咳払いをして喉を通し、次に腿に手を乗せて姿勢を正す。この場で何を言うべきか、今日までずっと考えてきた。その第一声はもう揺るぎなく決まっている。


「申し訳ありません」


 頭を下げる。今日は謝ってばかりだな。そんなことを考えて、おかしくなって頬がゆるんでしまった。顔を伏せたまま気分を引き締め直し、ゆっくりと上体を起こしてカメラを見据える。


「僕、春日佑馬と長谷川樹は、このドキュメンタリーの撮影が始まった時、既に交際関係にはありませんでした」

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